*
「それじゃあ、今日は一コマ使って自由課題です。校庭に出て、自分が『いいな』と思ったものを、好きな道具を使って描いてみてください」
美術の先生のその言葉を合図に、生徒たちが一斉にスケッチブックや色鉛筆、絵具を抱えて動き出す。
僕はいつものように、使い古した鉛筆数本とスケッチブックだけを持って、校庭の隅にある大きな楠の木の下に陣取った。
周囲では、クラスメイトたちが楽しそうに筆を走らせている。
花壇の彩りを再現しようとパレットの上で筆を躍らせる音。筆を洗うバケツの水の音。
僕はそれらを遮断するように、ただ目の前の楠の「節」の部分だけを見つめた。
シュッ、シュッ。
乾いた音が、僕のスケッチブックに黒い線を刻んでいく。
楠のゴツゴツとした樹皮の質感、光が当たって白く飛んでいる部分。
僕が描く世界は、今日も完璧に整った「灰色」だ。
「……うーん、なんでだろう。全然、あの色にならない」
隣から聞こえてきた、低く唸るような独り言。
見れば、少し離れた場所に羽白さんが座っていた。
彼女の前には、いつもの色見本帳と、お世辞にも「使い慣れている」とは言えないピカピカの絵具セットが広げられている。
彼女は真剣な表情でパレットに向き合っていた。
けれど、その手元を見て、僕は思わず手を止めた。
「…………羽白さん、それ、何を描こうとしてるの?」
「あ、秋月くん! 見て見て、あの花壇に咲いてるツツジ。あの、ちょっと鮮やかな赤紫色。……再現しようと思ってるんだけど」
彼女が差し出したスケッチブックを見て、僕は絶句した。
そこには、形の崩れた謎の塊が、どす黒い泥のような色で塗り潰されていた。
筆圧が強すぎるのか、画用紙の表面が毛羽立ち、もはや「花」というよりは「焼け焦げた何か」のような、禍々しい物体が誕生している。
「……色見本帳であんなに完璧に色を言い当てるのに、描くのはこれか?」
「し、失礼だなぁ! 私、頭の中では完璧に完成してるんだよ? でもね、筆を持つと、色が勝手に喧嘩し始めるの。ほら、この色も、もっと『今様色』っぽくしたいのに、混ぜれば混ぜるほど土砂崩れみたいな色になっちゃって……」
羽白さんは半べそをかきながら、パレットの上でさらに「赤」と「黒」をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせようとしている。
「待て待て、ストップ。それ以上混ぜたら、もう救いようがなくなる」
見かねて、僕は自分の鉛筆を置き、彼女のパレットを覗き込んだ。
感覚が、指先からじわじわと蘇る。
「……その『今様色』を再現したいなら、黒を入れちゃダメだ。赤と紫を先に置いて、そこにほんの一滴だけ、補色の緑を混ぜるんだ」
「えっ、緑? 赤っぽくしたいのに緑を入れたら、もっと濁っちゃうよ?」
「いいから、やってみて」
僕のアドバイスに従って、羽白さんが恐る恐る筆の先に少量の緑を取り、パレットの赤紫に混ぜる。
「あ……! 変わった。……すごい、急に落ち着いた、深みのある色になった!」
どぎつかった色が、一瞬にしてしっとりと落ち着いた、品のある赤紫色へと変化した。
羽白さんは瞳を輝かせ、驚いたように僕を見た。
「秋月くん、すごすぎる! 魔法使いみたい。……やっぱり、秋月くんの目はちゃんと『色』を把握してるんだね」
「……別に、これくらい基礎だよ」
僕は照れ隠しに視線を逸らしたが、内心では自分自身に一番驚いていた。
色を捨てたつもりだったのに、どうすればあの色になるか、どの色を混ぜれば羽白さんが求める「答え」に辿り着くのか、脳が勝手に計算を終えていたのだ。
「それじゃあ、今日は一コマ使って自由課題です。校庭に出て、自分が『いいな』と思ったものを、好きな道具を使って描いてみてください」
美術の先生のその言葉を合図に、生徒たちが一斉にスケッチブックや色鉛筆、絵具を抱えて動き出す。
僕はいつものように、使い古した鉛筆数本とスケッチブックだけを持って、校庭の隅にある大きな楠の木の下に陣取った。
周囲では、クラスメイトたちが楽しそうに筆を走らせている。
花壇の彩りを再現しようとパレットの上で筆を躍らせる音。筆を洗うバケツの水の音。
僕はそれらを遮断するように、ただ目の前の楠の「節」の部分だけを見つめた。
シュッ、シュッ。
乾いた音が、僕のスケッチブックに黒い線を刻んでいく。
楠のゴツゴツとした樹皮の質感、光が当たって白く飛んでいる部分。
僕が描く世界は、今日も完璧に整った「灰色」だ。
「……うーん、なんでだろう。全然、あの色にならない」
隣から聞こえてきた、低く唸るような独り言。
見れば、少し離れた場所に羽白さんが座っていた。
彼女の前には、いつもの色見本帳と、お世辞にも「使い慣れている」とは言えないピカピカの絵具セットが広げられている。
彼女は真剣な表情でパレットに向き合っていた。
けれど、その手元を見て、僕は思わず手を止めた。
「…………羽白さん、それ、何を描こうとしてるの?」
「あ、秋月くん! 見て見て、あの花壇に咲いてるツツジ。あの、ちょっと鮮やかな赤紫色。……再現しようと思ってるんだけど」
彼女が差し出したスケッチブックを見て、僕は絶句した。
そこには、形の崩れた謎の塊が、どす黒い泥のような色で塗り潰されていた。
筆圧が強すぎるのか、画用紙の表面が毛羽立ち、もはや「花」というよりは「焼け焦げた何か」のような、禍々しい物体が誕生している。
「……色見本帳であんなに完璧に色を言い当てるのに、描くのはこれか?」
「し、失礼だなぁ! 私、頭の中では完璧に完成してるんだよ? でもね、筆を持つと、色が勝手に喧嘩し始めるの。ほら、この色も、もっと『今様色』っぽくしたいのに、混ぜれば混ぜるほど土砂崩れみたいな色になっちゃって……」
羽白さんは半べそをかきながら、パレットの上でさらに「赤」と「黒」をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせようとしている。
「待て待て、ストップ。それ以上混ぜたら、もう救いようがなくなる」
見かねて、僕は自分の鉛筆を置き、彼女のパレットを覗き込んだ。
感覚が、指先からじわじわと蘇る。
「……その『今様色』を再現したいなら、黒を入れちゃダメだ。赤と紫を先に置いて、そこにほんの一滴だけ、補色の緑を混ぜるんだ」
「えっ、緑? 赤っぽくしたいのに緑を入れたら、もっと濁っちゃうよ?」
「いいから、やってみて」
僕のアドバイスに従って、羽白さんが恐る恐る筆の先に少量の緑を取り、パレットの赤紫に混ぜる。
「あ……! 変わった。……すごい、急に落ち着いた、深みのある色になった!」
どぎつかった色が、一瞬にしてしっとりと落ち着いた、品のある赤紫色へと変化した。
羽白さんは瞳を輝かせ、驚いたように僕を見た。
「秋月くん、すごすぎる! 魔法使いみたい。……やっぱり、秋月くんの目はちゃんと『色』を把握してるんだね」
「……別に、これくらい基礎だよ」
僕は照れ隠しに視線を逸らしたが、内心では自分自身に一番驚いていた。
色を捨てたつもりだったのに、どうすればあの色になるか、どの色を混ぜれば羽白さんが求める「答え」に辿り着くのか、脳が勝手に計算を終えていたのだ。
