羽白さんの冷たい指先に触れ、何度も深く『月白』の光を肺に送り込むうちに、逆巻いていた激しい鼓動は、引き潮のように少しずつ凪いでいった。
僕が落ち着きを取り戻したのを確認すると、彼女の手が頬からゆっくりと離れていく。
実際には驚くほど冷たいはずの指先なのに、その感触が失われる瞬間、僕はどうしようもない不安に襲われた。
逃したくない。離れたくない。
そう思った瞬間、羽白さんが僕の震える両手を、下から包み込むようにしてもう一度ぎゅっと握り直した。
至近距離にある彼女の瞳は、まるで深い湖の底を覗き込んでいるかのように、僕を案じて揺れている。
「……ごめんね。私ね、秋月くんが青を避けていること、本当は知っていたのに。無理をさせちゃって、本当にごめんね」
羽白さんは、僕の手を解かずに、今にも消えてしまいそうな震える声でそう言った。
「……知ってた、って? 僕が、青を嫌ってることを?」
「秋月くんの描くデッサン……。あんなに丁寧に、執念深く影を追いかけるのに、そこには一滴も『青』が混ざっていないの。他の色は、影の底に微かに残っているのに。普通の影には、空の反射や、冷たい青みが必ず宿るはずなのに。君はそれを、一粒残らず追い出している。まるで、青という色そのものを、この世界から根絶やしにしようとしているみたいに」
彼女の言葉は、僕が自分自身でも無意識のうちに隠蔽していた「拒絶の痕跡」を、残酷なほど正確に射抜いていた。
そうか。僕はただ描かないだけじゃなかったんだ。
僕のキャンバスから、僕の視界から、青という存在を抹殺しようとしていたのだ。
羽白さんは少し視線を落とし、祈るような独白を続ける。
「私、高校一年の時……。展示されていた秋月くんの絵を見たことがあるの。あの絵を見た時、私、立ち止まったまま動けなくなっちゃった。……あんなに鮮やかで、誰よりも優しく『青』を愛していた人が、どうして今は、こんなに色を捨ててしまったんだろうって、ずっと気になってた」
二年前。僕はまだ、筆を折る直前だった。
あの頃の僕は、確かに青を愛していた。
世界に溢れるすべてのグラデーションを愛するように、何の疑いもなく筆を走らせていた。
「だから……ここに来れば、あの頃の、色を愛していた秋月くんに会えるんじゃないかって。そう思って連れてきたの。でも、君をこんなに苦しませるなんて。私、ただのエゴイストだよね。……本当に、最低だ」
羽白さんの瞳に、溜まっていた光が今にも零れ落ちそうに膨らむ。
謝らなければならないのは、僕の方だ。
彼女はただ、僕が自分自身で踏みにじり、見捨ててしまった過去の僕を、僕の代わりに大切に抱えて、ここまで運んでくれただけなのに。
(……なんで、話そうとしているんだろう)
自分でも、自分がわからなかった。
けれど、自分を責めて泣き出しそうな彼女の表情を見ていたら、そして、彼女がずっと前から僕の『青』を、僕よりも真剣に見ていてくれたことを知ったら。
——この人にだけは、僕を縛り付けている呪いの正体を教えなければならない。
海よりも深い場所で、誰にも見つからないように凍らせていた僕の「あの日」を。
そう、強く思ったんだ。
「……羽白さん。……謝らないでくれ。君のせいじゃない。……僕が、勝手に臆病なだけなんだ」
僕は、彼女の冷たい手を今度は僕の方からそっと握り返し、静かに、重い口を開いた。
「……僕には、弟がいたんだ。……海が好きな、僕の描く青が大好きだと言ってくれた、弟が」
僕が落ち着きを取り戻したのを確認すると、彼女の手が頬からゆっくりと離れていく。
実際には驚くほど冷たいはずの指先なのに、その感触が失われる瞬間、僕はどうしようもない不安に襲われた。
逃したくない。離れたくない。
そう思った瞬間、羽白さんが僕の震える両手を、下から包み込むようにしてもう一度ぎゅっと握り直した。
至近距離にある彼女の瞳は、まるで深い湖の底を覗き込んでいるかのように、僕を案じて揺れている。
「……ごめんね。私ね、秋月くんが青を避けていること、本当は知っていたのに。無理をさせちゃって、本当にごめんね」
羽白さんは、僕の手を解かずに、今にも消えてしまいそうな震える声でそう言った。
「……知ってた、って? 僕が、青を嫌ってることを?」
「秋月くんの描くデッサン……。あんなに丁寧に、執念深く影を追いかけるのに、そこには一滴も『青』が混ざっていないの。他の色は、影の底に微かに残っているのに。普通の影には、空の反射や、冷たい青みが必ず宿るはずなのに。君はそれを、一粒残らず追い出している。まるで、青という色そのものを、この世界から根絶やしにしようとしているみたいに」
彼女の言葉は、僕が自分自身でも無意識のうちに隠蔽していた「拒絶の痕跡」を、残酷なほど正確に射抜いていた。
そうか。僕はただ描かないだけじゃなかったんだ。
僕のキャンバスから、僕の視界から、青という存在を抹殺しようとしていたのだ。
羽白さんは少し視線を落とし、祈るような独白を続ける。
「私、高校一年の時……。展示されていた秋月くんの絵を見たことがあるの。あの絵を見た時、私、立ち止まったまま動けなくなっちゃった。……あんなに鮮やかで、誰よりも優しく『青』を愛していた人が、どうして今は、こんなに色を捨ててしまったんだろうって、ずっと気になってた」
二年前。僕はまだ、筆を折る直前だった。
あの頃の僕は、確かに青を愛していた。
世界に溢れるすべてのグラデーションを愛するように、何の疑いもなく筆を走らせていた。
「だから……ここに来れば、あの頃の、色を愛していた秋月くんに会えるんじゃないかって。そう思って連れてきたの。でも、君をこんなに苦しませるなんて。私、ただのエゴイストだよね。……本当に、最低だ」
羽白さんの瞳に、溜まっていた光が今にも零れ落ちそうに膨らむ。
謝らなければならないのは、僕の方だ。
彼女はただ、僕が自分自身で踏みにじり、見捨ててしまった過去の僕を、僕の代わりに大切に抱えて、ここまで運んでくれただけなのに。
(……なんで、話そうとしているんだろう)
自分でも、自分がわからなかった。
けれど、自分を責めて泣き出しそうな彼女の表情を見ていたら、そして、彼女がずっと前から僕の『青』を、僕よりも真剣に見ていてくれたことを知ったら。
——この人にだけは、僕を縛り付けている呪いの正体を教えなければならない。
海よりも深い場所で、誰にも見つからないように凍らせていた僕の「あの日」を。
そう、強く思ったんだ。
「……羽白さん。……謝らないでくれ。君のせいじゃない。……僕が、勝手に臆病なだけなんだ」
僕は、彼女の冷たい手を今度は僕の方からそっと握り返し、静かに、重い口を開いた。
「……僕には、弟がいたんだ。……海が好きな、僕の描く青が大好きだと言ってくれた、弟が」
