それに気づいたのは、十二月のことだった。
昇降口のあたりに三年生の女子たちの集団がいて、仲がよさそうにはしゃいでいる。その中には常磐先輩もいた。
『星藍にもお菓子あげる〜!』
『またロッカーに溜め込んでたの?』
二学期が終わる前に消費したいらしく、在庫処分をするようにみんなその場でお菓子を配りあって食べていた。
人数が多く、広がって話しているため、帰るにはあの輪の間を通らなければいけない。
別のルートで帰るかと考えていると、スマホにメッセージが届く。差出人は間宮だった。まだ学校にいるなら保健室に集合と書いてある。
返事を打っていると常磐先輩が横を通り過ぎていく。あの人とは特別親しいわけではないけれど、間宮がまだバスケ部に所属しているときに少し関わったことがあった。
ひとまず呼び出しに応じて引き返して保健室へ向かう。今日は青失部は休みの予定だった。けれど、いつものように中条が唐突になにかやりたいと言い出したのだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、廊下の壁にもたれかかるようにして立っている女子生徒の後ろ姿が見える。そして俯いたまま力なく座り込んだ。
『大丈夫っすか?』
声をかけると、女子生徒の肩が跳ねる。
顔を確認すると、常磐先輩だった。手にはティッシュを持っていて口元に当てていた。
先ほど三年の女子たちが配っていたお菓子を思い出す。ひょっとして食べたお菓子を吐き出していたのだろうか。苦手なものが入っていたのか、それとも美味しくなかったのか、とにかく顔色が悪い。
『誰にも言わないで』
立ち上がり、俺の腕を掴んできた常磐先輩の顔は真っ青だった。その姿がかつての間宮と重なる。
間宮は青年期失顔症を発症したとき、切羽詰まった様子で秘密にしてほしいと俺に頼んできたのだ。
確証はない。けれど、違和感の正体を探るように俺は常磐先輩を見つめる。
『ただの体調不良じゃないですよね?』
『昨日寝不足だっただけ』
余裕がないのか常磐先輩の返しは素っ気ない。
間宮と話しているのを何度か見たことがあったけれど、普段はもっと穏やかでおっとりしている雰囲気のはずだ。
『……雨村に相談した方がいいと思うんすけど』
『相談? なにを相談するの?』
常磐先輩の口元が歪み、鬱陶しげに俺を見る。
そこまで関わったことがない俺でも、この人の様子が普段とは違うことはわかる。間宮の前で見せていた笑みは、作り物のように綺麗だった。
けれど、今は綺麗な笑みは欠けらもない。体調が悪いせいか、俺の発言に動揺したのか余裕がまったくないようだった。
『私のことは放っておいて』
手に持っていたティッシュを常磐先輩が握りつぶす。その手は微かに震えていた。それを見て、常磐先輩が抱えているものを察する。
『味覚、いつからなんですか』
『……なんのこと』
『合併症起こしてるよな。だから、吐き出したんじゃないんすか』
青年期失顔症の合併症として味覚を失うこともある。おそらく常磐先輩は合併症を起こしている。
『その顔、正解って言ってるようなもんだろ』
否定も肯定もせず、常磐先輩は唇を結んで俺を睨みつけている。どうしたら口止めできるかを考えているのかもしれない。
『それ重度の症状っすよね。味覚がなくなったのは最近っすか?』
このまま放置すると、ますます精神が崩壊するのではないだろうか。
数秒睨み合うと、常磐先輩は観念した様子で口を開く
『四月くらいから』
『四月?……そんな前から味覚失った生活してたのかよ』
つい最近なのかと思っていた。八ヶ月も味覚を失った生活をするなんて、この人の精神状態はどうなっているのだろう。青年期失顔症もそれよりも前に発症しているということになる。
『別に慣れたらどうってことないよ。ただ、チョコレートの食感だけは苦手なの。粘土を食べているような感覚になるから』
常磐先輩はため息を吐いて『最悪』と呟く。
どうやら友達がチョコレートの包装を破いて、常磐先輩に食べさせてきたらしい。それをいらないとは言えなかったようだ。
『雨村は青年期失顔症のこと詳しいっすよ』
俺の言葉に常磐先輩は鼻で笑う。
『話しにいったところで解決なんてできない』
他人に相談をしたところで無意味だと言いたげだった。なにもかも諦めているようにも見える。
『長く味覚障害が続いているなら、さすがにカウンセリングが必要だと思うけど』
『私は自分の顔を取り戻したいなんて思ってないから』
青年期失顔症にかかると、自分の顔が見えなくなる。そのことに苦しむ人が多いのに、常磐先輩は見えないままでもいいと言う。
わけがわからずに眉を寄せると、『理解しようとしないでいいよ』とどうでもよさそうに言われた。深入りはされたくないみたいだ。俺もこの人と関わりたいわけではないので、これ以上の事情は聞かないでおくことにする。
『水、買ってきましょうか?』
『自分で買ってくるから平気』
借りを作りたくないと言いたげに、常磐先輩は口角を上げる。それはいつも通りの彼女の笑顔で、余裕を取り戻してきたようだ。
『誰にも言わないかわりに、なにか私を頼りたいことがあったら言ってね』
『そんなこと気軽に言っちゃっていいんすか。俺がどんなこと頼むかもわからないのに』
『大丈夫。朝比奈くんは、そんなことできないよ』
常磐先輩は俺の心を見透かすように目を細める。
『……朝葉ちゃんには平穏な学校生活を送ってほしいでしょう?』
乾いた笑みが漏れる。俺が言いふらしたり、常磐先輩に無茶苦茶なことを頼んだりしたら、間宮になにかするかもしれない。
たった一言で、そこまで想像するほどの圧だった。
『だから、誰にも言わないって約束してね。お互いの平穏を守るために』
怖い人だなと実感する。口角が上がっているのに目は笑っていない。
前々から間宮と接しているのを見るたびに、妙な違和感はあった。
優しく見えるけれど、そこに本心がないような、温度のない言葉。そしてニコニコとしながら、他人をじっくり観察しているような眼差し。どこか胡散臭くて、俺は苦手だった。
『誰にも言うつもりないし、先輩を頼るつもりもないんで。それに三年はもうすぐ卒業だし』
『そうだね。ようやく卒業できる』
一瞬表情が和らいだのを見て、『高校、そんな嫌だったんすか?』と聞くと、常磐先輩は綺麗な笑顔を見せた。
『やっと地元を出られるのが嬉しいの』
そこにどんな意味が込められているのか教えてくれるはずもなく、常磐先輩は去っていった。
一ヶ月前のことを思い返していると、自分のクラスの前に到着した。
けれど、なんとなく憂鬱で教室に入る気分になれない。
まだ予鈴まで時間があるので、その辺をふらつくことにした。
今回の事件を調べたのは、間宮が気にしていたからというのもある。けれど、噂も引っかかった。
青年期失顔症だった常磐先輩が、辛くて自殺をするというのはありえない話ではない。でもあの人は、地元を出られることが嬉しいと話していた。おそらく進学をきっかけに実家を出るのだろう。
あんなふうに話していた人が、自殺なんてするだろうか。
どうしても俺には自殺だとは思えなかった。
けれど、人の心は変わるものだし、精神的に不安定だったのなら、なにもかも嫌になって投げ出した可能性も捨てきれない。
気づけば三年生の教室の前にいた。噂どおり登校している生徒は多そうだが、みんな勉強よりもお喋りに夢中だった。
生徒が誰もいない三年二組の教室に入る。廊下にいる女子生徒たちの視線を感じたけれど、別に見られたところでどうってことない。
教師にチクられても証拠なんてないだろうから、知らないふりをすればいい。
窓側の席へと足を進める。
『常磐さんの机の中から、手のつけられていないチョコレートが出てきたんだ』
土井先輩のチョコレートを食べたふりをしたのは、手作りが嫌なのではなく、味がわからないからだ。それに味覚を感じないまま食べると、チョコレートは粘土のような食感で苦手だと言っていた。
あの人は周りに弱いところを見せたくないのだと思う。だから、土井先輩にも他の親しい友人たちにも青年期失顔症だということを打ち明けていないのだろう。
窓を開けて、窓枠に座ってみる。このまま体を後ろに傾ければ落下するのだと思うと、背筋がぞくりとした。
あの日、どうして常磐先輩はここから落ちたのか。
同じ場所に立ってみてもわかるはずもなく、立ち上がった。
梅の花びらが風に乗って、ふわりと舞っている。
おもむろに右手を伸ばして、左手は窓枠を掴む。上半身が窓の外に傾くと、そのまま落下していくような錯覚を起こした。
ふと後輩の花飾りとほうきが頭に浮かぶ。もしかしたら、常磐先輩は……。
「朝比奈くん!」
背後から声がして、勢いよく体を後ろに引っ張られる。
振り返ると間宮が俺に抱きつくように立っていた。腹部に回った手が微かに震えている。
「危ないよ!」
俺が落ちると思ったのか、間宮は真っ青になっている。ただなんとなく梅の花びらが気になって手を伸ばしただけだ。だから落ちるはずない。
でも落ちたような感覚がして、ひやりとしたのは事実だった。もしも間宮が止めていなかったら、俺はどうなっていたのだろう。
「俺がここにいるってよくわかったな」
「さっき廊下で朝比奈くんを見かけて……ぼーっとしてたから心配になってついてきたの」
間宮が俺から離れると、不安げに見つめてくる。まだ間宮の顔色は悪い。相当心配をかけてしまったらしい。
「ごめん、考えごとしてた」
「考えごと?」
憶測でしかないので言うか迷った。けれど、誤魔化したら間宮はそれをすぐに見抜くはずだ。それに間宮なら誰かに言いふらすこともしないだろう。
「常磐先輩は……」
話そうとしたタイミングで、間宮はブレザーのポケットからスマホを取り出した。
「杏里からだ。え……」
スマホの画面を凝視したあと、間宮は表情をほんの少し緩めて俺に視線を移した。
「常磐先輩が目を覚ましたみたい」



