月曜日の放課後。
僕は再び、路地裏にひっそり構える、古い画材店の前に立っていた。
数日前、ここに来た時の僕は、色という存在に怯えることしかできなかった。
看板の文字を見るだけで手が震え、店内に溢れる色彩は、過去の自分を責め立てる刃のように見えていた。
けれど、今は違う。
僕はポケットの中で、羽白さんからもらった切符の端を指先でなぞった。
『秋月くんを苦しめる青もあれば、誰かを守るためにある青も、きっとある』
彼女がくれたその言葉が、凍りついていた僕の心を、ゆっくりと溶かしていく。
僕は深く息を吸い込み、重い木製の扉を押し開けた。
カラン、という乾いたベルの音が、静かな店内に響き渡る。
店内に漂う、油絵具の匂いと、古い紙のどこか懐かしい埃っぽさ。
あの日までは僕を拒絶していたこの空気さえ、今は心地よい緊張感を持って僕を迎えてくれた。
「いらっしゃい。……おや、湊くん。また来てくれたんだね」
カウンターの奥で眼鏡を拭いていた店主が、僕の姿を認めると、驚いたように手を止めた。
「今日は……逃げ出さずに済むかな?」
「……はい。今日は、欲しいものがあって来ました」
僕は店主の穏やかな視線を正面から受け止め、そのまま迷わず、店の奥にある色鉛筆の棚へと向かった。
棚には、世界中の風景を切り取ったような無数の色彩が、整然と並んでいる。
かつてのように油彩のパレットを広げる勇気は、まだない。
青色を手にするのも、もう少し時間がかかりそうだ。
けれど、今の僕には、彼女が教えてくれる世界を、一本ずつ自分の手で拾い集めていきたいという、切実な願いがあった。
何百色と並ぶグラデーションの前で、僕は立ち止まる。
今までなら、彩度の高い鮮やかな赤や、深い青に目を奪われていただろう。
けれど、今日、僕の指が吸い寄せられるように伸びたのは、それらとは正反対の、ひどく静かな一色だった。
それは、紫のようでもあり、灰色のようでもある。
どこか沈んでいて、けれど誰の邪魔もせず、そこにただ穏やかに佇んでいる色。
僕はその一本を引き抜き、掌に乗せた。
軸に刻まれた名前は「ラベンダー」。
明日、彼女にこれを見せて、和色の名前を聞いてみたかった。
彼女は、この地味で、けれど不思議と心が落ち着く色を、どんな美しい名前で呼ぶのだろう。
「……これにします」
僕はその名も知らぬ紫の一本と、真っ白なスケッチブックを一冊手に取った。
レジに向かう僕の足取りには、自分でも驚くほどの熱が宿っていた。
弟が愛してくれた「青」だけではない。
彼女が愛し、僕に再び与えてくれた、この鮮やかな世界すべてを、もう一度自分の手でなぞり直したい。
その渇望が、胸の奥で打ち鳴っていた。
「湊くん、いい色を選んだね。夕暮れが夜へと溶けていく一瞬の色だ」
店主は、レジに置かれた紫を慈しむように見つめ、丁寧に紙袋へ収めていく。
「色を知ることは、その奥にある心を深く知ることに似ている。……君が今、その色を届けたいと思う相手にとって、それはきっと、何よりの支えになるはずだよ」
店主の言葉が、今の僕の胸にすとんと落ちた。
支えたい。
彼女が僕に「月白」という杖をくれたように。
今度は僕が、自分の力で選んだこの色が、彼女の隣を歩くための力になりたい。
店を出ると、街はすでに、僕が手にした色鉛筆と同じ色の夕闇に包まれ始めていた。
僕は、カバンに入れた新しい色鉛筆の重みを誇らしく感じながら、家路を急いだ。
明日、この色を彼女に見せたら、彼女はどんなふうに笑うだろう。
「秋月くん、それはね……」と、いつものように得意げに名前を教えてくれる姿を想像するだけで、僕の視界はかつてないほど鮮やかに彩られていた。
僕は再び、路地裏にひっそり構える、古い画材店の前に立っていた。
数日前、ここに来た時の僕は、色という存在に怯えることしかできなかった。
看板の文字を見るだけで手が震え、店内に溢れる色彩は、過去の自分を責め立てる刃のように見えていた。
けれど、今は違う。
僕はポケットの中で、羽白さんからもらった切符の端を指先でなぞった。
『秋月くんを苦しめる青もあれば、誰かを守るためにある青も、きっとある』
彼女がくれたその言葉が、凍りついていた僕の心を、ゆっくりと溶かしていく。
僕は深く息を吸い込み、重い木製の扉を押し開けた。
カラン、という乾いたベルの音が、静かな店内に響き渡る。
店内に漂う、油絵具の匂いと、古い紙のどこか懐かしい埃っぽさ。
あの日までは僕を拒絶していたこの空気さえ、今は心地よい緊張感を持って僕を迎えてくれた。
「いらっしゃい。……おや、湊くん。また来てくれたんだね」
カウンターの奥で眼鏡を拭いていた店主が、僕の姿を認めると、驚いたように手を止めた。
「今日は……逃げ出さずに済むかな?」
「……はい。今日は、欲しいものがあって来ました」
僕は店主の穏やかな視線を正面から受け止め、そのまま迷わず、店の奥にある色鉛筆の棚へと向かった。
棚には、世界中の風景を切り取ったような無数の色彩が、整然と並んでいる。
かつてのように油彩のパレットを広げる勇気は、まだない。
青色を手にするのも、もう少し時間がかかりそうだ。
けれど、今の僕には、彼女が教えてくれる世界を、一本ずつ自分の手で拾い集めていきたいという、切実な願いがあった。
何百色と並ぶグラデーションの前で、僕は立ち止まる。
今までなら、彩度の高い鮮やかな赤や、深い青に目を奪われていただろう。
けれど、今日、僕の指が吸い寄せられるように伸びたのは、それらとは正反対の、ひどく静かな一色だった。
それは、紫のようでもあり、灰色のようでもある。
どこか沈んでいて、けれど誰の邪魔もせず、そこにただ穏やかに佇んでいる色。
僕はその一本を引き抜き、掌に乗せた。
軸に刻まれた名前は「ラベンダー」。
明日、彼女にこれを見せて、和色の名前を聞いてみたかった。
彼女は、この地味で、けれど不思議と心が落ち着く色を、どんな美しい名前で呼ぶのだろう。
「……これにします」
僕はその名も知らぬ紫の一本と、真っ白なスケッチブックを一冊手に取った。
レジに向かう僕の足取りには、自分でも驚くほどの熱が宿っていた。
弟が愛してくれた「青」だけではない。
彼女が愛し、僕に再び与えてくれた、この鮮やかな世界すべてを、もう一度自分の手でなぞり直したい。
その渇望が、胸の奥で打ち鳴っていた。
「湊くん、いい色を選んだね。夕暮れが夜へと溶けていく一瞬の色だ」
店主は、レジに置かれた紫を慈しむように見つめ、丁寧に紙袋へ収めていく。
「色を知ることは、その奥にある心を深く知ることに似ている。……君が今、その色を届けたいと思う相手にとって、それはきっと、何よりの支えになるはずだよ」
店主の言葉が、今の僕の胸にすとんと落ちた。
支えたい。
彼女が僕に「月白」という杖をくれたように。
今度は僕が、自分の力で選んだこの色が、彼女の隣を歩くための力になりたい。
店を出ると、街はすでに、僕が手にした色鉛筆と同じ色の夕闇に包まれ始めていた。
僕は、カバンに入れた新しい色鉛筆の重みを誇らしく感じながら、家路を急いだ。
明日、この色を彼女に見せたら、彼女はどんなふうに笑うだろう。
「秋月くん、それはね……」と、いつものように得意げに名前を教えてくれる姿を想像するだけで、僕の視界はかつてないほど鮮やかに彩られていた。
