放課後の喧騒を背に、僕は一人、北校舎の最上階を目指した。
校門へと向かう生徒たちの笑い声や、部活動の掛け声が遠ざかっていく。
木造の古い階段が、一段上がるたびにギィ、と低く軋んだ音を立てた。
その乾いた音さえも、今の僕にはどこか遠い他国の出来事のように聞こえる。
階段を登りきった突き当たりにある、年季の入った木の扉。
『美術室』と書かれたアクリルのプレートは、端の方が少しだけ剥げて白くなっている。
重い扉を横に引くと、油絵具の独特なツンとする匂いと、光の粒が舞う埃っぽい空間が僕を迎えた。
かつての僕にとって、この場所は無限の色彩が広がる聖域だった。
パレットの上で絵具を溶かし、自分だけの新しい一色を作り出す時間は、まるで魔法を使っているような無敵の気分だったのに。
「…………」
室内には数人の美術部員が点々と座り、それぞれのキャンバスに向かっていた。
彼らの間を縫うように、僕はいつもの自分の指定席に向かう。
そこには、冷たく鎮座する『カラン』の石膏像が、僕を待ち構えていた。
「……また、これか」
僕はイーゼルの前に腰を下ろし、ペンケースから一本の4Bの鉛筆を取り出した。
カッターで削られたばかりの鋭い芯が、真っ白な画用紙に触れる。
シャッ、シャッ。
乾いた鉛筆の音が、西日の差し込む静かな美術室に、虚しく響き渡る。
僕はただ、機械的に手を動かした。
石膏の凹凸に落ちる影を追いかけ、鉛筆の腹を使って「濃いグレー」から「淡いグレー」へとグラデーションを重ねていく。
描き上げたデッサンは、我ながら完璧なほどに冷たかった。
光の当たり方も、筋肉の隆起も、写真のように正確に捉えている。
けれど、そこには「温度」というものが欠片も存在しなかった。
「……やっぱり、死んでるな」
自嘲気味に呟き、僕は鉛筆を置いた。
指先が黒い粉で汚れている。
まだ何も恐れていなかった頃は、この汚れさえ、何かに夢中になった証のようで誇らしかったのに。
今はただ、汚らしい煤が付いているようにしか見えない。
あの事件が起きる前の僕が描く絵は、もっとうるさいくらいの色に溢れていた。
空の青、木々の緑、夕暮れの茜色。
それらを混ぜ合わせることに、何の恐怖も感じていなかった。
けれど今の僕にとって、色は「凶器」だ。
一色塗り重ねれば、あの日の記憶が泥のように混ざり合い、すべてを真っ黒に塗り潰してしまう。
これ以上ここにいても、冷たい灰色の泥を捏ね回すだけだ。
そう思うと、急にこの場所に居続けることが息苦しくなった。
僕は早々に片付けを済ませ、鉛筆と画帳をカバンに押し込んだ。
まだ制作を続けている部員たちの視線を避けるように、逃げるような足取りで美術室を後にした。
校門へと向かう生徒たちの笑い声や、部活動の掛け声が遠ざかっていく。
木造の古い階段が、一段上がるたびにギィ、と低く軋んだ音を立てた。
その乾いた音さえも、今の僕にはどこか遠い他国の出来事のように聞こえる。
階段を登りきった突き当たりにある、年季の入った木の扉。
『美術室』と書かれたアクリルのプレートは、端の方が少しだけ剥げて白くなっている。
重い扉を横に引くと、油絵具の独特なツンとする匂いと、光の粒が舞う埃っぽい空間が僕を迎えた。
かつての僕にとって、この場所は無限の色彩が広がる聖域だった。
パレットの上で絵具を溶かし、自分だけの新しい一色を作り出す時間は、まるで魔法を使っているような無敵の気分だったのに。
「…………」
室内には数人の美術部員が点々と座り、それぞれのキャンバスに向かっていた。
彼らの間を縫うように、僕はいつもの自分の指定席に向かう。
そこには、冷たく鎮座する『カラン』の石膏像が、僕を待ち構えていた。
「……また、これか」
僕はイーゼルの前に腰を下ろし、ペンケースから一本の4Bの鉛筆を取り出した。
カッターで削られたばかりの鋭い芯が、真っ白な画用紙に触れる。
シャッ、シャッ。
乾いた鉛筆の音が、西日の差し込む静かな美術室に、虚しく響き渡る。
僕はただ、機械的に手を動かした。
石膏の凹凸に落ちる影を追いかけ、鉛筆の腹を使って「濃いグレー」から「淡いグレー」へとグラデーションを重ねていく。
描き上げたデッサンは、我ながら完璧なほどに冷たかった。
光の当たり方も、筋肉の隆起も、写真のように正確に捉えている。
けれど、そこには「温度」というものが欠片も存在しなかった。
「……やっぱり、死んでるな」
自嘲気味に呟き、僕は鉛筆を置いた。
指先が黒い粉で汚れている。
まだ何も恐れていなかった頃は、この汚れさえ、何かに夢中になった証のようで誇らしかったのに。
今はただ、汚らしい煤が付いているようにしか見えない。
あの事件が起きる前の僕が描く絵は、もっとうるさいくらいの色に溢れていた。
空の青、木々の緑、夕暮れの茜色。
それらを混ぜ合わせることに、何の恐怖も感じていなかった。
けれど今の僕にとって、色は「凶器」だ。
一色塗り重ねれば、あの日の記憶が泥のように混ざり合い、すべてを真っ黒に塗り潰してしまう。
これ以上ここにいても、冷たい灰色の泥を捏ね回すだけだ。
そう思うと、急にこの場所に居続けることが息苦しくなった。
僕は早々に片付けを済ませ、鉛筆と画帳をカバンに押し込んだ。
まだ制作を続けている部員たちの視線を避けるように、逃げるような足取りで美術室を後にした。
