体が宙に浮いた。浮遊感にぞわりとして、涙が浮かぶ。
視界に入った空は、目が痛くなるほど青かった。
いい子でいたい。
そうじゃないと、誰にも好かれないから。
いい子でいたくない。
だって、都合よく扱われるから。
涙がぽろりと、流れ落ちる。
私、本当はずっと……泣きたかった。
中学三年生の頃、私は図書委員だった。クラスで委員会決めをするときに、誰もやりたがらなかったので引き受けただけだったけれど、当番の日は空いている時間に本を読むことができたので苦ではなかった。
しいていうのなら、本を棚に戻す作業を定期的に図書委員でしなければならないので、他の委員会よりも集まりの頻度が多いのが面倒というくらいだろうか。
「一条! 職員室に取りにこいって言っただろ!」
先生の怒声が響く。叱られた本人は嫌そうに顔を歪めている。
「だって、委員会の仕事あるから仕方ねーじゃん!」
彼――一条くんは私の一学年下で、明るくて周りに自然と人が集まってくるようなタイプの男子だ。
先生も一条くんを叱りつつ、なんだかんだ可愛がっているように見える。
「これ今日中にもう一度やって提出な」
「無理無理! 俺無理だってー!」
「無理じゃなくてやるんだ。お前この小テスト、一週間前にやったやつだぞ」
「一度やったならもういいじゃん!」
どうやら英語の小テストの点数が悪かったらしい。
一条くんは先生に首根っこを掴まれて、強引に図書室の椅子に座らされる。
「用があるから、俺は外すけど絶対帰るなよ。後で見にくるからな」
先生は私に視線を向けると、「こいつ見張ってて」と声をかけてきた。
突然のことに少し驚きつつ、私は承諾する。先生は一条くんが逃げると思っているようで「逃げるなよ」と念を押してから図書室を出て行った。
一条くんは不服そうにしながら、プリントと向き合って頭を掻いた。私はちょうど作業を終えたところなので、彼の目の前の席に座る。
「先輩、見張りっていってもそこまでする必要ないっすから」
「一条くんって、真面目だね」
「……真面目だったらこんなことになってないかと」
「不真面目だったら、ここには座らずに帰ってるよ」
私の言葉に一条くんが目をまん丸くして「たしかに」と納得する。
今までほとんど話したことがなかったけれど、人懐っこい笑みを浮かべる彼に釣られて笑ってしまう。
一条くんは思っていることが顔に出やすくて素直な人だ。
今まで私の周りにいなかったタイプで新鮮だった。
他の図書委員の人たちは次々に作業を終えて、一条くんをからかうように「どんまい」と声をかけて帰っていく。
ほとんど人がいなくなると集中し始めたのか、一条くんが小テストに答えを書き込む。一問目はあっているけれど、次が間違っている。
口を出すか迷ったけれど、先生にまた叱られたら可哀想なので私はプリントに指先を伸ばす。
「スペル違うよ」
視線を上げると、一条くんがこちらを見ていた。想像していた表情とは違って真剣で心臓がどきりと跳ねる。
「さすが先輩。どーも、ありがとうございます」
表情を崩して顔をくしゃっとさせると、一条くんは軽い口調で返した。
軽薄な感じの人なのに、不快感は一切ない。むしろ彼と話していると、気が楽だった。
私に対してなにかを求めている雰囲気ではないからかもしれない。
宿題を教えてとか、代わりにやってほしいこととか、私は都合よくお願いをされやすい。だけど一条くんは、わからない問題があっても答えを教えてとは言ってこない。
勢いよく図書室のドアが開かれる。先生かと思ったけれど、女子生徒二人組だった。
「あ、いた! 星藍〜!」
私の目の前に画用紙とペンを置くと、彼女たちは両手を合わせた。
「卒業文集の表紙と、先生へのメッセージ描いてくれない?」
三年生は卒業文集を生徒たちで手作りすることになっている。本当なら表紙は係の人がやるはずなので、私は目を瞬かせた。
「うちら絵あんまり上手くないしさー。星藍なら絵上手し、字も綺麗でしょ」
「でも……」
「お願い! 下書きだけでいいからさ」
絵が描けるといっても自信があるわけではないし、できれば断りたい。
けれど、彼女たちの中では私がやることは決定のようで、スケジュール表まで渡される。
「あ、あと先生へのメッセージなんだけど、これもまだ決まってなくて。星藍が決めても大丈夫だよ!」
内容も考えてほしいということなのだろうなと察して、私は笑みを貼り付けた。ここで嫌だと言ったら空気が悪くなるだろうし、卒業まであと少しなのだから、できるだけ穏便に済ませたい。
「わかった。とりあえず下書きしてみるね」
本音をぐっとのみ込むと、彼女たちは安堵した様子で表情を緩めた。ふたりが図書室から出て行くと、一条くんは気まずそうにこちらを見る。
「断らなくてよかったんですか」
「……断ったら困るだろうから」
一条くんは少し呆れたような、けれど心配そうな表情をする。
「あんまりなんでも引き受けると、先輩だけが苦労しませんか」
彼が言いたいことはわかるけれど、あの場で断ったら裏でなんて言われるかわからない。
「あと少し我慢したらいいだけだから」
意味がわからないというように、一条くんが首を傾げる。
「高校に行っても同じことの繰り返しになりませんか」
たとえ環境が変わっても、私がこのままなら色々なことを押しつけられる日々は終わらない。
頼られて寄り掛かられるのはしんどくなることも多いけれど、それでも私はこんな自分を捨てられない。
「なんでも引き受けるのって、俺は優しさじゃないと思います」
「……そうだね」
優しさじゃない。これは私のただの自己満足だ。
わかっていても、自分を変えるのは怖かった。
あのあと小テストの問題の解き方を教えたところ、一条くんはいい点数が取れたらしい。
それを知った先生から、一条くんの勉強を見てあげてほしいと頼まれた。そのため週に二回、図書室の空いているスペースで一条くんの勉強をみることになった。
勉強を教えながら、私たちはたわいのない話をする。
学校で起こったことや、最近読んだ本の話、一条くんがいつも聴いている音楽の話など、私たちは価値観も性格も異なるけれど、案外話題は尽きない。
彼と話していると私は自然と笑顔になって、一緒にいる時間が心地よかった。最初は私と距離があった一条くんも、今では〝星藍先輩〟と呼んで懐いてくれている。
「そういえば、最近図書室を使う人減ったね」
「クリスマスが近いからじゃないですか。この時期付き合い始める人一気に増えますよね」
そういえば、もう十二月だった。クリスマスは家で一度もしたことがないので、私の中では特別なイベントという感覚がない。
「イベントにのせられて付き合ってもすぐに別れるのにね」
世間のクリスマスムードに引っ張られて付き合っても、イベントが終わると夢から醒めたように別れる。去年もクラスでそういう子たちがいた。
一条くんは私の顔色をうかがうようにちらりと見てくる。
「……星藍先輩は恋愛が嫌いなんですか」
「どうして?」
「恋愛系の話をあんまりしたくなさそうだなーって思って」
顔が強張ってしまう。嫌いというほどではないけれど、苦手意識はある。態度に出しすぎていたかもしれない。
「恋愛感情って不確かで、信用できないから」
「それって、自分の感情すらもってことですか?」
「そうだね」
シャーペンに視線を落とす。いつのまにか強く握りしめていたみたいで、指に痕がついている。
「恋愛なんてするもんじゃないって、私の父も祖母も言ってたから」
それに好きで結婚しても、両親のようになるのなら恋愛なんてあまりしたくない。
「結構過保護なんですね」
「違うよ。あの人たちは世間体しか気にしてないから。あとは……単純に私の存在が気に食わないの」
小学生の頃、父が誰かと電話をしているとき『結婚するんじゃなかった』とこぼしていた。結婚したことを後悔しているから、父は私に冷たいのだろうかと幼いながらに思ったのを今でも覚えている。
母の顔はもう朧げだけれど、私の記憶の中では優しかった。なにを話したとか、どんな声かも思い出せない。それでも幼い私にとっては大好きな母だった。
両親が離婚したあと、私には心の支えのようなブランケットがあった。いつも母が使っていたピンクの水玉模様のブランケットで、それが私にとって唯一の母との繋がりのような気がしていたのだ。
けれど、それも祖母に捨てられてしまった。
私が小学校に行っているうちに、祖母は部屋に入って私の荷物を整理した。丈の短いスカートや、集めていたかわいいシールと漫画などの娯楽も捨てられた。ショックだったけれど、一番許せなかったのはブランケットが捨てられたことだった。
理由を聞くと、「あんな汚いものいらないでしょう」と言っていた。
祖母にとってはくたびれた汚いブランケットだったのかもしれない。それでも私にとっては唯一の宝物だったのに。
堪えきれなくて涙を流すと、祖母は冷たい目で「みっともない」と呟いた。
あのときはどうして祖母に冷たくされるのかわからなかったけれど、祖母は私を通して母を見ている気がする。
ぼんやりとそんなことを考えていると、一条くんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「星藍先輩?」
私は取り繕った笑みを浮かべて、家のことを軽く説明する。
「私の親、離婚してるの。それで父に引き取られたんだ。離婚するとき母は父と祖母と揉めたみたいで、離婚してから一度も会わせてもらえてないの」
私は幼かったので当時のことはあまり覚えていない。けれど、離婚の原因はなんとなくわかる。
母のことを祖母も父も憎んでいることは確かで、私は母に似ないようにと厳しく育てられた。
学生のうちは恋愛なんてせず、勉強しなさいと日頃から様々なことに口を出してプレッシャーをかけられる。
「あんまり仲よくないんですか?」
「仲いいとは無縁な家かな」
家の中に笑顔があったことすらないのだから。
「最近では痛みもよくわからなくなっちゃった。私、おかしいのかも」
「痛みって、暴力振るわれてるってことですか?」
「物理的なものじゃないよ。……あの人たちは私の心を何度も刺すから、もうなにが悲しいのかよくわからなくて」
時には言葉が心を刺すことがある。
こんなこともできないのかと、必死に努力をしてきたことを馬鹿にされたり、取り柄がないと言われたり、私の存在自体を鬱陶しがられる。
その度に息が苦しくなって、いっそのことこのまま呼吸が止まればいいのにと思ったこともあった。
一条くんは私の話を聞いて、黙り込んでしまう。重たいことを話しすぎたかもしれない。
「ごめんね、気にしなくていいから」
笑いかけると、一条くんはなんとも言えない表情をしていた。
*
頼まれていた卒業文集の下書きは無事に終わった。
無事に役目が終わったとほっとしていると、廊下で女子二人組に引き留められる。
「ペン入れまでしてくれないかな! お願い!」
なんとなく予感はしていたけれど、本当は最初からすべて頼むつもりだったのだろうなと思う。
「それでね、実は期限が明日までで……」
あまり気が進まないけれど、頷こうとしたときだった。後ろから誰かに腕を引っ張られる。
「すみません、今日予定あるんで星藍先輩はできないです」
振り返るとそこには一条くんがいた。
「先輩、行こ」
一条くんは私の腕を引っ張って廊下を進んでいく。
断られた彼女たちはどんな反応をしていたのかわからない。けれど、不思議といつものようにどう思われるかは気にならなかった。それよりも、今は一歩先を歩く彼がどんな表情をしているのかが気になる。
「一条くん、ごめんね。今日勉強教える日だったのに遅刻しちゃって」
きっと三年生の方まで来たのは、私が図書室に行くのが遅かったせいだ。
「それにさっきのも……」
「先輩が断れなさそうだったんで、断る理由を作っちゃいました。勝手にすみません」
「……ありがとう」
断ることがずっと怖かった。私ひとりだったら引き受けていたはずだ。
だけど、一条くんのおかげで、ちょっとだけ気分がすっきりする。断るって勇気がいるけど、自分の心を守るために必要なのかもしれない。
「今日は勉強じゃなくて、他のことしません?」
「え、他のこと?」
「たまには息抜きも必要じゃないっすか」
腕を掴んでいた手が、だんだんと下にいき私の手を握る。一条くんの手の温度は私よりも少しひんやりと冷たい。彼の指先を温めるように私は握り返した。
「ここで息抜きするの?」
一条くんに連れてこられたのは、変わった形の大きな滑り台がある公園だった。滑るところが何箇所もあり、そのうちのひとつが洞窟のようになっている。
「秘密基地みたいでここお気に入りなんですよねー」
洞窟のようになっている滑り台の中に入ると、一条くんは私の膝に自分のコートをかけてくれる。
「寒くないの?」
「俺は平気です。結構暑がりなんで」
……嘘つき。さっき手を繋いでいたとき、指先が冷たかった。
先ほど自動販売機で購入した温かいお茶を湯たんぽのようにして、私は両手で抱える。一条くんもブレザーのポケットから取り出したおしるこの缶を取り出した。
プルタブに指を引っ掛けて、一条くんが蓋を開けると、ほんのりと甘い香りがした。美味しそうに飲んでいるので、気になってしまう。
「おしるこ好きなの?」
「つぶあんが好きなんです。飲んでみます? あ、でも俺の飲みかけは嫌か」
最後に飲んだのがいつだったか思い出せないほど、おしるこを飲んだのは昔のことだった。ちょっとした好奇心で一条くんのおしるこに手を伸ばす。
「ひと口もらっていい?」
「どうぞ〜」
おしるこをひと口飲むと、想像以上に甘くて、だけどその甘さが体にしみていく気がした。何故だか涙が込み上げてきて、俯きながらおしるこの缶を一条くんに返す。
「ありがとう。美味しかった」
寒いせいで温かいものがじんわりと心にしみたのか、それとも少し心が弱っていたせいなのかはわからない。だけど、久しぶりになにかを口にして美味しいと感じた。
「星藍先輩は言いたいことを飲み込む癖がありますよね」
「え?……そうかな」
「もうちょい感情を表に出してもいいんじゃないかなーって、俺は思います」
感情を表に出す。それが許される場所が私には今までなかった。
家でも学校でも、自分の感情を飲み込んで周りの顔色をうかがう。それが私の生き方だったから。でも本当はこの生き方が苦痛だった。
私って、どうしてこんな人間なのだろう。
嫌なことを嫌だと言えず、受け入れたくせに内心は不満でいっぱいで、自分の首を締め続けている。
「もっと自分を大切にしてください。それに気を許せる友達の前でなら、ちょっとくらいわがまま言ってもいいんじゃないっすか」
一条くんはニッと笑うと、人差し指を自分に向ける。
「たとえば、俺とか」
「……一条くんは委員会の後輩だよ」
自分に言い聞かせるような言葉だった。私たちは特別な間柄ではないし、勘違いをしてはいけない。だから、寄りかかってはいけないのだ。
「来年から勉強頑張ってね」
私はあと数ヶ月でいなくなる。そしたらきっと、一条くんと二度と関わることはないだろう。
「……俺、先輩と同じ学年だったらよかったのにな」
心を揺らすような言葉を言わないでほしい。彼にとっては大勢いる知り合いのひとりでしかないのかもしれないけれど、私にとって一条くんは唯一無二だった。
今まで私のことを気遣ってくれる人なんていなかった。心に溜め込んだ気持ちを掬い上げてくれる彼の言葉は、私にとって陽だまりのように優しい。
「星藍先輩って、志望校どこですか?」
「内緒」
「えー、なんで教えてくれないんすか。俺、来年受けたいのに」
本心ではないと理解していても、そんなことを言われると反応に困る。
「一条くんが追いかけてくるなら、なおさら教えない」
冗談で返すと、彼は不服そうに口を曲げた。
「じゃあ、連絡先教えてください」
関わりが途切れないようにと一条くんが提案してくれる。けれど、私は複雑だった。嬉しいけれど、これ以上は踏み込んでほしくない。
私の内側をもっと知られて、一条くんに幻滅されるのが怖かった。
「俺、このまま星藍先輩と疎遠になりたくないです」
真っ直ぐに私を見つめる一条くんからは、偽りを感じない。息をのむほど真剣で、気恥ずかしくなるような空気で目を伏せる。
彼にとって私の存在はそこまで重要ではないと思っていた。けれど、言葉にしなくても、一条くんが私をどう思っているのかが伝わってくる。
「こっち見て」
視線を上げると、再び彼と目が合った。今この瞬間だけ、時間がゆっくりと流れているような錯覚を起こしてしまう。
距離が自然と近づく。鼻先が触れ合って、お互いの白い息が重なる。
心臓が痛いくらいバクバクと暴れていて、頬が燃えるように熱い。
「星藍先輩は、俺のことどう思っていますか」
冷たい風が隙間から通り抜ける。先ほどまでは身震いしていた寒さを今ではあまり感じないのは、体温が上がっているせいだろうか。
「……私のどこがいいの」
気持ちを向けてもらえることは嬉しくても、こんな私のどこがいいのかとモヤモヤする。
「放って置けないところですかね」
唇が触れそうな距離から、離れていく。まだ心臓の鼓動が五月蝿い。
「それっていいところなの?」
「星藍先輩って、器用に見えて本当は不器用で目が離せないんですよ。だから……」
一条くんは途中で口を閉ざしてしまう。頬は赤く染まっていて、目が合ってもすぐに逸らされた。
「隣にいたいって思ったんです」
鼻の奥がツンと痛くなる。頬の内側を噛んで、泣くのを必死に耐えた。
彼の隣にいたら幸せになれるのだろうなと思う。だけど、私は彼を幸せにできる自信がない。こんな私が隣にいたら、いずれ一条くんは苦しくなるはずだ。
精神的に不安定で面倒な私を背負う必要なんてない。それに祖母だって私に恋人ができたと知れば激怒して一条くんになにか言うかもしれない。
「私のこと、忘れた方がいいよ」
本音をのみ込んで微笑みかける。
すると、一条くんは困ったように眉を下げた。
「酷いこと言いますね。そう言えば俺が諦めるって思ったんですか」
「……幻滅していいよ」
「別に幻滅しようと俺の気持ちは変わんないんで」
今はそうかもしれない。だけど、卒業して離れ離れになれば彼の私への関心は薄れていくはずだ。
「俺は自分と同じ量の想いを星藍先輩に求めてないですよ」
優しい彼だからこそ、私に縛りつけたくない。だから、本当の気持ちは口にできなかった。
「恋なんて一過性だから、この気持ちもいつか消える」
声を震わせながら、必死に彼を突き放す。私の手を一条くんがそっと掴んだ。指先が冷たく氷のようだった。
「先輩は嘘つきだ」
一条くんだって嘘つきだ。寒くないと言いながら指先は冷たい。
「なんでそんなに自分に自信がないんですか」
私の心を見透かすような言葉だった。彼の言うとおり、私はずっと自分に自信がない。
「私は自分の心にすら嘘をついて、周りに合わせているから……だから誰にも本当の私なんて好きになってもらえない」
「俺は偽っている先輩だとしても、そこも好きだから。今以上に本音を知っても、そう簡単に嫌いになんてなれないし」
誰かを好きになるのが怖い。一条くんの気持ちが変化していくのを見るのが怖くてたまらない。
「好きって、そんな美化されたものじゃなくていいと思うんすよね。絶対的なものじゃなくても、たぶん好きかもくらいの感情だって、いいじゃないっすか。先輩は完璧を求めすぎです」
一条くんの言葉は、痛いくらいに私に突き刺さる。だけど、それと同時に今こんな言葉をくれる彼に嫌われたら立ち直れなくなりそうだった。
好きになんてなりたくない。だからもう、これ以上近づきたくなかった。
「面倒臭いですよね、先輩って」
「それなのに好きなの?」
「だから好きなんですよ」
手を握っている力が強くなる。私は一条くんに泣きそうな顔を見られないように俯いた。
好かれたいくせに好かれることが苦手で、甘えたいくせに甘えるのが苦手。
こんな自分が心底嫌になる。
家に帰ると、祖母は不機嫌だった。私の帰りがいつもより少し遅かったことで、苛立っているみたいだ。
「受験生なのになにしていたの?」
机を叩く音に、びくりと肩が震える。
「遊んでいたんじゃないでしょうね!」
「……図書室で勉強をしていただけだよ」
いつもよりも三十分帰るのが遅かった。それだけで祖母は不満らしい。私は視線を下げたまま、人形のように動かずに祖母のお説教を聞く。
「こんなことしている暇があるなら、勉強しなさい。あなたは覚えるのが遅いんだから」
テーブルの上に正方形に折り畳まれた紙が載せられる。それを見た瞬間、嫌悪感が胸に広がった。
それは私が友達からもらった手紙だった。勉強机の引き出しの中に仕舞っていたのに、私がいない間に勝手に開けて読んだらしい。
友達に恋愛相談をされて、その後付き合い始めたという報告の手紙。それを祖母はくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨ててしまう。
「くだらないことに現を抜かしているんじゃないでしょうね」
祖母が何故不機嫌だったのかわかった。この手紙から、私にも彼氏がいるのではないかと邪推しているみたいだ。
「そんなことないよ。友達の話を休み時間に聞いただけだから……」
否定したところであまり効果はなく、「だいたい、あなたは」と祖母のお説教がヒートアップしていく。
「スマホを出しなさい」
祖母が私に手を伸ばす。スマホの中身を見るつもりなのだろう。怒ると時々祖母はこういうことをする。
やっぱり一条くんと連絡先を交換しなくてよかった。もしも交換していたら、祖母にこれは誰だと指摘されていたはず。最悪電話をかけられていたかもしれない。
私がすぐにスマホを渡さなかったので、祖母は抵抗していると思ったようだった。呆れたように「早く!」と急かしてくる。
ブレザーのポケットからスマホを取り出して祖母に渡すと、すぐに中身の確認をし始めた。
けれど、特に祖母に叱られるような相手とやり取りもしていないし、見られては困るようなものも一切ない。
「だいたい、最近気が緩んでいるわよね」
なにも言うことがなかったのか、今度は私の態度が悪いという話に変わっていく。朝の挨拶の声が小さかったとか、玄関の靴が綺麗に揃っていなかったとか、粗探しをされて叱られる。
「誰のおかげでここにいられると思っているの?」
私は祖母と父のおかげでこの家で暮らしている。だから、ここにいる以上はふたりに従わなければいけないのだ。
「……ごめんなさい」
私が謝れば、祖母はうんざりとした表情でため息を吐く。
「あなたを見てると、本当にイライラする」
祖母の言葉は私の心を刺す。だけど、もう涙は出なかった。感情を殺して、静かにお説教が終わるのを待った。
祖母の怒りがおさまったあとは、今日はどんな授業内容だったのかなど、詳しく聞かれる。ひととおり説明をし終えると、ようやく解放されて二階にある自室に逃げ込んだ。
勉強机と、ベッド。私の部屋には必要最低限のものしかない。
床に置いた鞄のチャックを開けて、飲みかけのペットボトルのお茶を取り出す。まだ生温かかった。
膝を抱えて座りながら、ペットボトルのお茶を大事に抱きしめる。これ以上、気持ちが彼に移る前に離れないといけない。
一条くんとの関係を続けて、彼に迷惑をかけたくなかった。
あれから私は図書室に行くのをやめた。一条くんも特に私に会いにくることはなく、時間は流れていく。
これでいい。一条くんと関わったのはほんの少しの間だけだった。だから、彼への想いはまだ忘れられる。
それなのに二年生が体育をやっているときは校庭を何度も見てしまい、廊下で彼と似た背格好の男子生徒をつい目で追ってしまう。
突き放したのは自分のくせに、彼のことばかり考えていた。
私は無事に志望校を合格し、あの日から一度も一条くんと会うことなく、そのまま卒業式の日を迎えた。
同級生たちが卒業の歌を合唱しながら泣いている中、私は在校生の中にいる一条くんに意識が向いてしまう。けれど、彼と目が合うことはなかった。
今日で彼と会えるのが最後だと思うと、胸が締めつけられる。
卒業式が終わり、三年生たちは教室へ戻った。
先生が来るまでの間、みんなは卒業アルバムにメッセージを書きあったり、ブレザーにつけていた花飾りを交換しあったりしている。
「花飾りの交換憧れていたのになぁ」
ひとりの子が嘆くように言うと、わかると周囲の子たちが同意する。私たちの中学では、卒業式の日につける花飾りを交換すると、恋が実るというジンクスがあった。実際は恋人同士で交換をしたり、告白をするきっかけに使われたりしている。
花飾りに使われている花は紫色のライラックをモチーフにしたもので、花言葉は初恋や、恋の芽生えといったロマンチックなものだ。
……恋の芽生え。
私はずっと恋愛というものがよくわからなかった。でも一条くんと出会って、ひょっとしたらこれが恋なのかもしれないと知った。
恋と呼ぶには、まだ少し不確かなもののようにも感じるけれど、一緒に過ごした時間はかけがえのないものだった。
「席ついてー!」
先生が教室に入ってくると、最後のホームルームが始まる。
私は胸元から外した花飾りを机の上に置く。ライラックの造花の下には白いリボンがついている。そこには私の名前が印字されていた。
『たぶん好きかもくらいの感情だって、いいじゃないっすか』
以前一条くんが言っていたことが頭を過る。私は完璧を求めすぎだとも言っていた。今の私の心の中にある感情を表すとしたらどんな言葉になるだろう。そんなことを考えながら、卒業アルバムのメッセージを書くときに使ったサインペンを手に取る。
そして、思いついた言葉をリボンの裏側に綴る。
一生彼には伝えられないかもしれない。それでも私の想いを残しておきたかった。
帰りのホームルームが終わると、ほとんどの生徒たちが教室で居残りをして喋っている。私も最初は友達と話していたけれど、どうしても最後に行っておきたいところがあった。
教室を抜け出して、階段を下る。二階の端の方に向かって歩いていくと、図書室と書いてあるプレートが見えてきた。
ドアの擦りガラスの隙間から見える室内は薄暗い。さすがに今日は解放されていないようだった。一応開いているか確かめるために、ドアの取手を掴む。やっぱり鍵が閉まっていた。
最後に一条くんと初めて出会った場所を目に焼きつけておきたかったのに。
諦めろと言われているような気がして、ブレザーのポケットから取り出した花飾りにため息を落とす。
「星藍先輩?」
背後から声が聞こえて、慌てて振り返る。そこには一条くんが立っていた。
「なんでここにきたんですか」
あれから一度もこなかったのにと一条くんは寂しげな表情を見せる。いつもの私だったら、誤魔化していたと思う。けれど、今は素直な気持ちを口にしないとこの先ずっと後悔する気がした。
「最後だから、会いたかったの」
たった一言、本当の気持ちを伝えるだけで泣きそうなくらい声が震えてしまった。
「先輩、好きです」
突然のことに呆気に取られていると、一条くんが私の手元を指さす。
「だから、それください」
卒業の花飾りのジンクスを彼は知っているのだろうか。
リボンの裏にこっそり書いた彼宛のメッセージは渡せずに終わると思っていた。きっとこれが最後のチャンスだ。
一条くんに花飾りを渡すと、嬉しそうに微笑んでくれる。まだリボンの裏のメッセージには気づいていないようだった。
「先輩は最後まで結局大事なことは、なにひとつ教えてくれない」
どこの高校へ行くのかも、連絡先も、私は彼に伝えなかった。だけどそれがお互いのためにいいと思っている。
「だって私のことを教えたら、一条くんは追ってくるんでしょ」
「迷惑ってことですか」
「ううん、そうじゃなくて……一条くんには私に振り回されず、自分のしたいことをしてほしいから」
それなのに最後だからと言い訳をして、この場所に来てしまった。
優しい時間を私にくれた彼に縋りつきたくなる。もっと側にいてほしい。私のことをわかってほしいとわがままを言いたくなってしまう。
「でもまたいつか出会えたら……そのときはお茶でもしよっか」
「お茶って……」
一条くんが複雑そうにしながら、「連絡先もつけてください」と言う。
きっと私たちは進路も違うだろうし、偶然巡り合うことなんて難しい。そのことを一条くんだってわかっているはずだ。
だけど、いつかそんな日がきたらいいのにと願わずにはいられない。
「一条くん、最後にひとつだけ」
大事なことをずっと彼に伝えられていなかった。
一条くんの姿を目に焼きつけながら、私は微笑む。
「私を好きになってくれて、ありがとう」
瞬きをすると一筋の涙が溢れ落ちた。一条くんは目を見開いて私を見つめている。
自分のことが嫌いだった。今だって好きなところなんて思い浮かばない。けれど、それでも大切な人が私を好きだと言ってくれただけで、この世界に存在していていいと言ってもらえたような気がして嬉しかった。
私は「さよなら」と言って、一条くんに背を向けて歩いていく。
ハンカチでも拭いきれないほどの涙がこぼれ落ちて、嗚咽を漏らす。
——たぶん好き。
リボンの裏側に隠した私の気持ちを、一条くんは見つけてくれるだろうか。
彼と過ごした時間は短かったけれど、それでも私にとって濃い日々だった。
高校に入学して最初の一ヶ月は順調だった。
クラスにもすぐに馴染めたし、バスケ部では先輩は厳しいけれど、上手な人が多くてミニ試合をするのが楽しい。けれど、平穏は些細なことで崩れていく。
五月半ば、バスケ部の一年生のサボりが発覚した。最初は体調不良だと言っていたけれど、実は遊んでいたらしい。一日ならまだしも、一週間もサボっていたことが発覚し、顧問の桑野先生は激怒した。
そして連帯責任だと言われ、部員全員がペナルティとして三日間外周をさせられることになってしまった。
それによって先輩たちが一年生を見る目が厳しくなる。
外周をしながらわざと一年生に聞こえるように「なんで巻き込まれないといけないわけ」と文句を言っている。
たったひとりの行いが原因で、一年生全員が悪いわけではない。けれど、私たちは肩身が狭くて、言い返しても余計に空気が悪くなるのでのみ込んだ。
ペナルティ三日目になると、みんな初日よりも気が緩んでいるようだった。
「やっと終わるねー……」
「サボるくらいなら退部してほしいよね」
そんなことを話している一年生ふたりの声がサボった子に聞こえてしまったらしい。
「言いたいことがあるなら、直接言えば?」
ふたりは顔を見合わせたあと、立ち止まり「じゃあ言わせてもらうけど」と彼女に対して不満をぶちまける。
「誰のせいでこんなことになってると思ってんの?」
「こないだみんなに謝ったよね? それなのに裏でコソコソ言うの性格悪くない?」
喧嘩が始まってしまい、私は慌てて間に入る。
「今は部活中だから話すならあとで話そう」
言い合いをしていることに気づいた先輩たちが不快そうに私たちを見ながら通過していく。巻き込まれたくないのか、興味がないのかはわからないけれど、先輩たちは一年生の喧嘩を見て見ぬふりをしていた。
早く止めようと思って宥めても、聞き入れてもらえない。
サボった子が舌打ちをして、文句を言っていたふたりを睨む。
「下手くそなくせに」
小学生の頃からミニバスに入っていたという彼女はバスケが上手だ。だからこそ、サボったとしても桑野先生から一目置かれている。
そんな彼女に対して不満を抱く人も多く、文句を言っていたふたりもそうだった。
「は? 上手ければなにしても許されるわけ?」
喧嘩の内容がペナルティから、バスケの上手い下手に変わり、ますます空気が悪くなっていく。
「下手な方が迷惑だから。ミニ試合のとき、パス回したくないし」
触れられたくない部分を刺激し合ってしまったことによって、ひとりの子が掴みかかった。
「そっちこそ自己中じゃん! みんな言ってるよ! パス強すぎるから指が痛くなるし、ちょっとミスしたら文句言われるから怖いって」
「みんなって誰だよ。そうやってすぐ他人に責任なすりつけるのやめたら」
「落ち着いて」
掴みかかっている子を止めようとすると、勢いよく手を振り払われた。相手の爪が私の頬に当たってしまい、痛みが走る。
「星藍! 大丈夫? 血が……」
不安げに見守っていた子が、私の頬を見て青ざめていた。おそらく私の頬には引っ掻き傷ができて、血が滲んでいるみたいだ。
そのことによって、喧嘩をしていた子たちが少し大人しくなる。ひとまずこの場は落ち着きそうだと思っていると、桑野先生の怒声が聞こえてきた。
「おい! なにしてるんだ!」
先ほど通過していった先輩たちから報告を受けたのかもしれない。
桑野先生は耳が痛くなるほどの声量で私たちを叱りつけると、部活が終わったら体育館に残れと言う。
喧嘩をしていたふたりだけではなく、一年生全員が居残りになってしまった。
部活後、私たちは横一列に並ばされる。
「説明しろ、常磐!」
なぜか私が指名をされて、戸惑いながらも外周中に起こったことを話す。
なるべくどちらか片方を悪く言わないように気をつけながら説明をし終えると、桑野先生は呆れたようにため息を吐いた。
「私は別に悪く言ったつもりありません!」
「私だって、悪気があったわけじゃないです!」
必死に訴えかけるようにふたりが言っても、桑野先生は聞く耳を持たない。「お前たちだけ外周追加だ」
喧嘩をした子たちは明日も外周をすることに決定した。そして桑野先生の鋭い視線が私に向けられる。
「常磐、その傷はなんだ?」
私も喧嘩をしていたのではないかと桑野先生から疑いをかけられた。
周囲からの視線を感じながら、「止めに入ったときにできた傷です」と正直に話すと、信じてくれたようだった。
解散していいと言われ、私たち一年生は更衣室へ向かう。その途中、喧嘩をしていたひとりが横目で私を見た。
「星藍って気に入られてるよね。羨ましい」
棘が含まれた言葉に息をのむ。説明をするように言われ、私のことをすんなりと桑野先生が信じたことが面白くないようだった。
彼女が先に更衣室に入ると、他の子たちが「なにあれ!」と怒りだす。
「星藍に怪我させたのに、謝りもしてなくない?」
正義感の強い草鹿里帆が本人に言いにいきそうな勢いだったので、私は「大丈夫だから」と微笑む。これ以上揉める方が厄介だ。
この事件をきっかけに部内の空気はどんどん悪くなっていた。
家に帰ると、私の頬の傷を見た祖母が理由を説明しろと言う。私が問題を起こしたのではないかと苛立っている様子だった。
部員同士の揉め事を止めようとしたときについた傷だと話すと、祖母はすぐに電話をかけ始める。
どこに電話をしているのだろうと疑問を抱いていると、「顧問を出してください!」という発言を聞いて、私は血の気が引く。
「待って、先生は悪くないよ。私は大丈夫だから……」
桑野先生に文句を言ったら、今後部活でどういう扱いをされるかわからない。祖母の服の袖を掴むと振り払われる。
「向こうに行っていなさい! それともなにか悪いことをして隠しているんじゃないでしょうね!」
祖母なりに私の心配をして怒ってくれているのかもしれない。だけど、私は怒ってもらうよりも、傷の心配をしてほしかった。たった一言でもいいから、優しい言葉をかけてもらいたかった。
心が少しずつ砕けていく感覚がする。
廊下に出ると涙が溢れてきた。明日からのバスケ部の空気や、祖母の電話によって桑野先生はどう思うのかとか考えると息がしづらくなってくる。
頬の傷に涙が滲みて、ヒリヒリと痛んだ。
翌日の昼休み、私は桑野先生に職員室へ呼び出された。普段の威圧感がある雰囲気とは違い、今日はどこか気遣うように私を見ている。
「常磐……傷のこと気遣ってやれなくて悪かった」
「いえ、大丈夫です」
昨夜の祖母からの電話が原因だろう。あんなふうに文句を言われたら、さすがの桑野先生も困惑するみたいだ。けれど、変に気遣われるより今まで通りの方がいいのに。
「なにか悩んでいることとかはないか?」
「悩みですか?」
「学校でも部活でも……家のことでもなにかあったら言ってくれ。俺じゃなくても雨村先生とかでもいい」
祖母のあの様子から、なにかよくない想像をしているのかもしれない。
にこやかな笑みを作って口を開く。
「私は大丈夫です」
……本当に?
口癖のように大丈夫と言って、心を刺し続けているのではないだろうか。けれど、苦しいと言ったところで解決策なんて思い浮かばないし、先生を困らせるだけだ。
胸になにかが突き刺さったような痛みを覚える。どうせ誰かに頼っても、私の心は救われることはない。
不意に彼のことが頭に浮かぶ。
一条くんだったら、こんなときなんて言ってくれるのだろう。
その日の夜、洗面所で鏡を見ると自分の顔がのっぺらぼうのように見えた。
私がどんな顔をしていたのかも思い出せない。驚きはしたけれど、あまり動揺はしなかった。いつか発症するような気はしていたから。
青年期失顔症。周りに合わせて自分を見失うと、自分の顔が認識できなくなる病気だ。
鏡に映るのっぺらぼうの私が、馬鹿だなと笑っているように見える。
嫌われるのが怖くて、周りにいい顔ばかりする臆病者。だからこんなふうに、自分を見失ってしまったのだ。
青年期失顔症を発症してから、心が壊れているのを感じた。以前よりも感情の振れ幅は狭くなり、作り笑いが増える。
「それでね、告白しようか迷ってて……クラスの子も同じ人好きみたいで、本当焦るんだよね」
私だったらなんでも聞いてくれる。そう思われることが多く、休み時間によく相談をされる。
相手が望まない正論をぶつけてしまえば、機嫌を損ねるし、裏で悪く言われてしまう。
だけど、少し優しく接すると気が緩むのか恋愛や友達関係についてどんどん話していく。私は相槌を打って、相手がほしそうな言葉を並べながらいい人を演じる。
そしてみんな自分の言いたいことだけを口にして、満足したら去っていく。
誰も私のことなんて気にかけてくれない。私がなにかを相談しようとしても、「星藍なら大丈夫だよ」と流されてしまう。
心に黒い感情が溜まっていくのに、誰にも助けてなんて言えなかった。
高校三年生になると、私は家で以前にも増してプレッシャーをかけられるようになった。けれど、唯一救いなのは祖母が勧めてきた大学が県外で、受かったとしたら学生寮に入れることだ。そうなれば家を出て、家族から離れることができる。
「本当星藍が羨ましい〜」
同じクラスの友達が、私の答案用紙を見ながら口先を尖らせる。この間の小テストが先ほど返されて、彼女は結果が散々だったらしい。
「頭良くていいなぁ」
「またゲームしてたんでしょ」
冗談混じりに言うと、彼女はへらりと気の抜けるような笑みを見せる。
「だって、ちょうどイベント始まってたんだもん」
テスト前日くらいゲームをするのをやめればいいのに。言いたいことをぐっとのみ込んで、空気を悪くしないように笑う。
「でも私、勉強したところでどうせすぐ忘れちゃうしなぁ」
努力もせずに他人のことを羨ましがって、その裏側で努力していることに気づきもしない。
努力は必ず報われるわけではないけれど、点数でも物でも、未来でも、ほしいものがあるのなら必死に努力をするしかない。
やりもしないで嘆いている人を見ると、心底軽蔑する。
だけど、本音を笑顔の裏に隠して私はノートを開く。
「先生がここ出るって言ってたから、予習しておいたんだ」
「え、マジ? 聞いてなかった〜! ちょっと貸して〜!」
彼女は私のノートを手に取ると、スマホで写真を撮り始める。
授業中にわざわざくれていたヒントも聞かず、黒板に書いてあることもほとんどノートに書き写していなかったらしい。二十点という彼女の得点にも納得してしまう。
けれど色々言ったところで、機嫌を損ねるだけなので余計なことは口にしない。それが人と上手くやる上で私にとっては大事なことだった。
「うわー、さすが星藍。満点じゃん」
他の子たちも私の席にやってきて、私の答案を覗き込む。
「でもまあ、星藍だから当然かー」
ひとりの子がそう言うと、みんなが頷く。私は「なにそれ〜」と軽い口調で言って苦笑した。こういう空気が苦痛でたまらない。
だけど、嫌な顔をしないように注意する。人間関係なんて些細なことで壊れてしまうのだから、表情ひとつにも気をつけなければいけない。
「星藍の頭の良さのほんの一部でいいから分けてほしい……」
「頭だけでいいの?」
誰かが茶化すように聞くと、「いや、やっぱ星藍みたいになりたい!」と声を上げた。
私なんかになりたいなんてどうかしている。きっと今私の口元は歪んでいるに違いない。それを隠すように手を口のあたりに当てた。
本当の私を知れば、私になりたいなんて思わないはずだ。
性格だってよくないし、みんな私を優しいと言うけれど、本当は優しさなんて持っていない。ただ、私は自分のために行動しているだけ。
それに私は、ずっと心が欠けている。
周りにいる子たち一人ひとりの表情を確認する。きっと私も似たように今笑えているはず。
青年期失顔症を患っていると知られてしまえば、彼女たちは私を見る目が一気に変わるはずだ。だから、このことは誰にも言えない。
青年期失顔症と知られると、周囲の見る目が変わる。そういう人たちを私は今まで見てきた。
人気のアイドルグループのひとりが発症したときも、ネットでは彼女を心配する声よりも「メンバーにも本音を隠していたんだ」とか「そんなメンタルでアイドルよくできるよね」など心無い言葉がたくさん書き込まれていた。
誰だって本音を隠すことはあるのに、世間のこの病気へのイメージは厳しいものだった。発症すれば心が弱く情緒不安定な人だと言われ、本音を言えるような相手もいないのだと同情される。
だから、私は発症したことを勘づかれないように、周りの反応をよく観察した。自分の顔が見えないのは不便なこともあるけれど、心が壊れているこの状況が何年も続けば嫌でも慣れる。
「最近さぁ、親が鬱陶しいんだよね〜。大学はどうするんだーとか。専門学校のパンフレットも大量にもらってくるし」
「うちなんて、私より親の方が張り切ってるよ。キャンパスがここは綺麗だとか、ホームページ見せてくんの」
彼女たちの話に、私は笑みを貼りつけながら相槌を打つ。
面倒くさそうに親のことを話しているけれど、私にとっては羨ましいことだった。贅沢な悩みだなとも思う。
私は祖母によって全てを決められてきた。私の意見を聞いてはくれたことは一度もない。私が少しでも祖母の言う通りのことができないと、決まってこう言われた。
『ちゃんとしなさい。こんなこともできないなんて恥ずかしい』
小学生の頃はそんな祖母が怖くて、涙を浮かべるとさらに祖母は怒った。
泣くことはみっともないことだと、これくらいできて当たり前なのだと机や壁を叩いて大きな音を立てる。
決して肉体的な暴力は振られない。だけど、ずっと私は言葉で心を刺されてきた。次第に私はどうすれば祖母に叱られないか、それを最優先に考えて行動するようになった。私にとっては祖母を怒らせないことが、自分の平穏を守るために必要なことだった。
優秀な成績をおさめて、にこやかにして自己主張をしなければ祖母は機嫌を損ねない。だから私は理想通りの人形になりきった。
けれど、友達が親と喧嘩した話を聞くたびに、自分の家の異質さを痛感して、同時に妬ましく思った。
私のことを羨ましいと言うのなら、その場所を変わってほしい。
「この大学いいなぁって思ったんだけど、そうなると遠距離になるんだよね」
「あー……遠距離はしんどいよねぇ」
大学の話から次第に恋愛の話に変わっていき、彼氏や好きな人の話で盛り上がり始める。こういった話題では基本的に私は話に割って入ることはない。
聞き役に徹していると、ひとりの子が私に話題を振った。
「星藍はさ、彼氏作んないの?」
周りの子たちが期待の眼差しで私を見る。けれど、あいにく浮いた話はないので「当分はないかな」と返した。
「えー、もったいないなぁ」
「案外星藍って理想高い?」
「そうかも」
軽い口調で答えるとみんなが笑う。理想が高いと言われたらある意味そうなのかもしれない。
「どんな人がタイプなの?」
「うーん、そうだなぁ。強いて言うなら、一緒にいると楽しい人かな?」
いつも通り無難な答えをしておく。
「それ何気に難しいやつじゃん!」
周りの子たちに突っ込まれながらも、笑って誤魔化した。私に浮いた話がないとわかると、話題が別の子に移っていく。
窓の外を見ると、次の授業が体育なのかジャージを着ている生徒たちが校庭に集まり始めている。
その中に金髪の目立つ男子生徒がいた。
金髪を見ると、ふと中学の後輩の姿が思い浮かぶ。
最近一条くんのことを駅で見かけた。中学生の頃は黒髪だったけれど、今では金髪になっていたので、少し驚いた。
同じ制服を着た女の子と楽しそうに笑って話していて、私は呆然と立ち尽くした。思い出に縋って、過去に取り残されていたのは私だけだった。
やっぱり恋なんて一過性。風邪みたいなもので、一定期間が過ぎたら想いは消えていく。
彼の手を取らなかったくせに、こんなことを思うのは自分勝手だ。それでもあの日見た一条くんの姿を思い出すと胸が痛い。
彼はもう私のことを忘れてしまったのだろうか。
「あ、そうだ! 今朝これ買ったんだよね〜! みんな食べる?」
ひとりの子がキャンディの袋を取り出す。中にシュワシュワとしたパウダーが入ったキャンディらしい。
私は桃味のキャンディをもらって、それを口の中に入れる。
あれ……?
桃味と書いてあるのに、味が全くしない。不思議に思って周りの子たちを見るけれど、みんな美味しそうに食べている。
なにが起こっているのかわからず、戸惑いながらも味のしないキャンディを舌の上で転がした。しゅわしゅわとしているのは感じるけれど、甘さはない。まるで石が口の中にある感覚だ。
机の上に置いていたストレートティーのペットボトルに手を伸ばし、ひと口飲む。匂いはするのに、味はしない。
困惑を周りに悟られたくなくて、私は笑顔を作って「トイレに行ってくるね」と言って席を立つ。
心臓が痛いほどバクバクしていて、胃液がせり上がってくる。
トイレの個室に逃げ込み、トイレットペーパーに飴玉を包む。味がわからない。どうしてかわからないけれど、突然のことだった。
ブレザーのポケットからスマホを取り出して、味覚が消えたことについて調べていく。検索する指先が震えて、目に涙の膜が張る。
青年期失顔症の合併症として、味覚を失う場合があると書かれていた。
合併症が起こると、なかなか治りづらいと書かれている。自分の顔が見えなくなったことよりも、味がわからなくなったことの方が私にとっては精神的なダメージが強かった。
「ぅ……っ」
吐き気がするけれどなにも吐き出せず、壁によりかかったまま蹲る。
この日から、私の心はますます壊れていった。



