俺の日常はいつだって平凡だった。
高校生になって9か月。学校生活にも多分、慣れきった。
「悪い、これ頼む。神谷に呼ばれててさ……いつか借りは返すから!」
昼休憩、クラスメイトの冴木修矢は教室で小説を読んでいた俺に提出物のプリントを押し付けて足早に教室を出て行く。たしか冴木は野球部だった。神谷というのは神谷謙佑で、野球部の顧問兼俺たちのクラス担任でもある。僕に有無を言わさない冴木を腹立たしく思いかけたところで、野球部なら仕方ないかと思う。
俺の通う学校はどこにでもある共学の公立校。
部活も学力も基本的には平凡集団だった。野球部を除いては。
野球部は数年前から外部コーチを迎え、あっという間に県大会で上位入賞常連校になった。練習もハードで普段の生活意識も俺とは明らかに違う。
練習の愚痴だとか身体づくりの話だとかを教室で溢す部員を見てよく頑張るなと思う。
なんて、俺には無縁の話だけど。
これがワークでなくてよかったと胸を撫で下ろしながおそらく40枚ある英語のプリントを手に階段を下る。
まだ昼休み終了までは時間がある。誰ともすれ違うことなく英語科の職員室前の指定ボックスにプリントを入れて引き返した。
早いけれど戻って次の授業の支度をしなくては。それも、体育の支度を。
5限目の体育は憂鬱だ。
一桁の気温の中薄着で運動場というのも、食後に運動というのも気が狂っていると思う。
おまけに年が明ければ長距離走だという。
食後の激しい運動は健康を害するんじゃなかったか。
不満を抱えながら更衣し、重い足取りで運動場へ向かう。
体操着は半袖にポリエステルの長袖ジャージ。冬を乗り切るにはあまりにも軽装だ。
下に保温のきいた下着を着たところで服の間を構わず風が通り抜けていく。
このままでは丈夫な身体づくり以前に風邪をひいてしまう。
脳内で文句を垂れ流しながら整列場所へ駆け足で向かった。
「今日も引き続きソフトボールだ、まずはペアでキャッチボールな!」
準備体操をし終えた生徒に神谷先生が言う。
その声を聞く前に数名がグローブ争奪戦に走る。俺はその戦いには入らず、人がいなくなったタイミングで取りに歩いた。
もう使えないだろうというほどにしおれたグローブしか残っていない。おまけに砂埃を被っていて手を入れるとくすぐったい。
「依田、こっち!」
整列順でペアを作ることになったので偶然にも隣の冴木とキャッチボールをすることになった俺は、内心溜め息を溢しながら冴木の元へ向かった。
野球とソフトボールは違うと言っても俺からすればほぼ一緒。
毎日厳しい練習に励んでいる冴木からすれば俺とのキャッチボールはつまらないはずだ。
申し訳ないと思いながら何球かを投げていると、突然冴木が口を開いた。
「依田って経験者?」
「いや……」
「そっか、遊びでやってたとか?」
「あぁ……昔は弟の練習相手をしてたけどそれくらい」
戸惑いながらも冴木にボールを投げ返す。
山なりに飛んで行った球を冴木は華麗に捕球する。
「へぇ、それにしてはセンスあるよな」
別にお世辞という感じでもなかった。冴木は球を投げ返しながら淡々としていた。
けれど間違っても俺にセンスはない。ただ、少年野球チームに所属していた弟のために、練習のための練習をしていたというだけ。
才能なんて俺にはないのだから。
冴木に一目置かれてしまった俺はいつの間にか試合形式の練習でセンターを任されていた。
他の野球部員を差し置いて俺なんかが、と言おうとした時には既に皆が守備位置に向かっていて、仕方なくセンターを守る。どうせ授業内の話だし、ピッチャーじゃなければどこでもよかったのだけど。
面倒だと思いながらも身体が覚えてしまっているのでそれなりに捕球も送球も問題なくできてしまう。
「依田って意外と運動できるんだな」
攻守交替で下がっているとクラスメイト何人かに声を掛けられた。
「……そうみたいだな」
その返しにへぇというくらいでそれ以上の会話もない。そのくらいがちょうどよかった。
何事もなく体育を終え、それからは席に着いていると1日が終わっていた。
正直体育の後は頭が回らない。体力がないと言われてしまえばそれまでだけど。
放課後は美術室に行くのが俺の日課だった。
これでも俺は美術部員なのだ。ただの人数合わせだし絵心も致命的にないので画材を触ることは一切ない。
美術室に一歩足を踏み入れると、桧山拓実が俺に向かって手を上げる。
拓実とは中学からの友人で、美的センスがすさまじい。多くの賞をもらっていたし、何より俺が拓実の作品に惚れこんでいた。
それでこのままでは廃部になるからと拓実から美術部入部を打診されたとき、迷わず話に乗ったのだ。
「今日も続き?」
「そうだな、ちょうど締め切りが今週で結構焦ってる」
「それなのに俺いていいの?」
「いいというかむしろいてほしいんだ、悠がいてくれると心強い」
拓実は俺と会話しながら視線は作品を向いている。
美術室に他の部員が来ることはめったにない。
一応、あと3人が所属しているけれど皆が熱心なわけではないし、作業場を美術室に限らなくてもいいので無理もない。
そもそも大人数で何かひとつを完成させようという取り組みもないので集まる理由が無かったのだ。
俺は窓際の席に腰を下ろし、鞄から小説を取り出す。それは夜々稔の『夜に咲く青』だ。
救いの無い日常と懸命に生きようとする主人公の姿が胸に刺さり、以来、夜々稔のファンになった。
明日には新作が発売されるので、それまでにこの作品をもう1周しておきたかったのだ。
創作に励む拓実を横目に夜々稔の世界に入り込む。
「悠?」
「ごめん、どうした?」
拓実の呼びかけに反応が遅れるほどに没頭していたようだった。
拓実は俺の手元を見ている。作品はひと段落ついたみたいで、安堵の表情を浮かべていた。
「いや、好きなんだなと思って、それ」
「うん、好きだ」
「良かったよ、悠にも熱中できるものがあって」
その言い方に嫌味はない。
中学からの付き合いの拓実は度々こんなことを言う。
「ありがとな、いつも俺なんかに付き合ってくれてさ」
「いや……別に」
俺が拓実の作品に楽しませてもらっているのに、と思いながらも口には出さなかった。
追い込み中の拓実に余計な刺激を与えたくなかったのだ。
家が正反対なので拓実とは正門で別れた。
それから自転車に乗って家路についた。
ブレーキを効かせながら風を切って坂を下りた。
坂を下ればすぐに家が見えてくる。
青い屋根の一軒家。ガレージには車が2台止まっていた。
「そうだ、光瑠がこの年末は帰ってこれるって」
リビングに入るや否や母は料理中にも関わらず手を止めて俺を見てから満面の笑みを浮かべた。
俺の弟、光瑠は寮生活をしながら私立の成央学園中学校へ通っている。そこは野球の名門校で頭もいい。全てが平凡の俺とは住む世界が違う。
「元旦はお参りで決まりね、今年こそ光瑠が全国大会に行けるように」
「……うん」
母の眼中には光瑠だけがいる。
母も父も野球に詳しくはないけれど、全国大会に行くのが光瑠の夢だからと野球のルールを覚えるために推し球団を作っていた。
形から入った両親に斬新だなと思いつつも、同時に光瑠を未知の世界に送り出しただけあるなと妙に納得もしていた。
「悠は?夢とかそういうのはあるの?」
「人並みにはあるんじゃないかな」
「なあに、それ。あるならそれでいいんだけどね」
日頃俺に無関心の母がついでに聞いておこう、というように聞いてきた。
野球に打ち込み、プロも視野に入れている光瑠に比べれば、俺は出来損ないだろう。
今の俺には夢とか目標とか、そういうものはない。
ないというか持てなくなってしまったのだと思う。
それでも、夢があるような、そんな言い方をしてリビングを出た。
自室に戻るとカーテンの隙間から街灯の明かりが少し見える程度の暗闇が俺を迎え入れる。おまけに室内は冷えきっていた。
深い息を吐くと目の前に靄がかかる。靄が消えたかと思えば机上のプリントが視界に入ってきた。
進路希望票だ。
中学生の進路希望と高校生の進路希望は意味合いが違う。
それは選択によって未来が狭まる、ということではなく、年齢を重ねるにつれて限界に気付いてしまうことだと思う。
そのせいで勉強も運動も、人並みが精一杯の俺なんかが夢を語るなんて贅沢だと思ってしまうのだから。
希望票の締め切りまではあと数日残されている。
長期休暇の課題を最終日まで残すくらいの気持ちでベッドに倒れ込んだ。
結局その日はそのまま眠りについた。
それからのことはあまり覚えていない。それくらいに代わり映えない日々を過ごしていた。
数日後には冬休みに突入しているのだから惰性で生きているというのもあるだろうけど。
しかし今日はいつもと違った。
今日は待ちに待った夜々稔の新作『朝をなぞって』の発売日なのだ。今日だけは誰かに声を掛けられる前に書店へ急ぐ必要があった。
6限目が終わると同時にリュックに荷物を詰め始めていた。
今日も拓実は部活だろうから帰りながら断りの連絡を入れるつもりだ。俺が居ても居なくても拓実は締切に向かってただ描き続けるのみだろうから。
「呼ばれてるぞ依田」
クラスメイトの羽瀬要に呼ばれて廊下を見ると拓実が顔の前で手を合わせていた。
「ごめん、今日部活パスで」
「わかった、じゃあまたな」
それくらいしか用件はなかったみたいで、拓実は「おう」と返して教室へ戻っていった。
俺にも好都合だった。申し訳ないと思わずに済むのだから。
「依田って部活入ってたんだ」
羽瀬は俺の前に立ったまま、おもむろに聞いてくる。
目にかかる重たい前髪の隙間から確実に羽瀬と目が合っていた。
俺は慌てて視線を落とす。
羽瀬とはただクラスメイトというだけでろくに会話をしたことがない。むしろ整った顔立ちと性格の良さから一目置かれている羽瀬と俺に接点が生まれていいはずが無かった。
「まぁ……美術部だけど」
「じゃあ何か描いてんの?」
「いや、俺は描かない。絶望的に絵心がないんだ」
「なんだよそれ、なら辞めればいいだろ」
羽瀬の口調は穏やかながらに棘がある物言いだった。
羽瀬の言うとおりだ。描かない奴が部活にいたって邪魔になるだけだ。
その指摘には何の文句もない。俺だって何度も思った。それでも美術室通いを辞められない理由は明白だった。
「やめらんないよ、俺が辞めたら美術部は廃部……桧山って……さっきの奴、絵が超うまいんだ。だからどうしても続いてほしくて」
「なんだ、頼み事か」
羽瀬はつまらないと言いたげだった。
自分の意思ではなかったことが癇に障ったのか、羽瀬は何か言いたげな表情で席へ戻った。
そもそも羽瀬と俺はただのクラスメイト。これから先も深くは交わらないのだから羽瀬のことなんて忘れよう、そう思いながらも羽瀬の言葉が脳内を駆け回り続けていた。
HR終了のチャイムと同時に教室を飛び出す。
「依田!」
神谷先生が俺を追いかけ、引き留めようと声を上げる。聞こえないふりをしようと思ったがそれは不可能に近かった。
放課後が始まったばかりの今、騒がしいのは教室くらいで廊下は案外静かなものだ。
恐る恐る振り返るとクラス名簿を持ちながら右手を挙げていた。プロ野球選手を目指していたらしくガタイの良い神谷先生と向き合うと身体が固まってしまう。神谷先生は俺の顔を見てハッとした表情を浮かべると、たちまち距離を詰めてくる。
「提出物をチェックして持って降りてくれないか?」
「……はい」
「ごめんな、じゃあお願い」
『朝をなぞって』で頭がいっぱいで、気づけば話が俺を置いて進んでしまっていた。
仕方なく教室に引き返して教卓の上に積み上げられた提出物のプリントに触れる。
誰かに頼めたとして教室にクラスメイトの姿は数人だし皆が談笑に耽っていた。
早く終わらせて学校を出ようと腹をくくったところで背後に気配を感じる。
「俺がやるよ」
振り返るとそこにいたのは羽瀬だった。羽瀬を見ると数分前の出来事を嫌でも思い出してしまう。
羽瀬に頼むくらいならひとりで片付けた方が気楽でいい。迷うことなく断ることにした。
「いや、いい……」
断られたことに驚いたのか、羽瀬はしばらくその場に立ち尽くしていた。
これには俺もすかさず続ける。
「なんだよ、つまらないとでも言いに来たのか?」
「んなわけねぇだろ。それ俺に手伝わせろ、その方が早く終わるだろ」
それなのに羽瀬は俺に構わずプリントを出席番号順に並べ替え始めた。
そこまでくれば俺に断る理由なんてない。
ただ淡々と作業に打ち込む。
これさえ終われば俺は『朝をなぞって』を手に入れることができるのだから。
「なぁ、なに急いでたんだ?」
終盤に差し掛かったあたりで羽瀬が口を開く。
思わず顔を上げると、そこには乱雑に髪を掻く羽瀬の姿があった。
まじまじと見てみると確かに整った顔立ちをしていた。はっきりとした目鼻立ちに引き締まったフェイスライン。
その美しさには思わず目を奪われてしまっていた。
「……小説の発売日が今日で……それで早く買いに行きたくて」
咄嗟に目を逸らして言う俺に羽瀬は微笑んだ。
「かわいいな」
「可愛かねぇよ」
「でも意外だな」
「へ?」
「いや、なんでもない」
羽瀬が何を考えているのかが分からなかった。
結局、それ以降会話が続くことはなく、一緒に職員室に提出してから別れた。
羽瀬要という存在が、俺にはちっともわからなかった。ただ、親しくなることはない、なりたくないと思ったことだけは確かだった。
自転車を立ち漕ぎして書店へ急ぐ。
今日だけは吹奏楽部の練習の音が俺への応援歌にさえ思える。
風にさらされて冷え切った耳を時折手で抑えながら進んで行く。
書店に着くや否や荒く自転車を止めて屋内へ急いだ。
どうやら夜々稔はこの街にゆかりがあるらしい。この書店は最新作が出るたびに多くのサイン入りの新作を展開してくれる。夜々稔の特設ブースだってレジ前に大々的に配置されている。
そのブースの中でひときわ積み上げられていた『朝をなぞって』を山の一番上から手に取ると両手で抱えてレジに向かった。
ごくわずかのお小遣いも小説になら、夜々稔のためならいくら使っても苦しくはない。
おまけのブックカバーはネイビー一択。一番夜っぽいという安直な理由だ。
「良いですよね、夜々稔先生」
会計をしてくれた男性が袋に入った本を差し出しながら言う。
「はい、最高です」
満面の笑みを残して家へ急いだ。
真っ直ぐ部屋に戻り、ベッドに横になって作品の世界に飛び込む。
楽しみに待った期間を助走に、夕飯までのわずかな時間で読み切った。
なんだか新鮮な話だった。主人公の男子高校生目線でひとりの女子高校生の人生が描かれた物語。青春らしい甘酸っぱさはなく現実の過酷さと、その中にある小さな幸せが描かれている。
読書家からすればありふれた作品だっただろうとも思う。それでも恋愛小説ではなかった。勿論、淡い青春なんかでも。
これぞ夜々稔と感心しながら、翌日学校だというのにその日のうちに3度も読み返した。
翌朝登校すると外階段から誰かの争う声が聞こえた。
避けて通れるものならそうしたのだけど、あいにく廊下から見える場所だったのでなるべく速足で端を歩いた。
俺には関係の無いことだし巻き込まれる前に過ぎてしまおうとより足を速く回転させたところで突然足が棒のように固まって動かなくなった。
俺の視界に入ってきたのは険しい表情で向かい合う羽瀬と冴木だった。
俺はふたりの視界に入らないであろう位置で立ち止まる。階段からは会話の全てがはっきりと聞こえてきた。
「自分のことは自分でやれよ」
羽瀬の言葉に納得のいかない表情の冴木が分かりやすく舌打ちをする。
そんな冴木に羽瀬は引き下がらない。まるで冴木の全てを知ったうえで冷静さを保っているかのように。
「少しは時間あるだろ、逆算して考えろって言ってんだ」
「お前変わったな。野球から逃げて時間ができたからってさ」
「っ……俺はただお前の……」
「俺のためとでも言うつもりか?お前のそういうところがムカつくんだわ」
冴木はあまりにも羽瀬が引き下がらないことに腹を立て、羽瀬に背を向けた。
俺は教室へ急いだ。
あれは偶然で事故で。そう言い聞かせながら。
思い返せば羽瀬はよく人と衝突していた気がする。
それでも一部からは好かれていたし、ストレス解消のために誰かに八つ当たりしている様子でもなかった。
それが今ようやくわかった。
羽瀬は誰かのために、誰かの人生のために怒れる人間だったということを。
2学期最後の体育もソフトボールだった。
相変わらず冴木とペアを組んでキャッチボールをすることから始まる。
今朝の争いを見たからか、不思議と悪いことをしている気分だった。
それを知らない冴木は淡々とボールをこちらへ飛ばしてくる。
そういえば少し前から妙に誰かの視線を感じていた。
わざとボールを逃して振り返ると、グラウンドの隅のベンチに腰を掛ける羽瀬の姿があった。
そういえば羽瀬も野球部だ。
最近の羽瀬は体育を休み、グラウンドの隅で欠席者用のレポートを書いている。
今朝のやり取りで冴木に野球から逃げたと言われていたこととも関係があるのだろうか。
そういえば羽瀬が野球部とつるむ姿も見ていない気がする。
「あぁ……、羽瀬と関わらない方が身のためだと思うよ」
しばらくボールを拾わず突っ立っていた俺の背に冴木が溢す。
冴木の視線の先には少し先のどこでもない場所にある。
冴木を肯定することも否定することもなくボールを投げ返した。
その放課後も俺は係りの仕事を手伝っていた。
委員会と教科係の仕事が重なったと頼まれたので断る理由もなかった。
拓実には部活に遅れるとだけ事前に連絡を入れておいた。
「またパシリか?」
冴木の言葉のせいか羽瀬の優しさを知ってしまったからか、俺は手が止まったまま何も言えずにいた。
「図星かよ」
羽瀬は鼻で笑う。
「……いいんだ、俺には時間があるし」
「なんだよそれ、時間と命は皆平等だろうが」
「けど俺に時間があるのは事実だ、部活も習い事もなんもない俺には」
「それは依田がその人生を選んだだけだろ。つくづく依田を見てると頭にくるんだよな……」
「じゃあ見なきゃいいだろ、そもそも親しくないんだから」
「無理だな、クラスメイトなんだから勝手に視界に入って来る」
勝手な言い分だと思った。気にしなければいい。それだけのことなのだから。
腹を立てながらも手を進める。早く美術室に行こう、その一心だった。
「依田のことは優しい奴だとは思えない。ただの自己犠牲だろ」
羽瀬は俺の気持ちなんか知らないというように続けた。
「自己犠牲の優しさに何があるってんだ」
羽瀬は俺に吐き捨てるように言うと前の扉から教室を出た。
俺にはよくわからなかった。確かに言葉は胸に刺さったけれど、それでも他人にここまで強く言える羽瀬要という存在が。
美術室には相変わらず拓実の姿だけが見える。
拓実は美術室の端で作品を描き続けていた。
「なぁ、羽瀬要って知ってる?」
「知ってるけどどうかした?」
「いや、確か野球部だったよなと思って」
「野球部だったよ。今は全く練習に参加してないみたいだけど」
「そっか、体育もずっと見学してるんだよな。怪我でもしてんのかな?」
「ん-、誰かから羽瀬が肩を壊したって聞いたことはあるけどそれが関係あるかはわからない」
「そうだよな……」
「まぁ何かはあったんだろうな、過去に何もない人間はいないだろ」
拓実は俺の発言に微笑みながら言う。
それに、ふーんと返してからは定位置で小説を読んでいた。
とはいえ小説を開きながら羽瀬の事ばかりを考えていたのだけど。
「できた」
拓実が絵に向かって呟いたところで我に返った。
達成感からか拓実は少し微笑みながら突っ立っていた。
「見てもいいか?」
「あぁ」
イーゼルにかけられたA4の画用紙には森とみられる世界が広がっていて、その中央にはイーゼルと絵がある。その森には鳥が何羽も集まって自由に飛び交っている。色鮮やかで何にも縛られない自由があって、俺はすぐにその絵の虜になった。
「今回のテーマが『私』だったんだ、結構時間かかったな」
『私』と聞いてすぐに拓実の姿を探す。けれどそこに拓実の実体はない。あるとすればこのイーゼルと絵くらいだろうか。
拓実らしさを探せばこの絵にはいくつもあるのだろうけどそれでいいのだろうか。
腑に落ちていないことを察したのか、拓実が口を開いた。
「俺が居ないって思っただろ?いないよ、どこにも……別に変な意味じゃないさ、絵の中にいないだけ。俯瞰して見てるんだよ」
「……俯瞰」
「そう、俯瞰。あとは想像にお任せするよ。解釈に正解はないからね」
そう言い残すと拓実は絵はそのままに片づけを始めた。
その帰り道、自転車を漕ぎながら自分の人生を俯瞰しようとしていた。
俺の人生を1枚の絵にするとすれば何を描くだろうか。
野球も美術も俺には関係の無いことだった。周りに誇れることだってひとつもない。考えれば考えるほど俺には何もなかった。
「あらおかえり。そうだ、ちょうどいいわ!」
家に入るや否や、玄関では母がハッとした表情で俺を見ていた。
「……おかえり」
母の声に反応したのか、リビングから弟の光瑠が顔を出す。
光瑠はいつの間にか俺の身長を優に超え、変声期も迎えていた。
野球に打ち込んでいるだけあってか服の上からもしっかりとした身体つきがわかる。
それにしても光瑠の帰省はてっきり年末年始だと思っていた。まだ今日は12月23日だし、年末の帰省にしては少し早い気がする。強豪校に所属しているなら尚更だ。
何かあったことを察しながら母の言葉を待った。
「せっかくだしどこかに食べに行こうかなと思ってね。光瑠は何が食べたい?」
「ん-、特にはないかな……?兄ちゃんは?」
「俺は良いよ、なんでも」
弟とはいえど光瑠が家を出てから年に数回しか会わないので親戚に近い感覚だ。
お互いがお互いの顔色を伺っていた。
父の帰宅を待ってから、光瑠の希望でハンバーグを食べに行った。
いつぶりだろうか。光瑠が家を出てからというもの、家族での外食の機会が格段に減った。
それからは家族での時間が貴重なものだと、知らず知らずのうちに気付かされていたのだと思う。
目の前に運ばれてきたこぶし大のハンバーグを眺めながら目が潤んだ。
外食の帰り、父と光瑠は何やら楽しそうに話しながら少し前を歩いていた。
俺は輪に入ることも足を速めることもなくゆっくりと歩き続ける。
光瑠が早く帰ってきたことも、久しぶりの外食もきっと何かがあってのことだと思った。それもあってか光瑠を傷つけるのが怖くてあえて距離を取ったのだ。
「光瑠、元気そうでしょ」
そう言う母の声はいつもより少し低い。きっと表情だって明るくはない。
「あれでも本当は、練習中に肩を怪我して精神的に弱っていたの。それで監督と話して一度帰って心を休めようって話になったのよ。だから、野球の話はしないであげてね」
母は俺にそれだけを言って黙ってしまった。
どんな怪我だとか、精神的なもののこととか、聞きたいほどは山ほどあった。
「なぁ……」
言葉に詰まる俺に母はゆっくりと顔を上げる。
「復帰はいつ頃できそうなんだ?」
「……どうかな、光瑠次第じゃないかな」
母はそれ以上何も言わなかった。
急かしたくなかったのだとも思う。光瑠自身が自分と向き合ってこの先を歩んで行けるように。
翌朝、10時に起きてリビングに降りると、【買い物をよろしくね】という書置きと手書きの買い物リストがダイニングテーブルに置いてあった。今日は1日予定がなかったので早く頼みごとを終わらせてゆっくりしようと、すぐに家を出て歩いてスーパーへ向かった。
スーパーは平日にもかかわらず多くの人で溢れかえっていた。
店内にはジングルベルのオルゴールが鳴り響く。そうか、今日はクリスマスイブか。
とはいえ高校生にもなればクリスマスの特別感は少しばかり落ち着いている。
せわしなく買い物をする人々に混ざって、穏やかな音楽に耳を傾けながら気長に買い物を続けた。
4人分の食材を買い込むと、大きなエコバックは限界まで膨らみ、ネギが袋からひょいと頭を出している。
買い物帰り、遠回りをして河川敷を歩いていた。なんとなく家に帰りたくなかったのだ。
河川敷を歩いていると見えてくる公園ではよく光瑠とキャッチボールをしたものだ。
その公園は今でも子供たちで賑わっていた。
しばらく河川敷を歩いていると河川敷の斜面に仰向けになり、時折野球ボールを真上に投げている姿が目に留まる。その人に見覚えがあったのだ。
「お前家でもパシリかよ」
先に気付いたのはその人・羽瀬であった。あまりにも大きな声で叫ぶので俺は羽瀬の元へ急いだ。
「いや、これは手伝いだ」
「手伝いって、依田からしてみれば全部手伝いなんだろ」
羽瀬は鼻で笑った。不思議と嫌味はなかった。
「羽瀬こそ……」
「ん?俺が何かしたかよ」
冴木は心当たりがない様子だった。
けれどこの機会に聞いてみようと思った。冴木との溝が深まることを羽瀬は望んでいないだろうから。
「昨日、冴木と争ってるの見たんだ。……何があった?」
「なんでもねぇよ、ちょっと頭に来ただけ……」
「違うだろ……羽瀬は理由なくそんなことしないって」
自分でも驚くぐらいに声が出ていた。
それには羽瀬も「ふはっ」と笑って見せた。
「やっぱり依田は優しいんだな」
「皮肉のつもりか?」
「そういうことかもな」
羽瀬は苦笑いを見せる。
俺には隠し事ができないと言いたげな表情をしていた。
「俺はただ中途半端に諦めようとする冴木が許せなかった。すぐに諦めようとするのが冴木の悪い癖でさ……頑張れば手が届くのに、それなのによくも簡単に諦められるよなって思って。羨ましかったんだよ。ろくに努力もしない俺が言えたことじゃないけどさ」
やはり冴木のために、冴木の人生のために声を上げていたのだ。たとえそれが羽瀬自身のためだったとしても、それでも俺は羽瀬を尊敬する。
黙って羽瀬を見つめていると、どうせ冴木には伝わってないんだけどな、と苦笑いを見せた。
「俺さ、優しさの裏には隠したい過去があると思ってんだ。だから知りたかったんだ、依田のことも……それでも言い過ぎたよな、すまなかった」
「いや、いいんだよ。羽瀬の言う通りだったし」
痛いことを言うなとも思っていたけれど、同時にそれが真実だと痛いほどわかった。
ひとりだときっと目を背け続けていたことに向き合わせてくれたのは間違いなく羽瀬だった。
「羽瀬の優しさも自己犠牲かもな。どう思われたって誰かのために怒れるんだ、俺は羽瀬を尊敬するよ」
「……んだよ」
羽瀬は照れくさいような、情けないとでもいうような表情をしていた。羽瀬の手の中のボールはいっそう強く握られた。
「羽瀬にもあるんだろ?今の羽瀬を作った過去が」
「まあ、そういうことになるよな」
羽瀬はそれ以上何も言わなかった。
向こう岸をじっと見つめていた羽瀬の表情は心なしか晴れていた。
「なぁ、依田って文句とか愚痴と無縁なわけ?結局黒い一面見えないままだったんだけどさ」
「俺にだってあるよ、学校行くの面倒だなとか冬の体育の愚痴とか」
「ふはっ」
「なんだよ、普通だろ」
「あぁ、普通だな」
この時、俺たちは初めて友人になれたのだと思う。
それからは俺も羽瀬の隣で横になり学校の愚痴だとか、たわいもない世間話をしていた。
ふたりの間を雲はゆっくりと流れていく。俺たちの人生を暗示するかのように。
「なぁ、最後にひとついいか?」
羽瀬の改まった態度に黙って頷く。ひとつでもふたつでも、羽瀬が望むのならいくつだって構わない。羽瀬の言葉は、誰よりも俺を思ってくれているのだから。
「依田も少しは自分の人生を生きろ。依田の人生の主人公は依田自身なんだからな」
羽瀬は強かった。
羽瀬はボールを真上に投げながら、もう少しここにいると言って俺を送り出した。
俺には向き合わなければならない相手がいる。俺自身のためにも。
家に帰り、買い物袋から冷蔵庫に食材を移していると光瑠が飲み物を取りにリビングに降りてきた。
光瑠はグレーのスウェット姿で頭には派手な寝癖がある。ゆっくりできたのなら何よりだと胸を撫で下ろした。
俺はシチューのルーを棚にしまいながら光瑠に声を掛けた。
「今日の夕飯はホワイトシチューだと思うよ」
「……うん」
返ってきたのは明らかに心ここにあらずといった反応だった。
昨日の外食とは明らかに違う光瑠の様子に手を止めた。
光瑠はその場にじっと立ったまま目を潤ませていた。
昨晩に何かがあったのだと思った。
だからあえて何も聞かなかった。
余計な刺激を与えたくなかったのだ。
「兄ちゃんは何も聞かないんだな、やっぱり兄ちゃんは……」
「……優しい?」
「あ……うん」
俺の脳内を羽瀬が埋め尽くす。
羽瀬の言葉が、俺の優しさが偽物だってことが。
「別に優しくなんかない、ただの自己犠牲だ」
「そうかな?」
「そうだ、俺は優しくない」
目を丸くする光瑠の前で言い切った。
俺は優しくない。深く聞き出そうとしなかったのは光瑠の負担になりたくなかったからだ。
光瑠と距離を置いたのだって俺が傷つきたくなかったから。
結局、俺は光瑠のことを第一にも考えられていなかった。
それでも向き合わなければならなくなった以上、引き下がるわけにも逃げるわけにもいかない。
腹をくくった。
「光瑠が早く帰ってきた理由だって本当は知ってる」
光瑠はやっぱりか、という表情で俺を見た。光瑠は俺に肩を持ってもらうことを期待していたかもしれない。
そんな光瑠を前にしても俺は止まれなかった。
「辞めたいなら辞めればいいよ、無理はしなくていい」
光瑠の人生に野球を辞めるという選択肢が出てきた瞬間だった。光瑠は一瞬、ほっとしたような顔を見せた。
辞めろというわけではない。ただ、光瑠自身がどうしたいか、それを今一度考えてほしかったのだ。
それは確かに光瑠に伝わっていると思う。
光瑠は大粒の涙を流しながらも強く唇を嚙みしめていた。目にも闘志が見える。
「光瑠の人生なんだから光瑠が決めればいいんだ。続けるのも辞めるのも、どっちにしても光瑠の人生だから」
光瑠は立ち尽くしたまま、それでも強く握られた拳からは、すでに進むべき道を決めたように思えた。
光瑠に言いながら自分に言い聞かせるつもりだった。
俺も自分の人生を始めよう。
自己犠牲がいつか本当の優しさに代わっていけるように。
自分をもっと愛せるように。
高校生になって9か月。学校生活にも多分、慣れきった。
「悪い、これ頼む。神谷に呼ばれててさ……いつか借りは返すから!」
昼休憩、クラスメイトの冴木修矢は教室で小説を読んでいた俺に提出物のプリントを押し付けて足早に教室を出て行く。たしか冴木は野球部だった。神谷というのは神谷謙佑で、野球部の顧問兼俺たちのクラス担任でもある。僕に有無を言わさない冴木を腹立たしく思いかけたところで、野球部なら仕方ないかと思う。
俺の通う学校はどこにでもある共学の公立校。
部活も学力も基本的には平凡集団だった。野球部を除いては。
野球部は数年前から外部コーチを迎え、あっという間に県大会で上位入賞常連校になった。練習もハードで普段の生活意識も俺とは明らかに違う。
練習の愚痴だとか身体づくりの話だとかを教室で溢す部員を見てよく頑張るなと思う。
なんて、俺には無縁の話だけど。
これがワークでなくてよかったと胸を撫で下ろしながおそらく40枚ある英語のプリントを手に階段を下る。
まだ昼休み終了までは時間がある。誰ともすれ違うことなく英語科の職員室前の指定ボックスにプリントを入れて引き返した。
早いけれど戻って次の授業の支度をしなくては。それも、体育の支度を。
5限目の体育は憂鬱だ。
一桁の気温の中薄着で運動場というのも、食後に運動というのも気が狂っていると思う。
おまけに年が明ければ長距離走だという。
食後の激しい運動は健康を害するんじゃなかったか。
不満を抱えながら更衣し、重い足取りで運動場へ向かう。
体操着は半袖にポリエステルの長袖ジャージ。冬を乗り切るにはあまりにも軽装だ。
下に保温のきいた下着を着たところで服の間を構わず風が通り抜けていく。
このままでは丈夫な身体づくり以前に風邪をひいてしまう。
脳内で文句を垂れ流しながら整列場所へ駆け足で向かった。
「今日も引き続きソフトボールだ、まずはペアでキャッチボールな!」
準備体操をし終えた生徒に神谷先生が言う。
その声を聞く前に数名がグローブ争奪戦に走る。俺はその戦いには入らず、人がいなくなったタイミングで取りに歩いた。
もう使えないだろうというほどにしおれたグローブしか残っていない。おまけに砂埃を被っていて手を入れるとくすぐったい。
「依田、こっち!」
整列順でペアを作ることになったので偶然にも隣の冴木とキャッチボールをすることになった俺は、内心溜め息を溢しながら冴木の元へ向かった。
野球とソフトボールは違うと言っても俺からすればほぼ一緒。
毎日厳しい練習に励んでいる冴木からすれば俺とのキャッチボールはつまらないはずだ。
申し訳ないと思いながら何球かを投げていると、突然冴木が口を開いた。
「依田って経験者?」
「いや……」
「そっか、遊びでやってたとか?」
「あぁ……昔は弟の練習相手をしてたけどそれくらい」
戸惑いながらも冴木にボールを投げ返す。
山なりに飛んで行った球を冴木は華麗に捕球する。
「へぇ、それにしてはセンスあるよな」
別にお世辞という感じでもなかった。冴木は球を投げ返しながら淡々としていた。
けれど間違っても俺にセンスはない。ただ、少年野球チームに所属していた弟のために、練習のための練習をしていたというだけ。
才能なんて俺にはないのだから。
冴木に一目置かれてしまった俺はいつの間にか試合形式の練習でセンターを任されていた。
他の野球部員を差し置いて俺なんかが、と言おうとした時には既に皆が守備位置に向かっていて、仕方なくセンターを守る。どうせ授業内の話だし、ピッチャーじゃなければどこでもよかったのだけど。
面倒だと思いながらも身体が覚えてしまっているのでそれなりに捕球も送球も問題なくできてしまう。
「依田って意外と運動できるんだな」
攻守交替で下がっているとクラスメイト何人かに声を掛けられた。
「……そうみたいだな」
その返しにへぇというくらいでそれ以上の会話もない。そのくらいがちょうどよかった。
何事もなく体育を終え、それからは席に着いていると1日が終わっていた。
正直体育の後は頭が回らない。体力がないと言われてしまえばそれまでだけど。
放課後は美術室に行くのが俺の日課だった。
これでも俺は美術部員なのだ。ただの人数合わせだし絵心も致命的にないので画材を触ることは一切ない。
美術室に一歩足を踏み入れると、桧山拓実が俺に向かって手を上げる。
拓実とは中学からの友人で、美的センスがすさまじい。多くの賞をもらっていたし、何より俺が拓実の作品に惚れこんでいた。
それでこのままでは廃部になるからと拓実から美術部入部を打診されたとき、迷わず話に乗ったのだ。
「今日も続き?」
「そうだな、ちょうど締め切りが今週で結構焦ってる」
「それなのに俺いていいの?」
「いいというかむしろいてほしいんだ、悠がいてくれると心強い」
拓実は俺と会話しながら視線は作品を向いている。
美術室に他の部員が来ることはめったにない。
一応、あと3人が所属しているけれど皆が熱心なわけではないし、作業場を美術室に限らなくてもいいので無理もない。
そもそも大人数で何かひとつを完成させようという取り組みもないので集まる理由が無かったのだ。
俺は窓際の席に腰を下ろし、鞄から小説を取り出す。それは夜々稔の『夜に咲く青』だ。
救いの無い日常と懸命に生きようとする主人公の姿が胸に刺さり、以来、夜々稔のファンになった。
明日には新作が発売されるので、それまでにこの作品をもう1周しておきたかったのだ。
創作に励む拓実を横目に夜々稔の世界に入り込む。
「悠?」
「ごめん、どうした?」
拓実の呼びかけに反応が遅れるほどに没頭していたようだった。
拓実は俺の手元を見ている。作品はひと段落ついたみたいで、安堵の表情を浮かべていた。
「いや、好きなんだなと思って、それ」
「うん、好きだ」
「良かったよ、悠にも熱中できるものがあって」
その言い方に嫌味はない。
中学からの付き合いの拓実は度々こんなことを言う。
「ありがとな、いつも俺なんかに付き合ってくれてさ」
「いや……別に」
俺が拓実の作品に楽しませてもらっているのに、と思いながらも口には出さなかった。
追い込み中の拓実に余計な刺激を与えたくなかったのだ。
家が正反対なので拓実とは正門で別れた。
それから自転車に乗って家路についた。
ブレーキを効かせながら風を切って坂を下りた。
坂を下ればすぐに家が見えてくる。
青い屋根の一軒家。ガレージには車が2台止まっていた。
「そうだ、光瑠がこの年末は帰ってこれるって」
リビングに入るや否や母は料理中にも関わらず手を止めて俺を見てから満面の笑みを浮かべた。
俺の弟、光瑠は寮生活をしながら私立の成央学園中学校へ通っている。そこは野球の名門校で頭もいい。全てが平凡の俺とは住む世界が違う。
「元旦はお参りで決まりね、今年こそ光瑠が全国大会に行けるように」
「……うん」
母の眼中には光瑠だけがいる。
母も父も野球に詳しくはないけれど、全国大会に行くのが光瑠の夢だからと野球のルールを覚えるために推し球団を作っていた。
形から入った両親に斬新だなと思いつつも、同時に光瑠を未知の世界に送り出しただけあるなと妙に納得もしていた。
「悠は?夢とかそういうのはあるの?」
「人並みにはあるんじゃないかな」
「なあに、それ。あるならそれでいいんだけどね」
日頃俺に無関心の母がついでに聞いておこう、というように聞いてきた。
野球に打ち込み、プロも視野に入れている光瑠に比べれば、俺は出来損ないだろう。
今の俺には夢とか目標とか、そういうものはない。
ないというか持てなくなってしまったのだと思う。
それでも、夢があるような、そんな言い方をしてリビングを出た。
自室に戻るとカーテンの隙間から街灯の明かりが少し見える程度の暗闇が俺を迎え入れる。おまけに室内は冷えきっていた。
深い息を吐くと目の前に靄がかかる。靄が消えたかと思えば机上のプリントが視界に入ってきた。
進路希望票だ。
中学生の進路希望と高校生の進路希望は意味合いが違う。
それは選択によって未来が狭まる、ということではなく、年齢を重ねるにつれて限界に気付いてしまうことだと思う。
そのせいで勉強も運動も、人並みが精一杯の俺なんかが夢を語るなんて贅沢だと思ってしまうのだから。
希望票の締め切りまではあと数日残されている。
長期休暇の課題を最終日まで残すくらいの気持ちでベッドに倒れ込んだ。
結局その日はそのまま眠りについた。
それからのことはあまり覚えていない。それくらいに代わり映えない日々を過ごしていた。
数日後には冬休みに突入しているのだから惰性で生きているというのもあるだろうけど。
しかし今日はいつもと違った。
今日は待ちに待った夜々稔の新作『朝をなぞって』の発売日なのだ。今日だけは誰かに声を掛けられる前に書店へ急ぐ必要があった。
6限目が終わると同時にリュックに荷物を詰め始めていた。
今日も拓実は部活だろうから帰りながら断りの連絡を入れるつもりだ。俺が居ても居なくても拓実は締切に向かってただ描き続けるのみだろうから。
「呼ばれてるぞ依田」
クラスメイトの羽瀬要に呼ばれて廊下を見ると拓実が顔の前で手を合わせていた。
「ごめん、今日部活パスで」
「わかった、じゃあまたな」
それくらいしか用件はなかったみたいで、拓実は「おう」と返して教室へ戻っていった。
俺にも好都合だった。申し訳ないと思わずに済むのだから。
「依田って部活入ってたんだ」
羽瀬は俺の前に立ったまま、おもむろに聞いてくる。
目にかかる重たい前髪の隙間から確実に羽瀬と目が合っていた。
俺は慌てて視線を落とす。
羽瀬とはただクラスメイトというだけでろくに会話をしたことがない。むしろ整った顔立ちと性格の良さから一目置かれている羽瀬と俺に接点が生まれていいはずが無かった。
「まぁ……美術部だけど」
「じゃあ何か描いてんの?」
「いや、俺は描かない。絶望的に絵心がないんだ」
「なんだよそれ、なら辞めればいいだろ」
羽瀬の口調は穏やかながらに棘がある物言いだった。
羽瀬の言うとおりだ。描かない奴が部活にいたって邪魔になるだけだ。
その指摘には何の文句もない。俺だって何度も思った。それでも美術室通いを辞められない理由は明白だった。
「やめらんないよ、俺が辞めたら美術部は廃部……桧山って……さっきの奴、絵が超うまいんだ。だからどうしても続いてほしくて」
「なんだ、頼み事か」
羽瀬はつまらないと言いたげだった。
自分の意思ではなかったことが癇に障ったのか、羽瀬は何か言いたげな表情で席へ戻った。
そもそも羽瀬と俺はただのクラスメイト。これから先も深くは交わらないのだから羽瀬のことなんて忘れよう、そう思いながらも羽瀬の言葉が脳内を駆け回り続けていた。
HR終了のチャイムと同時に教室を飛び出す。
「依田!」
神谷先生が俺を追いかけ、引き留めようと声を上げる。聞こえないふりをしようと思ったがそれは不可能に近かった。
放課後が始まったばかりの今、騒がしいのは教室くらいで廊下は案外静かなものだ。
恐る恐る振り返るとクラス名簿を持ちながら右手を挙げていた。プロ野球選手を目指していたらしくガタイの良い神谷先生と向き合うと身体が固まってしまう。神谷先生は俺の顔を見てハッとした表情を浮かべると、たちまち距離を詰めてくる。
「提出物をチェックして持って降りてくれないか?」
「……はい」
「ごめんな、じゃあお願い」
『朝をなぞって』で頭がいっぱいで、気づけば話が俺を置いて進んでしまっていた。
仕方なく教室に引き返して教卓の上に積み上げられた提出物のプリントに触れる。
誰かに頼めたとして教室にクラスメイトの姿は数人だし皆が談笑に耽っていた。
早く終わらせて学校を出ようと腹をくくったところで背後に気配を感じる。
「俺がやるよ」
振り返るとそこにいたのは羽瀬だった。羽瀬を見ると数分前の出来事を嫌でも思い出してしまう。
羽瀬に頼むくらいならひとりで片付けた方が気楽でいい。迷うことなく断ることにした。
「いや、いい……」
断られたことに驚いたのか、羽瀬はしばらくその場に立ち尽くしていた。
これには俺もすかさず続ける。
「なんだよ、つまらないとでも言いに来たのか?」
「んなわけねぇだろ。それ俺に手伝わせろ、その方が早く終わるだろ」
それなのに羽瀬は俺に構わずプリントを出席番号順に並べ替え始めた。
そこまでくれば俺に断る理由なんてない。
ただ淡々と作業に打ち込む。
これさえ終われば俺は『朝をなぞって』を手に入れることができるのだから。
「なぁ、なに急いでたんだ?」
終盤に差し掛かったあたりで羽瀬が口を開く。
思わず顔を上げると、そこには乱雑に髪を掻く羽瀬の姿があった。
まじまじと見てみると確かに整った顔立ちをしていた。はっきりとした目鼻立ちに引き締まったフェイスライン。
その美しさには思わず目を奪われてしまっていた。
「……小説の発売日が今日で……それで早く買いに行きたくて」
咄嗟に目を逸らして言う俺に羽瀬は微笑んだ。
「かわいいな」
「可愛かねぇよ」
「でも意外だな」
「へ?」
「いや、なんでもない」
羽瀬が何を考えているのかが分からなかった。
結局、それ以降会話が続くことはなく、一緒に職員室に提出してから別れた。
羽瀬要という存在が、俺にはちっともわからなかった。ただ、親しくなることはない、なりたくないと思ったことだけは確かだった。
自転車を立ち漕ぎして書店へ急ぐ。
今日だけは吹奏楽部の練習の音が俺への応援歌にさえ思える。
風にさらされて冷え切った耳を時折手で抑えながら進んで行く。
書店に着くや否や荒く自転車を止めて屋内へ急いだ。
どうやら夜々稔はこの街にゆかりがあるらしい。この書店は最新作が出るたびに多くのサイン入りの新作を展開してくれる。夜々稔の特設ブースだってレジ前に大々的に配置されている。
そのブースの中でひときわ積み上げられていた『朝をなぞって』を山の一番上から手に取ると両手で抱えてレジに向かった。
ごくわずかのお小遣いも小説になら、夜々稔のためならいくら使っても苦しくはない。
おまけのブックカバーはネイビー一択。一番夜っぽいという安直な理由だ。
「良いですよね、夜々稔先生」
会計をしてくれた男性が袋に入った本を差し出しながら言う。
「はい、最高です」
満面の笑みを残して家へ急いだ。
真っ直ぐ部屋に戻り、ベッドに横になって作品の世界に飛び込む。
楽しみに待った期間を助走に、夕飯までのわずかな時間で読み切った。
なんだか新鮮な話だった。主人公の男子高校生目線でひとりの女子高校生の人生が描かれた物語。青春らしい甘酸っぱさはなく現実の過酷さと、その中にある小さな幸せが描かれている。
読書家からすればありふれた作品だっただろうとも思う。それでも恋愛小説ではなかった。勿論、淡い青春なんかでも。
これぞ夜々稔と感心しながら、翌日学校だというのにその日のうちに3度も読み返した。
翌朝登校すると外階段から誰かの争う声が聞こえた。
避けて通れるものならそうしたのだけど、あいにく廊下から見える場所だったのでなるべく速足で端を歩いた。
俺には関係の無いことだし巻き込まれる前に過ぎてしまおうとより足を速く回転させたところで突然足が棒のように固まって動かなくなった。
俺の視界に入ってきたのは険しい表情で向かい合う羽瀬と冴木だった。
俺はふたりの視界に入らないであろう位置で立ち止まる。階段からは会話の全てがはっきりと聞こえてきた。
「自分のことは自分でやれよ」
羽瀬の言葉に納得のいかない表情の冴木が分かりやすく舌打ちをする。
そんな冴木に羽瀬は引き下がらない。まるで冴木の全てを知ったうえで冷静さを保っているかのように。
「少しは時間あるだろ、逆算して考えろって言ってんだ」
「お前変わったな。野球から逃げて時間ができたからってさ」
「っ……俺はただお前の……」
「俺のためとでも言うつもりか?お前のそういうところがムカつくんだわ」
冴木はあまりにも羽瀬が引き下がらないことに腹を立て、羽瀬に背を向けた。
俺は教室へ急いだ。
あれは偶然で事故で。そう言い聞かせながら。
思い返せば羽瀬はよく人と衝突していた気がする。
それでも一部からは好かれていたし、ストレス解消のために誰かに八つ当たりしている様子でもなかった。
それが今ようやくわかった。
羽瀬は誰かのために、誰かの人生のために怒れる人間だったということを。
2学期最後の体育もソフトボールだった。
相変わらず冴木とペアを組んでキャッチボールをすることから始まる。
今朝の争いを見たからか、不思議と悪いことをしている気分だった。
それを知らない冴木は淡々とボールをこちらへ飛ばしてくる。
そういえば少し前から妙に誰かの視線を感じていた。
わざとボールを逃して振り返ると、グラウンドの隅のベンチに腰を掛ける羽瀬の姿があった。
そういえば羽瀬も野球部だ。
最近の羽瀬は体育を休み、グラウンドの隅で欠席者用のレポートを書いている。
今朝のやり取りで冴木に野球から逃げたと言われていたこととも関係があるのだろうか。
そういえば羽瀬が野球部とつるむ姿も見ていない気がする。
「あぁ……、羽瀬と関わらない方が身のためだと思うよ」
しばらくボールを拾わず突っ立っていた俺の背に冴木が溢す。
冴木の視線の先には少し先のどこでもない場所にある。
冴木を肯定することも否定することもなくボールを投げ返した。
その放課後も俺は係りの仕事を手伝っていた。
委員会と教科係の仕事が重なったと頼まれたので断る理由もなかった。
拓実には部活に遅れるとだけ事前に連絡を入れておいた。
「またパシリか?」
冴木の言葉のせいか羽瀬の優しさを知ってしまったからか、俺は手が止まったまま何も言えずにいた。
「図星かよ」
羽瀬は鼻で笑う。
「……いいんだ、俺には時間があるし」
「なんだよそれ、時間と命は皆平等だろうが」
「けど俺に時間があるのは事実だ、部活も習い事もなんもない俺には」
「それは依田がその人生を選んだだけだろ。つくづく依田を見てると頭にくるんだよな……」
「じゃあ見なきゃいいだろ、そもそも親しくないんだから」
「無理だな、クラスメイトなんだから勝手に視界に入って来る」
勝手な言い分だと思った。気にしなければいい。それだけのことなのだから。
腹を立てながらも手を進める。早く美術室に行こう、その一心だった。
「依田のことは優しい奴だとは思えない。ただの自己犠牲だろ」
羽瀬は俺の気持ちなんか知らないというように続けた。
「自己犠牲の優しさに何があるってんだ」
羽瀬は俺に吐き捨てるように言うと前の扉から教室を出た。
俺にはよくわからなかった。確かに言葉は胸に刺さったけれど、それでも他人にここまで強く言える羽瀬要という存在が。
美術室には相変わらず拓実の姿だけが見える。
拓実は美術室の端で作品を描き続けていた。
「なぁ、羽瀬要って知ってる?」
「知ってるけどどうかした?」
「いや、確か野球部だったよなと思って」
「野球部だったよ。今は全く練習に参加してないみたいだけど」
「そっか、体育もずっと見学してるんだよな。怪我でもしてんのかな?」
「ん-、誰かから羽瀬が肩を壊したって聞いたことはあるけどそれが関係あるかはわからない」
「そうだよな……」
「まぁ何かはあったんだろうな、過去に何もない人間はいないだろ」
拓実は俺の発言に微笑みながら言う。
それに、ふーんと返してからは定位置で小説を読んでいた。
とはいえ小説を開きながら羽瀬の事ばかりを考えていたのだけど。
「できた」
拓実が絵に向かって呟いたところで我に返った。
達成感からか拓実は少し微笑みながら突っ立っていた。
「見てもいいか?」
「あぁ」
イーゼルにかけられたA4の画用紙には森とみられる世界が広がっていて、その中央にはイーゼルと絵がある。その森には鳥が何羽も集まって自由に飛び交っている。色鮮やかで何にも縛られない自由があって、俺はすぐにその絵の虜になった。
「今回のテーマが『私』だったんだ、結構時間かかったな」
『私』と聞いてすぐに拓実の姿を探す。けれどそこに拓実の実体はない。あるとすればこのイーゼルと絵くらいだろうか。
拓実らしさを探せばこの絵にはいくつもあるのだろうけどそれでいいのだろうか。
腑に落ちていないことを察したのか、拓実が口を開いた。
「俺が居ないって思っただろ?いないよ、どこにも……別に変な意味じゃないさ、絵の中にいないだけ。俯瞰して見てるんだよ」
「……俯瞰」
「そう、俯瞰。あとは想像にお任せするよ。解釈に正解はないからね」
そう言い残すと拓実は絵はそのままに片づけを始めた。
その帰り道、自転車を漕ぎながら自分の人生を俯瞰しようとしていた。
俺の人生を1枚の絵にするとすれば何を描くだろうか。
野球も美術も俺には関係の無いことだった。周りに誇れることだってひとつもない。考えれば考えるほど俺には何もなかった。
「あらおかえり。そうだ、ちょうどいいわ!」
家に入るや否や、玄関では母がハッとした表情で俺を見ていた。
「……おかえり」
母の声に反応したのか、リビングから弟の光瑠が顔を出す。
光瑠はいつの間にか俺の身長を優に超え、変声期も迎えていた。
野球に打ち込んでいるだけあってか服の上からもしっかりとした身体つきがわかる。
それにしても光瑠の帰省はてっきり年末年始だと思っていた。まだ今日は12月23日だし、年末の帰省にしては少し早い気がする。強豪校に所属しているなら尚更だ。
何かあったことを察しながら母の言葉を待った。
「せっかくだしどこかに食べに行こうかなと思ってね。光瑠は何が食べたい?」
「ん-、特にはないかな……?兄ちゃんは?」
「俺は良いよ、なんでも」
弟とはいえど光瑠が家を出てから年に数回しか会わないので親戚に近い感覚だ。
お互いがお互いの顔色を伺っていた。
父の帰宅を待ってから、光瑠の希望でハンバーグを食べに行った。
いつぶりだろうか。光瑠が家を出てからというもの、家族での外食の機会が格段に減った。
それからは家族での時間が貴重なものだと、知らず知らずのうちに気付かされていたのだと思う。
目の前に運ばれてきたこぶし大のハンバーグを眺めながら目が潤んだ。
外食の帰り、父と光瑠は何やら楽しそうに話しながら少し前を歩いていた。
俺は輪に入ることも足を速めることもなくゆっくりと歩き続ける。
光瑠が早く帰ってきたことも、久しぶりの外食もきっと何かがあってのことだと思った。それもあってか光瑠を傷つけるのが怖くてあえて距離を取ったのだ。
「光瑠、元気そうでしょ」
そう言う母の声はいつもより少し低い。きっと表情だって明るくはない。
「あれでも本当は、練習中に肩を怪我して精神的に弱っていたの。それで監督と話して一度帰って心を休めようって話になったのよ。だから、野球の話はしないであげてね」
母は俺にそれだけを言って黙ってしまった。
どんな怪我だとか、精神的なもののこととか、聞きたいほどは山ほどあった。
「なぁ……」
言葉に詰まる俺に母はゆっくりと顔を上げる。
「復帰はいつ頃できそうなんだ?」
「……どうかな、光瑠次第じゃないかな」
母はそれ以上何も言わなかった。
急かしたくなかったのだとも思う。光瑠自身が自分と向き合ってこの先を歩んで行けるように。
翌朝、10時に起きてリビングに降りると、【買い物をよろしくね】という書置きと手書きの買い物リストがダイニングテーブルに置いてあった。今日は1日予定がなかったので早く頼みごとを終わらせてゆっくりしようと、すぐに家を出て歩いてスーパーへ向かった。
スーパーは平日にもかかわらず多くの人で溢れかえっていた。
店内にはジングルベルのオルゴールが鳴り響く。そうか、今日はクリスマスイブか。
とはいえ高校生にもなればクリスマスの特別感は少しばかり落ち着いている。
せわしなく買い物をする人々に混ざって、穏やかな音楽に耳を傾けながら気長に買い物を続けた。
4人分の食材を買い込むと、大きなエコバックは限界まで膨らみ、ネギが袋からひょいと頭を出している。
買い物帰り、遠回りをして河川敷を歩いていた。なんとなく家に帰りたくなかったのだ。
河川敷を歩いていると見えてくる公園ではよく光瑠とキャッチボールをしたものだ。
その公園は今でも子供たちで賑わっていた。
しばらく河川敷を歩いていると河川敷の斜面に仰向けになり、時折野球ボールを真上に投げている姿が目に留まる。その人に見覚えがあったのだ。
「お前家でもパシリかよ」
先に気付いたのはその人・羽瀬であった。あまりにも大きな声で叫ぶので俺は羽瀬の元へ急いだ。
「いや、これは手伝いだ」
「手伝いって、依田からしてみれば全部手伝いなんだろ」
羽瀬は鼻で笑った。不思議と嫌味はなかった。
「羽瀬こそ……」
「ん?俺が何かしたかよ」
冴木は心当たりがない様子だった。
けれどこの機会に聞いてみようと思った。冴木との溝が深まることを羽瀬は望んでいないだろうから。
「昨日、冴木と争ってるの見たんだ。……何があった?」
「なんでもねぇよ、ちょっと頭に来ただけ……」
「違うだろ……羽瀬は理由なくそんなことしないって」
自分でも驚くぐらいに声が出ていた。
それには羽瀬も「ふはっ」と笑って見せた。
「やっぱり依田は優しいんだな」
「皮肉のつもりか?」
「そういうことかもな」
羽瀬は苦笑いを見せる。
俺には隠し事ができないと言いたげな表情をしていた。
「俺はただ中途半端に諦めようとする冴木が許せなかった。すぐに諦めようとするのが冴木の悪い癖でさ……頑張れば手が届くのに、それなのによくも簡単に諦められるよなって思って。羨ましかったんだよ。ろくに努力もしない俺が言えたことじゃないけどさ」
やはり冴木のために、冴木の人生のために声を上げていたのだ。たとえそれが羽瀬自身のためだったとしても、それでも俺は羽瀬を尊敬する。
黙って羽瀬を見つめていると、どうせ冴木には伝わってないんだけどな、と苦笑いを見せた。
「俺さ、優しさの裏には隠したい過去があると思ってんだ。だから知りたかったんだ、依田のことも……それでも言い過ぎたよな、すまなかった」
「いや、いいんだよ。羽瀬の言う通りだったし」
痛いことを言うなとも思っていたけれど、同時にそれが真実だと痛いほどわかった。
ひとりだときっと目を背け続けていたことに向き合わせてくれたのは間違いなく羽瀬だった。
「羽瀬の優しさも自己犠牲かもな。どう思われたって誰かのために怒れるんだ、俺は羽瀬を尊敬するよ」
「……んだよ」
羽瀬は照れくさいような、情けないとでもいうような表情をしていた。羽瀬の手の中のボールはいっそう強く握られた。
「羽瀬にもあるんだろ?今の羽瀬を作った過去が」
「まあ、そういうことになるよな」
羽瀬はそれ以上何も言わなかった。
向こう岸をじっと見つめていた羽瀬の表情は心なしか晴れていた。
「なぁ、依田って文句とか愚痴と無縁なわけ?結局黒い一面見えないままだったんだけどさ」
「俺にだってあるよ、学校行くの面倒だなとか冬の体育の愚痴とか」
「ふはっ」
「なんだよ、普通だろ」
「あぁ、普通だな」
この時、俺たちは初めて友人になれたのだと思う。
それからは俺も羽瀬の隣で横になり学校の愚痴だとか、たわいもない世間話をしていた。
ふたりの間を雲はゆっくりと流れていく。俺たちの人生を暗示するかのように。
「なぁ、最後にひとついいか?」
羽瀬の改まった態度に黙って頷く。ひとつでもふたつでも、羽瀬が望むのならいくつだって構わない。羽瀬の言葉は、誰よりも俺を思ってくれているのだから。
「依田も少しは自分の人生を生きろ。依田の人生の主人公は依田自身なんだからな」
羽瀬は強かった。
羽瀬はボールを真上に投げながら、もう少しここにいると言って俺を送り出した。
俺には向き合わなければならない相手がいる。俺自身のためにも。
家に帰り、買い物袋から冷蔵庫に食材を移していると光瑠が飲み物を取りにリビングに降りてきた。
光瑠はグレーのスウェット姿で頭には派手な寝癖がある。ゆっくりできたのなら何よりだと胸を撫で下ろした。
俺はシチューのルーを棚にしまいながら光瑠に声を掛けた。
「今日の夕飯はホワイトシチューだと思うよ」
「……うん」
返ってきたのは明らかに心ここにあらずといった反応だった。
昨日の外食とは明らかに違う光瑠の様子に手を止めた。
光瑠はその場にじっと立ったまま目を潤ませていた。
昨晩に何かがあったのだと思った。
だからあえて何も聞かなかった。
余計な刺激を与えたくなかったのだ。
「兄ちゃんは何も聞かないんだな、やっぱり兄ちゃんは……」
「……優しい?」
「あ……うん」
俺の脳内を羽瀬が埋め尽くす。
羽瀬の言葉が、俺の優しさが偽物だってことが。
「別に優しくなんかない、ただの自己犠牲だ」
「そうかな?」
「そうだ、俺は優しくない」
目を丸くする光瑠の前で言い切った。
俺は優しくない。深く聞き出そうとしなかったのは光瑠の負担になりたくなかったからだ。
光瑠と距離を置いたのだって俺が傷つきたくなかったから。
結局、俺は光瑠のことを第一にも考えられていなかった。
それでも向き合わなければならなくなった以上、引き下がるわけにも逃げるわけにもいかない。
腹をくくった。
「光瑠が早く帰ってきた理由だって本当は知ってる」
光瑠はやっぱりか、という表情で俺を見た。光瑠は俺に肩を持ってもらうことを期待していたかもしれない。
そんな光瑠を前にしても俺は止まれなかった。
「辞めたいなら辞めればいいよ、無理はしなくていい」
光瑠の人生に野球を辞めるという選択肢が出てきた瞬間だった。光瑠は一瞬、ほっとしたような顔を見せた。
辞めろというわけではない。ただ、光瑠自身がどうしたいか、それを今一度考えてほしかったのだ。
それは確かに光瑠に伝わっていると思う。
光瑠は大粒の涙を流しながらも強く唇を嚙みしめていた。目にも闘志が見える。
「光瑠の人生なんだから光瑠が決めればいいんだ。続けるのも辞めるのも、どっちにしても光瑠の人生だから」
光瑠は立ち尽くしたまま、それでも強く握られた拳からは、すでに進むべき道を決めたように思えた。
光瑠に言いながら自分に言い聞かせるつもりだった。
俺も自分の人生を始めよう。
自己犠牲がいつか本当の優しさに代わっていけるように。
自分をもっと愛せるように。



