図書館を出る頃には、山の端に巨大な太陽が重なり始め、世界は鋭い青から柔らかな橙色へと塗り替えられていた。
行きにあれほど僕の肺を苦しめた険しい山道も、帰りは不思議と足取りが軽い。
肺の奥に数年間こびりついていた冷たく重い澱が、あの縹色の光によって洗い流されたような、奇妙な充足感が全身を満たしていた。
「ねえ、秋月くん! 結局、今日一番のお気に入りはどの青だった?」
羽白さんは、先ほどまでの震えや眩しそうな仕草が嘘だったかのように、弾んだ声で僕を振り返った。
坂道を軽やかに駆け下りる彼女の白いワンピースが、低い夕陽を浴びて黄金色の輪郭に縁取られている。
その姿は、この世に繋ぎ止められた天使のようでもあり、今にも夕闇に溶けてしまいそうな幻のようでもあった。
「……そうだな。……最後に見た、あの『縹色』かな」
「だよね! 私も。あの光、本当に弟さんが笑ってるみたいにキラキラしてたもん」
羽白さんは無邪気に笑い、駅へと続く道をスキップするように進んでいく。
けれど、僕は彼女の細い背中を見つめながら、拭いきれない違和感を胸の奥に抱えていた。
さっき、彼女の手を握った時の、あの消えてしまいそうな微かな震え。
何度も、何度も、世界の焦点を確かめるように不自然な瞬きを繰り返していた、あの落ち着かない瞳。
彼女が明るく振る舞えば振る舞うほど、彼女の周りだけ、世界の解像度が少しずつ落ちているような……そんな不吉な予感が、胸の端をチリリと焼く。
「……羽白さん。さっき、本当に大丈夫だって言ったけど……」
言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。
ここで問い詰めて、彼女のこの眩しい笑顔を壊してしまうのが、今の僕には何よりも怖かった。
彼女が「大丈夫」と言うのなら、今はそれを信じるふりをする。
それが、今の僕にできる唯一の——彼女の「名付け」に対する報いのような気がしたんだ。
やがて辿り着いた駅のホームに、一両きりのワンマンカーが滑り込んできた。
オレンジ色の灯火に満ちた車内に揺られながら、羽白さんは窓の外を流れる夕景を、まるで二度と見られない宝物を慈しむように、じっと見つめている。
「秋月くん。……次はね、もっと違う色を探しに行こう?」
羽白さんが、窓ガラスに映る僕の目を見て言った。
実像ではなく、揺れる虚像を通して見つめ合う。
「違う色?」
「うん。……青はもう、君の味方になったから。次は、もっと強くて、もっと命の匂いがするような色。……例えば、燃えるような『緋色』とか」
「緋色……赤、か」
「そう。……秋月くんが、もう一度パレットにすべての色を並べられるようになるまで。……私のわがままな『色探し』に、まだ付き合ってくれる?」
彼女の問いは、どこか切実な「遺言」のようにも響いた。
僕は、彼女の横顔を静かに見つめ、祈りを込めるようにしてゆっくりと頷いた。
「……ああ。……羽白さんが見たい色があるなら、どこへでも付き合うよ」
僕が答えると、羽白さんは今までで一番深く、そしてどこか安堵したような満足そうな笑みを浮かべた。
電車が街の灯りの中へと入っていく。
僕のポケットの中には、彼女から受け取ったあの一枚の切符が、まだ大切にしまわれていた。
「青」という過去の呪縛を克服したはずの僕の心に、名付けようのない新しい影が、静かに、けれど確実に落ち始めていた。
行きにあれほど僕の肺を苦しめた険しい山道も、帰りは不思議と足取りが軽い。
肺の奥に数年間こびりついていた冷たく重い澱が、あの縹色の光によって洗い流されたような、奇妙な充足感が全身を満たしていた。
「ねえ、秋月くん! 結局、今日一番のお気に入りはどの青だった?」
羽白さんは、先ほどまでの震えや眩しそうな仕草が嘘だったかのように、弾んだ声で僕を振り返った。
坂道を軽やかに駆け下りる彼女の白いワンピースが、低い夕陽を浴びて黄金色の輪郭に縁取られている。
その姿は、この世に繋ぎ止められた天使のようでもあり、今にも夕闇に溶けてしまいそうな幻のようでもあった。
「……そうだな。……最後に見た、あの『縹色』かな」
「だよね! 私も。あの光、本当に弟さんが笑ってるみたいにキラキラしてたもん」
羽白さんは無邪気に笑い、駅へと続く道をスキップするように進んでいく。
けれど、僕は彼女の細い背中を見つめながら、拭いきれない違和感を胸の奥に抱えていた。
さっき、彼女の手を握った時の、あの消えてしまいそうな微かな震え。
何度も、何度も、世界の焦点を確かめるように不自然な瞬きを繰り返していた、あの落ち着かない瞳。
彼女が明るく振る舞えば振る舞うほど、彼女の周りだけ、世界の解像度が少しずつ落ちているような……そんな不吉な予感が、胸の端をチリリと焼く。
「……羽白さん。さっき、本当に大丈夫だって言ったけど……」
言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。
ここで問い詰めて、彼女のこの眩しい笑顔を壊してしまうのが、今の僕には何よりも怖かった。
彼女が「大丈夫」と言うのなら、今はそれを信じるふりをする。
それが、今の僕にできる唯一の——彼女の「名付け」に対する報いのような気がしたんだ。
やがて辿り着いた駅のホームに、一両きりのワンマンカーが滑り込んできた。
オレンジ色の灯火に満ちた車内に揺られながら、羽白さんは窓の外を流れる夕景を、まるで二度と見られない宝物を慈しむように、じっと見つめている。
「秋月くん。……次はね、もっと違う色を探しに行こう?」
羽白さんが、窓ガラスに映る僕の目を見て言った。
実像ではなく、揺れる虚像を通して見つめ合う。
「違う色?」
「うん。……青はもう、君の味方になったから。次は、もっと強くて、もっと命の匂いがするような色。……例えば、燃えるような『緋色』とか」
「緋色……赤、か」
「そう。……秋月くんが、もう一度パレットにすべての色を並べられるようになるまで。……私のわがままな『色探し』に、まだ付き合ってくれる?」
彼女の問いは、どこか切実な「遺言」のようにも響いた。
僕は、彼女の横顔を静かに見つめ、祈りを込めるようにしてゆっくりと頷いた。
「……ああ。……羽白さんが見たい色があるなら、どこへでも付き合うよ」
僕が答えると、羽白さんは今までで一番深く、そしてどこか安堵したような満足そうな笑みを浮かべた。
電車が街の灯りの中へと入っていく。
僕のポケットの中には、彼女から受け取ったあの一枚の切符が、まだ大切にしまわれていた。
「青」という過去の呪縛を克服したはずの僕の心に、名付けようのない新しい影が、静かに、けれど確実に落ち始めていた。
