きみが教えてくれた、世界で一番優しい青

終着駅のホームに降り立つと、そこには街中よりも一段階濃い、湿り気を帯びた緑の空気が漂っていた。

目的地である「青の図書館」へは、ここからバスも通っていない山道を十五分ほど歩かなければならない。
舗装はされているものの、急な勾配が続く道は、不慣れな僕たちの肺を圧迫し、呼吸を少しずつ乱していく。

先を歩く羽白さんの、光に透けそうな背中を見つめながら、僕は電車の中での彼女の言葉を何度も反芻していた。

(——克服したいんじゃない?……か)

無意識に握りしめた拳が、じりじりと熱い。

否定したくても、彼女の歩幅に合わせて必死に坂を登っている今の自分こそが、何より雄弁にその答えを肯定してしまっていた。
僕は、彼女が提示する「新しい名前」に、救いを求めているのかもしれない。

不意に、羽白さんの足が止まった。


「……羽白さん? 疲れた?」


少し後ろを歩いていた僕は羽白さんに追いつき、顔を覗き込む。
羽白さんは華奢な肩を上下させ、荒い呼吸を整えている。
額には真珠のような汗が浮かんでいたが、彼女の視線は僕ではなく、道端のガードレールの下に広がる、深い緑の茂みに注がれていた。


「……ううん、大丈夫。……見て、秋月くん。あんなところに、咲いてる」


羽白さんはそう言うと、吸い込まれるようにゆっくりと膝をついた。
お気に入りの白いワンピースの裾が、湿った土に触れるのも構わず、彼女がそっと指先を伸ばした先。
アスファルトの無機質な隙間から、ひっそりと顔を出した小さな青い花があった。


「それは……」

「『露草色(つゆくさいろ)』。……名前の通り、朝露を浴びて咲く、夜明けの青」


彼女が慈しむように花弁を撫でると、その小さな青が風に震えた。

海のような底知れぬ深さも、空のような手の届かない遠さもない。
ただ、誰かの忘れ物のように道端にそっと置かれた、儚くも鮮やかな青だった。


「露草の花言葉はね、『なつかしい関係』。……それから、『密かな恋』とも言うんだって」


羽白さんは少しだけ茶目っ気のある笑みを浮かべて、僕を見上げた。
その瞳の奥には、花の青さが溶け込んだような、純度の高い色彩が宿っている。


「秋月くん。……この青も、君には怖く見える?」


僕は黙って、その小さな花を見つめた。

あの日、すべてをさらっていった牙のような波の色とは、似ても似つかない。
今にも踏み潰されてしまいそうなほど小さく、けれど毅然とした意志を持ってそこに咲いている青。


「……怖くは、ない。……ただ」

「ただ?」

「……すぐ、消えてしまいそうに見える」

「そう。露草はね、朝に咲いて、昼にはもう萎れて消えちゃうの。……だからこそ、今この瞬間のこの青を、ちゃんと名前で呼んで繋ぎ止めてあげなきゃいけないんだよ」


羽白さんは満足そうに頷いて立ち上がったが、その直後、ふらりと体が微かに揺れた。
僕は反射的に彼女の細い肩を支える。


「……っ」


指先に触れた彼女の体は、険しい坂道を登ってきた直後だというのに、やはり驚くほど冷たかった。
夏を目前にした陽気さえ、彼女の肌を温めることはできないのだろうか。
そして、彼女の視線が、一瞬だけピントを合わせるのを拒むように泳いだのを、僕は見逃さなかった。


「……羽白さん、やっぱり少し休んだ方がいい。顔色が悪い」

「……平気。……ほら、見て。もう、図書館の匂いがしてきたよ」


羽白さんは僕の腕をすり抜けるようにして、再び歩き出した。
拒絶するような動きではなかった。
ただ、その足取りは先ほどよりもどこか急いでいて、まるで自分に残された時間を、一秒ずつ惜しんでいるかのようだった。

僕は、足元で風に揺れる露草色をもう一度だけ振り返り、今にも光の中に溶けてしまいそうな彼女の白い背中を、追いかけた。