青春ゲシュタルト崩壊 Another(期間限定公開)



私はなにも知らない。なにも見ていない。

目をきつく閉じながら、布団の中で縮込まる。


『それって、まるで生贄みたいだと思わない?』

……なにも知らないままでいたかった。
常磐先輩の〝事件〟は、学校中に広まっている。学校側は事故と言っているけれど、みんなは自殺じゃないかと噂していた。

だけど、私はあの日見てしまった。
常磐先輩が桑野先生と口論していたのを。

もしもあのとき、私が声をかけていたらなにかが変わっていたのだろうか。
布団の中で液晶画面が光る。スマホにメッセージが届いたようだった。

同じバスケ部の若菜からのメッセージで【部活しばらく停止だって】と書いてあった。すると、すぐに他の部員たちから連続でメッセージが届く。


【昨日の常磐先輩の件が原因かな】
【でも引退してるし、バスケ部関係なくない?】
【あれじゃない? 桑野と常磐先輩の不倫疑惑】
【やばすぎ】
【さすがにこれは絶対デマだわ。あの常磐先輩と桑野はない】

私は返事をなにも打てなかった。
昨日常磐先輩が窓から落ちる前に見た光景を、相談できる相手が部内にいない。誰かに話したら、あっという間に面白おかしく広まってしまう。

こんなとき彼女がいたら……と六月までバスケ部にいた友達のことが思い浮かぶ。

朝葉なら、私の話を真剣に聞いてくれたはずだ。でも彼女を苦しめて追い詰めたのは私なのだから、今更助けなんて求めちゃいけない。

スマホの電源を切って、枕元に置いていたぬいぐるみを抱きしめる。
眠りたいのに、なかなか眠りにつけなかった。


私の学校の女子バスケ部は仲が悪かった。三年と二年はいつもピリピリしていて、二年は一年に鬱憤を晴らすように当たり、一年は二年に反抗的。
けれど、それ以外にも問題があった。
二年の中で序列のようなものがあり、気が強い子たちが必然的に発言権を得ている。バスケが上手くても穏やかで優しい朝葉みたいな子は、彼女たちの標的になってしまっていた。

雑用を押しつけられて、ちょっとでも先輩や後輩と仲よくしていると裏で文句を言われる。
そして、私は自分を守るために彼女たちを褒めて持ち上げて、無害なキャラを演じていた。

『朝葉は要領がよくて得してる感じだけど、杏里はさ、要領が悪くて得してるよね。ちょっとお馬鹿で抜けてるのが愛嬌っていうかさー』

馬鹿。バスケ部の子たちから、よく言われることだった。
それを聞いた朝葉がなんとも言えない表情になっているのを見て、答えに困っているんだろうなと察する。

〝そんなことないよ〟も〝そうだね〟も朝葉は言わない。

たぶんそれは、言った相手の気持ちも言われた私の気持ちも損なわせないために曖昧な笑みだけ浮かべているのだ。
ずるいなとも思う。だけど、たぶんそれが彼女なりの自己防衛だ。


『杏里はそういうところが可愛いもんねぇ』
『わかるわかる〜』

二年のバスケ部の序列一位である若奈が笑いながら同意しているのを見て、私のことを本気で馬鹿にしているくせにと内心毒づく。

『だって、朝葉みたいに頭よくないしー!』

へらへら笑いながら、気にしていないフリをする。
私が馬鹿だとみんな都合がいいんでしょう。だって馬鹿は扱いやすいから。

みんなは朝葉に雑用を押しつけるけれど、それは朝葉がお人好しで尚且つ押しつけた仕事をこなせるってわかっているからだ。
だけど私の場合は、朝葉が不在のときにいいように頼まれる。

杏里なら失敗しても仕方ないよねと。
たとえできなくても、〝だって杏里だから〟と笑われて勝手に呆れられておしまい。失敗したときの保険みたいな存在だった。そうやって扱われる度に、心が削られていく。

そして六月、朝葉と数名の一年生が退部した。原因はバスケ部の人間関係だった。

『あのさぁ、二年サボりすぎじゃない?』

退部の件があってから、三年からの当たりがキツくなったのは気のせいではないと思う。先輩たちは朝葉を気に入っていたから、彼女を追い詰めた二年生たちを今まで以上に疎ましく思っているはずだ。

『若菜ちゃんもさ、次の部長やりたいならちゃんとしなよ』
『え、私やりたいとか一度も言ったことないんですけど』

若菜が反抗的な目を先輩に向けると、空気が一段と重くなる。
ああもう、やめてほしいと嫌な汗が背筋に伝った。注意を受けたことに腹を立てて、先輩に対しての反発で刺々しい物言いになっているのだろう。

三年生はもう少しで引退なのだから、上手くやり過ごせばいいのに。若菜を含む二年の子たちは、そうする気はないようだった。

『じゃあ、誰がやるか決まってんの?』
草鹿先輩が苛立った表情で見下ろすと、若菜は面倒臭そうにため息を吐いて横目で私を見てきた。

『杏里でいいんじゃないですか?』
『え? あたしは……』

思わず声を上げてしまうと、若菜が目を細める。

『だって私塾あるから残れないし、杏里はなんにもないから時間あるよね。ね、杏里』

有無を言わさない作り笑顔に息をのむ。喉に石のような硬いものが詰まったような感覚がして息苦しくなる。


朝葉がいなくなったら、やっぱり私の番だった。

草鹿先輩は複雑そうな顔をして、短く息を吐く。おそらくは私が望んでいないことも察したのだと思う。そして歪んだ笑みを私に向けてくる。


『ウケるね』
たった一言。だけどその言葉の意味を、すぐに理解した。

今まで一緒になって朝葉を追い詰めていたのに、いなくなったら次は仲間内から身代わりが生まれる。仲良くしていたくせに、見捨てられたような現状に対して、草鹿先輩は薄っぺらい関係で馬鹿馬鹿しいねと言ったのだろう。

傷ついたと同時に納得してしまう。

私たちの関係は、虚しいほどに都合がよく、ちょっとしたことでオセロみたいにひっくり返る。


更衣室で着替えながら若菜が『あーむかつく! 早く引退しろよ』と声を上げた。先ほど草鹿先輩に言われたことが相当頭にきているらしい。

『つーか、杏里のことウケるとか先輩マジで最悪じゃない?』
『そーそー、杏里が部長やったらダメなのかって感じ! ひどくない?』

いつの間にか私が部長をやる流れになっていて、口元が引き攣る。
やりたいなんて一度も言っていないのに、どうしてそんな話になってしまっているのだろう。

『でもあたしに部長なんて絶対務まらないからさー』
笑って言うと、ほんの一瞬空気が固まった。そしてすぐに若奈が私の肩を叩く。

『杏里が部長だったら、みんな手伝うって。だから心配しなくてもいいよ』

若菜はこの間まで部長の座を狙っていたはずだ。けれど、やめたのはおそらく今の部長の仕事内容を聞いたからなのだと思う。
部員たちに指示を出せる立ち位置ではいたいものの、桑野先生と試合の作戦を練ったり、スタメンを決めたりという役割をするのが若菜は嫌みたいだ。

だからきっと自分は副部長の座を狙っているのだろう。
そして桑野先生と連絡をとったり、試合の作戦を練ったりすることは部長に押しつけて、自分はみんなの上に立つつもりなのだ。

胃がきりきりと痛む。嫌だ。私は昔からまとめ役とかはできないタイプだった。明るいとか元気とか言われることは多かったけれど、人前に立つと急に緊張して上手く言葉が出てこなくなる。

中学生の頃に体育祭のリーダーをやらされたときに、マイクを片手に黙り込んでしまいざわついたことが未だに記憶に色濃く残っていた。

『そうだよ、杏里! 私らも協力するから心配しないで!』

周りの部員たちは笑顔の仮面をつけていて、恐怖が全身をのみ込んでいく。
誰も助けてくれない。みんな笑顔なのに、冷たい視線を向けられているような気がしてしまう。

いつか見た朝葉のような曖昧な笑みを浮かべることしか、私にはできなかった。

『杏里は元気キャラだからいけるって! 桑野もそういう子好きじゃん?』

元気キャラ、その言葉にひやりとした。

『キャラって、作ってるみたいじゃん。あはは』
『作ってるって言いたいわけじゃないってー! たださ、杏里って活発って感じじゃん?』
『まあ、言いたいことわかるけど〜!』

みんなが笑いながら私の話をする。
笑わなくちゃ。私もなにそれって言いながら、キャラじゃないしって突っ込みたいのに、言葉が出てこない。
だって本当にそうだから。

人前で〝あたし〟って言うのは、小学生の頃に身につけた私なりの自己防衛。元気で明るくて、無害。そういう漫画のキャラに寄せて、女の子たちのグループの中で生き抜いてきた。

じゃないとすぐに標的にされてしまう。

——杏里ちゃんって、男子と仲良いよね。

たまたま近所に同じ学年の男子が数名住んでいて、小学生の頃から一緒にサッカーやバスケなどのスポーツを男子たちに混ざってやっていた。
低学年までは指摘をされなかったけれど、四年生になったあたりから、性別で分けられるようになった。


——杏里ちゃん、あんまり男子たちと一緒にいない方がいいよ。裏で言われてるから。〝男好き〟って。

だんだんと周りの女の子たちから冷めた目で見られるようになって、焦りを覚えた私はお姉ちゃんが持っていた漫画からヒントを得た。
私みたいに髪が短くて、運動好き。そんなキャラクターの子が、女の子扱いをあまりされず男女両方と仲良くしている。

——あたし。

そのキャラクターの真似をするように一人称を変えていく。

女の子たちから嫉妬を向けられないために、ちょっとがさつで女子として見られにくいキャラになろうと必死だった。
そうしていくうちに、私はみんなからいじられたり可愛がられたりするような立ち位置になった。

女の子たちは、私と仲がいい男子と親しくなる口実に近づいてくる。
利用されているとわかっても、私はそれでもよかった。

誰からも敵意を向けられない平穏。それがなによりも大事だったのだ。
だから今になって、私が作ったキャラをこうして指摘されて、血の気が引いていく。だんだんとこんな子どもじみたことは通じなくなってくるのだと痛感する。

でも動揺したら変に思われてしまう。

大丈夫、落ち着いて。いつもみたいに笑わなくちゃ。

そしたら心も後からきっとついてくるから。

『てか、杏里って悩み事とかあるの?』
『ちょっと、その言い方はひどすぎ〜!』
『いや悪い意味じゃないって、ただそういうイメージなくってさ〜』

笑え笑え、笑え。大丈夫。この場を乗り過ごせればそれでいい。


『悩みくらいあるよ〜! 数学のテスト赤点取ったらどうしようとかさ』

ふざけて答えると『しょぼ』と言って笑われた。
本当はみんなに嫌われることが怖いのが悩みだなんて、言えるはずがない。

『杏里、今日着替えるの遅くない?』
『私らトイレ行ってきていいー?』

話が切り替わって、ほっと胸を撫で下ろす。

『いいよー!』
早く行ってほしい。もう笑顔を保っているのが辛い。
みんなが次々と出て行ったのを見送って息を吐くと、すぐに更衣室のドアが開いた。
俯いていた顔を慌てて上げると、そこに立っているのは常磐先輩だった。
他の三年の先輩じゃなくて、常磐先輩でよかった。周りをよく見てくれている人で、いつだって優しい。

『ああ……そういうこと』

呟いた常磐先輩は、無表情のまま私の横を通り過ぎていく。なんだかいつもと雰囲気が違う気がした。


『ねえ、杏里ちゃん。働きアリの法則って知ってる?』
『え?』
突然よくわからない話題を振られて、ジャージを畳んでいた手を止める。

『よく働いているアリが二割、時々サボるけれど普通に働いているアリが六割、サボっているアリは二割なんだって』
『あの……?』
『だけどね、よく働いているアリを間引くと、残ったアリたちの中からよく働くアリが生まれるの』

私が戸惑っていてもお構いなしに、常磐先輩が話を続けていく。こんな先輩は初めて見た気がして、少し胸の奥がざわついた。

『私たちのバスケ部も、よく働いてくれていた子が抜けたら、次の働く子が生まれるんだなって思って』
そして、ゆっくりと形のいい唇が動き、声のトーンが僅かに下がる。

『それって、まるで生贄みたいだと思わない?』

言葉が喉元に引っかかって、上手く出てこなかった。

〝生贄〟。その言葉は、私の中でしっくりときてしまって、そして今まさに自分がそれになっているのだと、痛感する。


『ごめんね。気を悪くした?』
『……え、っと』
『今までいた生贄がいなくなっちゃったから、これからが大変だね』

人ごとのように話す常磐先輩の眼差しは酷く冷めていて、今までの温厚な姿が嘘のようだった。

『あ、責めているわけじゃないの。グループ内での役割ってあるもの』
『やく、わり……』

それならきっと女子バスケ部の二年は、まとめ役ではなく〝押しつけられ役〟が必要なのだ。

やりたくないことを押しつけて、裏で好き放題に陰口を叩く。そして〝褒める役〟〝同調する役〟も同時に必要だった。

今まで私は〝褒める役〟と〝同調する役〟でみんなのご機嫌取りをしていたのだ。

「すごいね」「さすがだね」「あたしにはできないよ」とみんなを持ち上げて、自尊心を満たす役割だった。だけど〝押しつけられ役〟に欠員が出たから、私がそちらに回されるのだ。

『大丈夫だよ。だって杏里ちゃんは今まで上手くやってきたじゃない』
『ぁ……え、っと』

言葉が詰まる私を見て、常磐先輩は少し迷った様子で口を開く。

『本当は私にこんなこと言う資格ないけど』
『え?』
『——見失わないようにね』

いったいなにを?
けれどそれを聞く前に、常磐先輩は着替え終わって更衣室から出て行ってしまった。

目が覚めると目尻に涙が溜まっていて、髪の毛が肌に纏わりついている。
どうやら過去の出来事を夢の中で思い出して、泣いていたらしい。

私は常磐先輩のことが大好きだったし、憧れていた。

だけど、あの日常磐先輩の別の一面を見てから怖くなってしまったのだ。

今まで見てきた優しい姿は、ひょっとしたら私のように〝キャラ〟だったのかもしれない。そして本心では、周りの人たちを冷めた目で見ていたのだろうか。

ベッドから起き上がり、クローゼットを開け、ハンガーにかかった制服を手に取る。着替えないといけないのに、体が思うように動かない。

あんな光景を見てしまったあとなので、学校に行くのが憂鬱だった。

常磐先輩は本当に事故なのだろうか。学校側は直前に桑野先生と常磐先輩が話していたことを把握しているのかも気になる。
噂されているふたりの関係が、もしも本当だとしたら……。

一瞬、桑野先生が常磐先輩を窓から突き落とす光景を想像して、手に持っていた制服のスカートを床に落としてしまう。

「杏里〜! 起きてるー?」
廊下からお姉ちゃんの声がして、私は「起きてる!」と大きな声で返す。

早く学校に行く準備をしないと。
洗面所で顔を洗ったあと、鏡から目を逸らして制服に着替える。顔を確認するのが毎朝怖くて、いまだに自分の問題に向き合えずにいた。

「大丈夫?」
洗面所に入ってきたお姉ちゃんが、私を見て心配そうな表情になる。

「え? 大丈夫だよ」
「でも顔色悪いよ」

〝顔〟という言葉に肩が震える。そんな私に気づいたのか、お姉ちゃんが慌てて、「体調悪くないならいいの」とぎこちない笑顔になった。

「杏里ちゃん、どうかしたの?」
話し声が聞こえたのか、キッチンからパタパタとスリッパの音を鳴らしながら、お母さんが駆け寄ってくる。

「大丈夫? 学校休む?」
狼狽えているお母さんに、お姉ちゃんが苦笑した。

「違うの。私が勘違いしただけだから」
「そうなの? 本当?」
お母さんを安心させるように私は口角を上げて頷いた。

「まだちょっと眠かっただけだから」
「でも……事故の件もあるし、無理して行かなくてもいいのよ」

生徒が窓から落下した件はお母さんたちにも伝わっている。けれど、それがバスケ部の三年生だとは知らない。
もしもお母さんが知ったら、学校に電話をかけて生徒になにがあったのかと問いただしそうだ。学年が違っていても同じバスケ部に所属していただけで、母さんはきっと過剰に反応する。

中学の頃も同じのクラスの女子たちの間でいじめが起こったとき、お母さんは先生に電話をして学校側の対応について色々と意見を言っていた。

見かねたお父さんが『他の家のお子さんのことなんだから、あまり口出ししすぎるのもよくない』と止めたけれど、お母さんは引かなかった。

『だって、杏里の身近で起こっているのよ! いつ杏里の身に同じことが起こるかわからないでしょ!』
お母さんは普段は穏やかだけど、一度感情を大きく揺らすと手がつけられなくなる。だからこそ、なるべく黙っていたい。

「本当に大丈夫だよ。早く、ご飯食べよ!」
ニッと歯を見せて笑いかけると、お母さんたちは表情を緩めた。
元々私の家族は過保護だったけれど、私が最近は特に私の顔色をうかがってくる。

理由は私が青年期失顔症を発症したからだ。

以前よりはマシになったけれど、自分の顔が見えたり見えなかったりを今でも繰り返していて、完全に完治していない。
学生なら誰でも発症する可能性があると、カウンセリングの先生に言われたけれど、学校で発症していると知られたら噂の的になる。

だから絶対にバスケ部の人たちには知られたくない。



学校に行くと、今日も常磐先輩の話題で持ちきりだった。
噂はどんどん大きく広がっていき、今は桑野先生との関係についてみんな気になっているみたいだ。


「桑野がやってることってさー、パワハラだよね」
バスケ部の子たちに廊下に呼び出されたかと思えば、桑野先生の文句をずっと言っている。

「だよね! 動画でも撮ってネットに上げたら炎上しそうじゃない?」
「やっちゃう?」

笑っている若菜たちに合わせるように、私も口角を上げる。
こんなことを言っていても、実際に動画を上げたりしないはすだ。

桑野先生の言い方はきついし威圧的だけど、ネットに晒し上げたら私たちも学校側に注意を受けるだろう。

「あの桑野と噂立てられるって、常磐先輩も可哀想」
「わかる。クラスの子にもさっき聞かれたんだけど、絶対ありえないって言っといた」
「てか、なんであんな噂立つのがわけわからないよね〜」

若菜たちは常磐先輩と桑野先生の間には、なにもないと信じているみたいだ。もしもあのことを話しても、みんなの考えは変わらないのだろうか。

「ね、杏里」
「あ、うん! そうだね」
話題を振られて、咄嗟に頷く。

「今日杏里、元気なくない?」
若菜の指摘にひやりとしながら、「昨日寝不足でさ〜!」と言う。

なにをしていたのかとか深く聞かれたらどうしようと思っていたけれど、みんなの興味はすぐにまた常磐先輩の話題に移る。

「まあでもさ、部活しばらくないのラッキーじゃない?」
「ちょ、それは言っちゃダメでしょ」
「だけどさー、部活ないの楽だわ〜」

不謹慎なことで笑っている彼女たちの輪の中で、私はどんどん気分が沈んでいく。

ずっと心に溜め込んでいるのがしんどくて、誰かに言ってしまいたい。だけど、言える人がいない。

予鈴が鳴ると自然と解散になり、私は教室に戻った。窓際の前から二列目にある自分の席まで行くと窓を見やる。
常磐先輩はなぜあの窓から落ちたのだろう。

一昨日の放課後、私は部活の休憩中に外の水道で水を飲んでいた。

顧問の桑野先生の姿がなく、この日の練習は部員たちのピリピリした雰囲気が和らいでいた。このまま桑野先生がこなければいいのになんて思うほどだった。

タオルで汗を拭いながら、水道の近くで休憩する。
笑い声が聞こえてきて視線を向けると、陸上部の子たちが休憩中なのか校庭の隅の方ではしゃいでいる。

陸上部の子たちは仲がよさそうで羨ましいなと思ってぼんやりと眺めていると、彼女たちの後ろにある校舎が視界に入った。

三階の教室のひとつが窓を開けていて、白いカーテンが揺れているのが見える。そしてその教室には見覚えのある人物がいた。
ここからだと表情までははっきりと見えないけれど、あれはおそらく常磐先輩だ。

引退してから関わることはなくなったので、久しぶりに見た気がする。
以前の私だったら、名前を呼んで笑顔で手を振っていたと思う。

だけど、今はそれをすることに躊躇いがあった。常磐先輩の別の一面は、それほど私にとっては衝撃的だった。

常磐先輩は窓の前に立ち、手に持っているなにかを眺めている。なにを持っているのか、ここからではよく見えない。
常磐先輩の背後に桑野先生の姿が見えて、目を見開く。どうして桑野先生が三年生の教室にいるのだろう。

振り返った常磐先輩が桑野先生となにかを話している。

また桑野先生が常磐先輩に無茶なことを言っているのだろうな。そう思って、疑問が生まれる。もう引退したのに、どうして桑野先生はわざわざ三年の教室まで行って、常磐先輩と話しているのだろう。

それに会話は一切聞こえないけれど、ふたりが言い争いをしているように見える。桑野先生は話しながら拳を握って腕を動かしている。練習中に苛立って文句を言うときにする動作だ。

「杏里―! 休憩終わりだよ〜!」
気になったけれど、これ以上ここにいることもできず、私は体育館に戻っていく。そしてその十分後くらいだった。
外が騒がしくなり、私たちは一旦練習を止めて外に出た。

体育館の外通路を進んで、人が集まっている方に向かうと『救急車!』という声がした。私は若菜と顔を見合わせる。

嫌な予感がしておそるおそる花壇を覗くと、ひとりの女子生徒が薄紫と白の花の中で眠るように倒れていた。

『常磐先輩……?』
どうして常磐先輩が花壇の上に横たわっているのだろう。

理解が追いつかなくて立ち尽くしていると、陸上部の子たちが上擦った声で先生に説明している。

『なにかが視界の端を横切ったような気がして、それで気になって見にきたら花壇に倒れていたんです!』
『三階の窓が開いているし、もしかしたら窓から落ちたのかも!』

窓から落ちた?

私は顔を上げて三階の窓を見る。

先ほどまで常磐先輩は間違いなく教室にいたので、この人の説明は正しいのだと思う。だけど、〝ひとり〟じゃなかった。

『なにがあったんですか!』
桑野先生の声がして、私は全身が震え上がる。桑野先生は焦った様子で駆けつけると、常磐先輩の姿を見て目を丸くした。

『生徒が窓から落ちたようなんです。今救急車を呼んでいるところです。あ、雨村先生! こっちです!』

保健医の叶ちゃん先生は、常磐先輩の状況を確認したあと、他の先生たちに生徒たちを一旦現場から離れさせるようにと指示を出す。
生徒たちにこの現場を見せるのはよくないと判断したようだった。

ふわりと吹いた冷たい風にのって、花と土が混ざったような匂いがする。軽く眩暈がして、校舎の外壁に手をつく。背中には冷や汗が伝っていた。

近くに落ちているなにかにつま先が当たる。何故か足元にはほうきが落ちていた。

『杏里、大丈夫?』
『……うん』

若菜が心配そうに私を見つめる。そんな彼女の顔色も悪かった。動揺はあまり見せないけれど、この状況に若菜も内心戸惑っているのだろう。

倒れている常磐先輩の方に視線を向けると、花壇の下の方になにかが落ちている。茎に隠れてちゃんと見えないけれど、隙間から見える白っぽいリボンには見覚えがある気がした。

『金守』
桑野先生に名前を呼ばれて、体が硬直する。桑野先生と常磐先輩が話していたのを、私が目撃していたと知られたらどうなるのだろう。

小刻みに震える手を握りしめながら、桑野先生の方を見る。意志の強さが表れているようなくっきりとした目は、私を心配しているようにも感じて戸惑う。

『大丈夫か?』
『え……あ、はい』

私が見ていたことを、知られてはいけない。必死に動揺を隠そうとするけれど、手の震えが止まらない。
隣にいる若菜が、そっと私の手を取る。ショッキングな現場を見て、私が困惑していると思っているようだった。

『全員練習に戻れ』
『わかりました。行こ、杏里』
振り返ると、いつのまにかバスケ部の部員たちが集まっていた。

『みんな戻るよー!』
部員たちに若菜が声がけをして、私たちは体育館に戻った。

学校側が窓から転落した生徒の名前を伏せていても、花壇に倒れている常磐先輩の姿を見た生徒は多い。あの時間帯は陸上部やサッカー部が校庭で活動していた。そのためその日のうちに生徒たちの間で常磐先輩だと周知されていた。

もしも桑野先生が突き落としたのだとして、私がこのままなにも言わず、常磐先輩も目が覚めなかったら、桑野先生の完全犯罪になる。
決まったわけでもないのに悪い方向に考えてしまい、私は机に顔を伏せた。

せめて常磐先輩の意識が戻ったら、真実がわかるはずなのに。

昼休みになると、若菜が私の席までやってきた。クラスが違うので、彼女がわざわざ私の元までやってくるのは珍しい。いつもなら、私が若菜の方へ行く側だったのに。

「杏里、大丈夫?」
なんのことかわからず、目を瞬かせると若菜はもどかしそうに「だから」と表情を歪ませる。

「この間目撃したとき、結構ショック受けてたから」
“目撃”で、ようやく私は常磐先輩の件だと察する。常磐先輩の名前を出さないのは、若菜なりの配慮のようだった。教室には様々な耳と目がある。

どこで誰が聞いているかわからない。
ここで私たちが話したことも噂話に加わるかもしれない。

「私もびっくりしたし……今もあの光景が頭から離れない」

少なからず動揺はしているだろうなと思っていたけれど、今はもう切り替えているように見えていた。私の心情を悟ったのか、若菜は目を細めて「私だって気にしてるよ」と口を尖らせる。

「まあでも、正直あの人のことちょっと苦手だったんだよね」
「そうなの?」
「いかにもいい人って感じだったじゃん」

若菜は常磐先輩に対して友好的だったので、むしろ好きなのだと思っていた。ポニーテールにした黒髪を揺らして、若菜が私の机の前にしゃがむ。

「それに朝葉に似てるでしょ」
その言葉で、どうして若菜が常磐先輩を苦手だと言ったのか察する。
若菜は朝葉のことが苦手だった。

『私は朝葉みたいにはなれないから』

一年生の頃、部活終わりの薄暗い夜道で若菜が泣きながら言っていた。
あれはたしか、当時二年生だった先輩に『若菜ちゃんもう少し周りを見てプレイした方がいいよ。朝葉ちゃんみたいにさ』と注意を受けたのだ。

若菜はボールを繋ぐというよりも、シュートを打ちたいという気持ちが強くて、ひとりで突っ走ってしまう癖がある。一方で朝葉はサポートが上手く、的確なパスを回すのでチームの得点に繋げることが多かった。

若菜自身も自覚していたからこそ、その指摘に傷ついたのだろう。
思えばそれから若菜の朝葉に対する当たりが強くなった。

「自分の思っていることはあんまり言わなくてさ、だけどこっちの愚痴は文句言わずに聞いてくれるし。それっていい人に思えるけど、本心が見えなくて怖いっていうか……」

若菜が言いたいことはわかる。朝葉や常磐先輩のような人たちと話していると、自分が醜(みにく)く思えることがある。
そして綺麗すぎて、だんだん疑わしくなる。本心では馬鹿にしているのではないかと。私も朝葉に対して、そう思ってしまうことが多かった。

「だから、私とは合わないなぁって」
若菜の言葉に、私は苦笑しながら頷く。

感情的になりやすい若菜は火で、いつだって穏やかな朝葉や常磐先輩は水のような人たちだ。持っている性質が最初から違う。

「でも杏里は違うでしょ。常磐先輩のこと好きそうだったし」
「あ……うん」

常磐先輩の別の一面を見るまでは、そうだった。
けれど、このことを上手く言葉に表せる自信がなくて、若菜には説明ができない。それに内容的に若菜たちバスケ部二年の反感を買いそうだ。

「人によっては、ああいうのトラウマになるだろうし」
「……そうだね」

若菜なりに私のことを心配してくれているみたいだ。
常磐先輩と桑野先生が話しているのを知らない若菜の視点では、今回の事件はどう見えているのだろう。

「若菜はどう思う? この件……色々噂されてるでしょ」
「あー、私は桑野がストーカーの線も結構あるんじゃないかなぁとは思うけど」
「え⁉︎ ストーカーって」

大きな声を出そうとした私の口を、慌てて若菜が手で押さえる。

「声でかいって! ただの噂だよ」
常磐先輩と桑野先生の不倫というよりも、桑野先生が常磐先輩に付き纏ってストーカーをしていたという方がしっくりくると言っている人たちもいるらしい。

なにも知らないままだったら、ドラマの見過ぎだと思っていただろう。けれど、私はあの日ふたりが揉めているのを見てしまった。
部活を引退して会えなくなったので、わざわざ桑野先生が常磐先輩に会いに行ったのかもしれない。


「若菜〜! 購買行かないのー?」
廊下から教室を覗き込んだ女子ふたり組が若菜のことを呼びにきた。若菜と同じクラスの子たちだ。

「行く行くー!」
若菜は立ち上がると、私に耳打ちをする。

「私らが思っているよりも、桑野ってヤバいのかも」

小走りで去っていく若菜の姿を見送ったあと、私の体にどっと疲れが押し寄せてきた。
カバンからペットボトルに入ったお茶を取り出すと、一気に飲み干す。

キャップが机の上に転がり、そのまま床に落下した。キャップを拾おうとして、あの日の光景が頭に過る。

花の上に横たわり目を閉じている常磐先輩は、精妙な人形のように綺麗だった。それに三階から落ちたとはいえ、血痕は見当たらなかった。土がクッションになったおかげだと思う。

あの日嗅いだ花と土が混ざった匂いを思い出して、胃のあたりが圧迫されたように苦しくなる。
その瞬間、あるものが頭に浮かんだ。そういえば、あのとき花壇になにかが落ちていた。今思えば、常磐先輩が教室にいたときに手に持っていたものに似ている気がする。

それがなんなのかわからないけれど、どうしても気になる。
確認しに行きたいけれど、今は生徒たちの目もある。多くの人が注目している事件なので、人が多い時間帯に立ち入り禁止の花壇に私が侵入したら見つかってしまいそうだ。

私はひとまず生徒たちが減る時間帯まで待つことにした。

放課後、教室の生徒たちが全員帰ったのを確認してから、私は花壇に向かった。
花壇は校庭側にあり、普段は部活動中の生徒たちの姿が見えるはずなのに今日はいなかった。部活休止はどうやらバスケ部だけではなかったらしい。

上履きのままきてしまったので、なるべく土ではなくコンクリートの上を進んで歩いていく。
レンガに囲われた花壇は、三つ並んでいる。常磐先輩が落ちたのは真ん中の花壇で、一部の花は折れていた。たしか花壇の右下の方に落ちていたはずだ。

「……あった」
白いリボンがついたあるものを見つけて、手を伸ばす。

誰かが拾っているかもしれないと思ったけれど、花に隠れて見つからなかったみたいだ。

卒業のときにつける造花とリボンがセットになっている花飾りのようだった。けれど、うちの高校のものではない。平明高校の卒業祝いの造花は桜の形をしている。

私の手の中にあるのは、紫色の小花で下についている白いリボンには、見覚えのない男子生徒の名前が書いてある。

常磐先輩が持っていたものに似ていると思っていたけれど、私の勘違いかもしれない。拾ってしまった以上はどうしようかと思っていると、頭上から窓が開けられた音がした。


「……杏里?」
上を向くと、そこにはかつての友人——朝葉がいた。