燦爛ブルー

 俺の日常はいつだって平凡だった。
 高校生になって9か月。学校生活にも多分、慣れきった。

 「悪い、これ頼む。神谷に呼ばれててさ……いつか借りは返すから!」
 昼休憩、クラスメイトの冴木修矢(さえき しゅうや)は教室で小説を読んでいた俺に提出物のプリントを押し付けて足早に教室を出て行く。たしか冴木は野球部だった。神谷というのは神谷謙佑(かみや けんすけ)で、野球部の顧問兼俺たちのクラス担任でもある。僕に有無を言わさない冴木を腹立たしく思いかけたところで、野球部なら仕方ないかと思う。
 俺の通う学校はどこにでもある共学の公立校。
 部活も学力も基本的には平凡集団だった。野球部を除いては。
 野球部は数年前から外部コーチを迎え、あっという間に県大会で上位入賞常連校になった。練習もハードで普段の生活意識も俺とは明らかに違う。
 練習の愚痴だとか身体づくりの話だとかを教室で溢す部員を見てよく頑張るなと思う。
 なんて、俺には無縁の話だけど。
 これがワークでなくてよかったと胸を撫で下ろしながおそらく40枚ある英語のプリントを手に階段を下る。
 まだ昼休み終了までは時間がある。誰ともすれ違うことなく英語科の職員室前の指定ボックスにプリントを入れて引き返した。
 早いけれど戻って次の授業の支度をしなくては。それも、体育の支度を。

 5限目の体育は憂鬱だ。
 一桁の気温の中薄着で運動場だなんて、それも食後に運動というのは気が狂っていると思う。
 おまけに年が明ければ長距離走だという。
 食後の激しい運動は健康を害するんじゃなかったっけ。
 不満を抱えながら更衣し、重い足取りで運動場へ向かう。
 体操着は半袖にポリエステルの長袖ジャージ。冬を乗り切るにはあまりにも軽装だ。 
 下に保温のきいた下着を着たところで服の間を構わず風が通り抜けていく。
 このままでは丈夫な身体づくり以前に風邪をひいてしまう。
 脳内で文句を垂れ流しながら整列場所へ駆け足で向かった。

 「今日も引き続きソフトボールだ、まずはペアでキャッチボールな!」
 準備体操をし終えた生徒に神谷先生が言う。
 その声を聞く前に数名がグローブ争奪戦に走る。俺はその戦いには入らず、人がいなくなったタイミングで取りに歩いた。
 もう使えないだろうというほどにしおれたグローブしか残っていない。おまけに砂埃を被っていて手を入れるとくすぐったい。

 「依田、こっち!」
 整列順でペアを作ることになったので偶然にも隣の冴木とキャッチボールをすることになった俺は内心溜め息を溢しながら冴木の元へ向かった。
 野球とソフトボールは違うと言っても俺からすればほぼ一緒。
 毎日激しい練習に励んでいる冴木からすれば俺とのキャッチボールはつまらないはずだ。
 申し訳ないと思いながら何球かを投げていると、突然冴木が口を開いた。
 「依田って経験者?」
 「いや……」
 「そっか、遊びでやってたとか?」
 「あぁ……昔は弟の練習相手をしてたけどそれくらい」
 戸惑いながらも冴木にボールを投げ返す。
 山なりに飛んで行った球を冴木は華麗に捕球する。
 「へぇ、それにしてはセンスあるよな」
 別にお世辞という感じでもなかった。冴木は球を投げ返しながら淡々としていた。
 けれど間違っても俺にセンスはない。ただ、少年野球チームに所属していた弟のために、練習のための練習をしていたというだけ。
 才能なんか俺にはないのだから。

 冴木に一目置かれてしまった俺はいつの間にか試合形式の練習でセンターを任されていた。
 他の野球部員を差し置いて俺なんかが、と言おうとした時には既に皆が守備位置に向かっていて、仕方なくセンターを守る。どうせ授業内の話だしセンターだからとか内野だからとか、ピッチャーじゃなければどこでもよかったのだけど。

 面倒だと思いながらも身体が覚えてしまっているのでそれなりに捕球も送球も問題なくできてしまう。
 「依田って意外と運動できるんだな」 
 攻守交替で下がっているとクラスメイト何人かに声を掛けられた。
 「……そうみたいだな」
 その返しにへぇというくらいでそれ以上の会話もない。そのくらいがちょうどよかった。
 
 何事もなく体育を終え、それからは席に着いていると1日が終わっていた。
 正直体育の後は頭が回らない。体力がないと言われてしまえばそれまでだ。
 
 放課後は美術室に行くのが俺の日課だった。
 これでも俺は美術部員なのだ。ただの人数合わせだし絵心も致命的にないので画材を一切触ることもないけれど。
 美術室に一歩足を踏み入れると、桧山拓実(ひやま たくみ)が俺に向かって手を上げる。
 拓実とは中学からの友人で、美的センスがすさまじい。多くの賞をもらっていたし、何より俺が拓実の作品に惚れこんでいた。
 それでこのままでは廃部になるからと拓実から入部を打診されたとき、迷わず話に乗ったのだ。
 
 「今日も続き?」
 「そうだな、ちょうど締め切りが今週で結構焦ってる」
 「それなのに俺いていいの?」
 「いいというかむしろいてほしいんだ、悠がいてくれると心強い」

 拓実は俺と会話しながら視線は作品を向いている。
 美術室に他の部員が来ることはめったにない。
 一応、あと3人が所属しているけれど皆が熱心なわけではないし、作業場を美術室に限らなくてもいいので無理もない。
 そもそも大人数で何かひとつを完成させようという取り組みもないので集まる理由が無かったのだ。

 俺は窓際の席に腰を下ろし、鞄から小説を取り出す。それは夜々稔の『夜に咲く青』だ。
 救いの無い日常と懸命に生きようとする主人公の姿が胸に刺さり、以来、夜々稔のファンになった。
 週末には新作が発売されるので、それまでにこの作品をもう1周しておきたかったのだ。
 創作に励む拓実を横目に夜々稔の世界に入り込む。

 「悠?」
 「ごめん、どうした?」
 拓実の呼びかけに反応が遅れるほどに没頭していたようだった。
 拓実は俺の手元を見ている。作品はひと段落ついたみたいで、安堵の表情を浮かべていた。
 「いや、好きなんだなと思って、それ」
 「うん、好きだ」
 「良かったよ、悠にも熱中できるものがあって」
 その言い方に嫌味はない。
 中学からの付き合いの拓実は度々こんなことを言う。
 
 「ありがとな、いつも俺なんかに付き合ってくれてさ」
 「いや……別に」
 俺が拓実の作品に楽しませてもらっているのに、と思いながらも口には出さなかった。
 追い込み中の拓実に刺激を与えたくなかったのだ。
 
 家が正反対なので拓実とは正門で別れた。
 それから自転車に乗って家路についた。
 ブレーキを効かせながら風を切って坂を下りた。
 坂を下ればすぐに家が見えてくる。
 青い屋根の一軒家。ガレージには車が2台止まっていた。