「ねえ、次はこっちの『若草色』も教えて! あと、この花壇の影の……えっと、『鉄御納戸』にするにはどうすればいい?」
羽白さんは、色の名前を口にする時だけはまるで幼女のように無邪気だ。
けれど、その指先が握る筆は相変わらず迷子のように画用紙の上を泳いでいる。
「……いつも一度に言いすぎだ。貸して、筆。……水はもっと多め。パレットで色を殺さないように、遊ばせるんだよ。筆を置くんじゃなくて、水を置くイメージで」
「わっ、それ、何かの本に書いてありそうなかっこいいセリフ!」
「うるさいな。……ほら、ここをこうして……」
気づけば、僕は自分のデッサンを放り出し、羽白さんの横に座り込んでいた。
彼女の拙い筆跡をなぞるように、僕の指が、僕の言葉が、彼女の世界に色を添えていく。
一人でモノクロのデッサンに没頭していた時よりも、ずっと騒がしくて、ずっと面倒で、思い通りにいかないことばかりだ。
けれど、僕が筆を動かし、羽白さんが「あ、あの色だ!」と花が綻ぶように笑うたびに、僕の胸の奥に澱んでいた鉄のような冷たさが、少しずつ、春の陽光のような体温を取り戻していくのを感じていた。
「あはは! 見て秋月くん、ツツジがなんだかちょっとだけ美味しそうな色になった!」
「……色の名前で呼べよ。あと、それは逆に水が多すぎだ。紙が波打って、色が死んでしまう」
羽白さんの滅茶苦茶な運筆を修正しながら、僕が呆れた声を出す。
そんな僕たちのやり取りに、不意に上空から聞き慣れた陽気な声が降ってきた。
「おーおー、熱心だねぇ。湊、お前いつからそんな熱血指導キャラになったんだ?」
顔を上げると、そこには自分のスケッチブックを片脇に抱えた健太が、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて立っていた。
「……健太か。自分の課題は終わったのかよ」
「終わった終わった。空をバーーっと青く塗って終わり! 芸術はセンスだろ? それより、2人がそんなふうに一緒にいるのって珍しいじゃん」
健太は屈み込み、羽白さんの方に向き直った。
「よっ、羽白さん。うちの偏屈職人が迷惑かけてない? こいつ、教え方とか厳しそうだけど」
羽白さんは絵具で少し汚れた手をパレットから離し、いつもの凪のような、けれどどこか楽しげな微笑みを返した。
「ううん、全然。秋月先生の授業、とっても分かりやすいよ。ね、秋月先生?」
「先生、かよ。よかったな湊、可愛い生徒ができて」
健太はひとしきり僕たちの様子を冷やかして満足したのか、「じゃ、俺、先に用具片付けてくるわ。あんまりイチャついてっと先生に怒られるぞー」と、調子のいい捨て台詞を残して去っていった。
イチャついている。
その言葉に心臓が大きく跳ねたが、言い返す間もなかった。
健太の背中を追うようにして、放課後を告げるチャイムが校庭に鳴り響く。
羽白さんは「ありがとね、秋月先生!」と僕を呼び、自分で描いた(けれど、その半分以上は僕のアドバイスによる)不思議な色のツツジの絵を大事そうに抱えて、準備室の方へ軽やかに駆けていった。
一人残された楠の木の下。
僕のスケッチブックには、半分までしか描かれていない、灰色の「節」が取り残されている。
けれど、さっきまで彼女と一緒に見つめていたあのパレットの鮮やかさが、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
僕は、自分の手のひらを見つめる。
筆の感触と、水の重さ。
僕が捨てたはずの「色」は、こんなにも近くで、ずっと僕が呼び戻すのを待っていたのかもしれない。
羽白さんは、色の名前を口にする時だけはまるで幼女のように無邪気だ。
けれど、その指先が握る筆は相変わらず迷子のように画用紙の上を泳いでいる。
「……いつも一度に言いすぎだ。貸して、筆。……水はもっと多め。パレットで色を殺さないように、遊ばせるんだよ。筆を置くんじゃなくて、水を置くイメージで」
「わっ、それ、何かの本に書いてありそうなかっこいいセリフ!」
「うるさいな。……ほら、ここをこうして……」
気づけば、僕は自分のデッサンを放り出し、羽白さんの横に座り込んでいた。
彼女の拙い筆跡をなぞるように、僕の指が、僕の言葉が、彼女の世界に色を添えていく。
一人でモノクロのデッサンに没頭していた時よりも、ずっと騒がしくて、ずっと面倒で、思い通りにいかないことばかりだ。
けれど、僕が筆を動かし、羽白さんが「あ、あの色だ!」と花が綻ぶように笑うたびに、僕の胸の奥に澱んでいた鉄のような冷たさが、少しずつ、春の陽光のような体温を取り戻していくのを感じていた。
「あはは! 見て秋月くん、ツツジがなんだかちょっとだけ美味しそうな色になった!」
「……色の名前で呼べよ。あと、それは逆に水が多すぎだ。紙が波打って、色が死んでしまう」
羽白さんの滅茶苦茶な運筆を修正しながら、僕が呆れた声を出す。
そんな僕たちのやり取りに、不意に上空から聞き慣れた陽気な声が降ってきた。
「おーおー、熱心だねぇ。湊、お前いつからそんな熱血指導キャラになったんだ?」
顔を上げると、そこには自分のスケッチブックを片脇に抱えた健太が、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて立っていた。
「……健太か。自分の課題は終わったのかよ」
「終わった終わった。空をバーーっと青く塗って終わり! 芸術はセンスだろ? それより、2人がそんなふうに一緒にいるのって珍しいじゃん」
健太は屈み込み、羽白さんの方に向き直った。
「よっ、羽白さん。うちの偏屈職人が迷惑かけてない? こいつ、教え方とか厳しそうだけど」
羽白さんは絵具で少し汚れた手をパレットから離し、いつもの凪のような、けれどどこか楽しげな微笑みを返した。
「ううん、全然。秋月先生の授業、とっても分かりやすいよ。ね、秋月先生?」
「先生、かよ。よかったな湊、可愛い生徒ができて」
健太はひとしきり僕たちの様子を冷やかして満足したのか、「じゃ、俺、先に用具片付けてくるわ。あんまりイチャついてっと先生に怒られるぞー」と、調子のいい捨て台詞を残して去っていった。
イチャついている。
その言葉に心臓が大きく跳ねたが、言い返す間もなかった。
健太の背中を追うようにして、放課後を告げるチャイムが校庭に鳴り響く。
羽白さんは「ありがとね、秋月先生!」と僕を呼び、自分で描いた(けれど、その半分以上は僕のアドバイスによる)不思議な色のツツジの絵を大事そうに抱えて、準備室の方へ軽やかに駆けていった。
一人残された楠の木の下。
僕のスケッチブックには、半分までしか描かれていない、灰色の「節」が取り残されている。
けれど、さっきまで彼女と一緒に見つめていたあのパレットの鮮やかさが、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
僕は、自分の手のひらを見つめる。
筆の感触と、水の重さ。
僕が捨てたはずの「色」は、こんなにも近くで、ずっと僕が呼び戻すのを待っていたのかもしれない。
