きみが教えてくれた、世界で一番優しい青

住宅街の奥にある小さな公園は、雨のせいで人影もなく、ひっそりと静まり返っていた。

僕たちは、端にある木造の東屋へ逃げ込むように入った。
古びた屋根が雨粒を弾く低い音が、頭の上で鳴り響いている。

羽白さんは閉じたばかりのビニール傘をベンチの脇に立てかけ、少し湿った自分の肩を小さく手で払った。
僕は傘の滴を払いながら、彼女との適度な距離を保ってベンチの端に腰を下ろす。
 
彼女はカバンからあのノートを取り出すと、さっき道で見つけた色の名前を書き込み始めた。
ボールペンが紙をなぞる小さな音が、雨音の中に溶けていく。


「……秋月くん。昨日、色のことを『うるさい』って言ってたけど、どうしてそう感じるの? 音がうるさいって思うのはわかるんだけど」


記録を書き終えた羽白さんが、ふいに顔を上げて僕を見た。

 
「なんだか気になっちゃって。……あんなに綺麗なデッサンを描くのに、どうして色を遠ざけようとするのかなって」


真っ直ぐな瞳。
誤魔化しが効かないその視線から逃げるように、僕は目の前の、雨に濡れて黒ずんだ地面を見つめた。


「……この世界は色で溢れてて、情報の量が多すぎるんだ。何もかもが勝手に主張してきて、頭が痛くなる。……放っておいてほしいんだよ」

「それが素敵なんじゃない。一つひとつの色が、君の目に向けて、その色がそこにいる理由や意味を伝えようとしてるんだよ」

「……色の名前なんて、本当はなくてもいいものだろ」


僕は、自分の声が少しだけ棘を帯びていくのを感じた。


「名前がつく前の、ただそこにある光や影の方が、ずっと純粋だ。名前をつけるのは、結局、人間が自分の都合で世界に意味を持たせたいだけの自己満足だ。……ラベルを貼って安心してるだけだろ」


言い終えてから、僕は小さな自己嫌悪に陥った。
彼女が大切にしている色の名前を、乱暴に否定してしまったような気がしたからだ。
けれど、羽白さんは怒ることも、否定することもしなかった。


「そうだね。名前は、ただのラベルかもしれない」


彼女はノートを胸に抱え、東屋の外で降り続く雨を静かに見つめた。


「でもね、私にとって名前をつけるのは、世界を『繋ぎ止める』ことなの」

「繋ぎ止める……?」

「うん。名前を知っていれば、たとえいつか真っ暗闇に包まれて、何も見えなくなっても——『あそこには海松色があった』って思い出せるでしょ? 名前はね、私の記憶を支える杖みたいなものなんだよ」


——杖。

その言葉の響きに、僕は言いようのない不安を覚えた。

記憶を支えるための、杖。
それはつまり、彼女が今手にしているこの世界が、いつか指の間をすり抜けていってしまうことを、彼女自身が予感しているということではないのか。

彼女が探している色は、ただの趣味や知識じゃない。

——じゃあ一体なんのためなのだろう。