「……あ、秋月くん、止まって!」
不意に羽白さんが立ち止まった。
僕も慌てて足を止める。
彼女がしゃがみ込んだのは、なんてことのない古い民家の石垣だった。
雨を吸った石は、本来の無機質な灰色よりもずっと重々しく、それでいて静かな、深い緑を帯びた暗色を宿していた。
「見て、このグラデーション。水がじわじわ染み込んでるところと、まだ乾いているところの境界線……。すごく綺麗。これね、『海松色』って呼ぶんだよ」
「みる、いろ……」
「名前の響きも綺麗だよね」
「……でも、ただの濡れた石だろ。どっちかっていうと、薄汚れて見えるけど」
僕がぶっきらぼうに返すと、彼女は傘を肩に預け、うっとりとした手つきでその濡れた石の表面を指でなぞった。
「そうかな。ただの緑じゃなくて、奥の方に少しだけ茶色と、それから夜の入り口みたいな深い黒が混ざってるでしょ? 雨が降らないと、この子たちはこんなに沈んだ、重たい色を見せてくれないんだよ」
彼女の指先が触れた場所から、水の膜がさらに広がり、石の色を一段と濃く変えていく。
そう言われて見つめてみると、確かにそれは、僕が知っている「緑色」のどれにも当てはまらない。
湿り気を帯びて、地面の底まで続いているような、不思議な実在感を持った色合いをしていた。
「名前があるだけで、ただの石ころが、急に特別なものに見えてこない? 誰かがずっと昔、雨の日のこの暗い色を見つけて、わざわざ名前を付けたんだよ。……それって、なんだかすごく、その色を愛してたって証拠だと思わない?」
僕はまだ、同調はできずにいた。
ただ僕は彼女の隣で、自分の紺色の傘を差したまま立ち止まり、海松色を見つめていた。
不思議な感覚だった。
雨の日は、音も色もすべてが灰色に塗り潰されて、世界が死んだように静かになるものだと思っていた。
けれど彼女が指を差し、その色の「名前」を呼ぶたびに、濡れた消火栓も、雨水を含んだ石垣も、傘から滴る雫さえもが、それぞれに違う理由を持ってそこに存在しているように見えてくる。
暗くて、湿っていて、落ち着くはずの景色。
それなのに、僕の胸の奥は、昨日たい焼きを食べていたときと同じような、落ち着かない熱を帯び始めていた。
「ねえ、秋月くん。雨の日って、なんだか世界が新しくなったみたいで、ちょっとだけワクワクするね!」
立ち上がった羽白さんが、僕の顔を覗き込んでくる。
ビニール傘越しに降る雨が、彼女の瞳をさらに澄んだものに変えていた。
僕が答えるより先に、彼女は「ほら、公園にも行ってみよう!」と指を差し、軽やかな足取りで再び歩き出した。
彼女の歩幅は、昨日よりも少しだけ大きい気がした。
僕はその背中を追う。
黒色の傘と、透明な傘。
二つの小さな丸い屋根が、雨の降る静かな街を進んでいく。
