学校が終わると、僕はいつもの駅へは向かわず、一駅分だけ歩いた場所にある商店街へ足を向けた。
目的地は、路地の裏手にひっそりと店を構える小さな画材店だ。
かつての僕なら、週に三度は通い詰め、店主とも顔馴染みだった場所。
けれど、あの事件以来、僕はその看板を見るだけで吐き気がして、店の前の道を通ることさえ避けていた。
角を曲がると、古びた木製の看板が見えてくる。
(……無理に行かなくてもいいのに。)
心の中の自分が、必死にブレーキをかける。
けれど、数日前、雨の公園で羽白さんが教えてくれた言葉が、網膜の裏側にこびりついて離れない。
『名前を知っていれば、たとえ暗闇に包まれても思い出せる』
名前を知ってしまったせいで、僕のモノクロの世界には、今や無数の「色の気配」が満ちていた。
カラン、という懐かしいドアベルの音が響く。
店内に漂う、乾いた紙の匂いと、油絵具の鼻を突くツンとした香りに、一瞬だけ目眩がした。
「いらっしゃい……。おや、湊くんじゃないか。久しぶりだね」
カウンターの奥で老眼鏡をかけた店主が、驚いたように顔を上げた。
僕は視線を逸らし、短く「……どうも」とだけ答えて、店の奥にある鉛筆の棚へと向かった。
本当なら、そこだけを見て、4Bの予備を一本買って帰るつもりだった。
それだけで済ませるはずだった。
けれど。
気づけば、僕は色鉛筆が並ぶ色彩の棚の前に立ち尽くしていた。
美しくグラデーションを成した色鉛筆が整然と並んでいる。
以前ならこの鮮やかな陳列を見て、どの色とどの色を混ぜればあの空が描けるだろうと、高揚感に包まれていたはずだ。
今はまだ、それらは「美しさ」というより「凶器」の羅列に近い。
色を持つことは、失う痛みを蘇らせることだ。
それでも、羽白さんのあの真っ直ぐな瞳が、僕の背中を静かに押し出す。
僕は、茶色や灰色が並ぶ、落ち着いたトーンのコーナーへ、震える手を伸ばした。
「……洒落柿《しゃれがき》……」
一本の色鉛筆を手に取ってみる。
メーカーの表記には、ただ『テラコッタ』と無機質なカタカナが記されていた。
けれど今の僕には、それが羽白さんが教えてくれたあの夜が来る前の優しい『洒落柿』の色にしか見えなかった。
下の段にある、緑の混じった灰色は『オリーブグリーン』。
いや、これも違う。
これはきっと、あの雨の匂いの中で教えてくれた、『海松色』。
羽白さんに教わった言葉を、一つずつ既製品の画材に当てはめていく。
それは、バラバラに砕け散った世界のパズルを、一枚ずつ慎重に埋め戻していくような作業だった。
「湊くん。……また、色を使う気になったのかい?」
店主の声が背後からかかり、僕はびくりと肩を揺らした。
反射的に手に持っていた色鉛筆を棚に戻す。
「……いえ。ただ、見ていただけです。……鉛筆、一本ください」
僕は4Bの鉛筆だけをカウンターに置き、会計を済ませた。
店を出ると、外はもう夕刻を過ぎ、濃い紺色の夜が街を支配し始めていた。
結局、僕は色鉛筆の一本も買えなかった。
それでも、胸のポケットに入れた4Bの鉛筆が、いつもより少しだけ重く感じる。
——君の目が必要なの。
羽白さんの、あの切実な声が、夜風に混じって僕の耳をかすめていく。
僕は、暗闇に染まりゆく街の中で、「色」の残像を目でなぞっていた。
(……明日、羽白さんに聞いてみようかな。)
この空の色の、名前を。
僕は初めて、自分から「明日」という光を見ようとしていた。
