朝比奈くんがなにかを言おうとしたところで、聞き覚えのある声がして振り返る。そこには部長がいた。
こうして対面するのは半年ぶりだった。私が退部した頃よりも、髪が伸びていて鎖骨あたりまでの長さになっている。
「部長、少し話したいことがあるんですけど、今いいですか?」
「もう部長じゃないよ」
部長──草鹿先輩は、眉を下げて笑った。
「あ……すみません。草鹿先輩」
そうだ。もう三年生は引退したので、部長は二年生の誰かになっているはずだ。
いったい誰が部長になったのだろう。押しつけられた人がいないか心配になる。元部活仲間の杏(里たちの顔を思い出して、すぐに考えるのをやめた。
私はもう退部したのだから、気にするべきじゃない。
「俺は向こうで待ってるから」
それだけ言うと、朝比奈くんは私と草鹿先輩から離れていく。さっきのやり取りを気にしているのかもしれない。
草鹿先輩は横目で朝比奈くんを見たあと、「話って?」と首を傾げる。
引退したからだろうか。部活にいた頃よりも、草鹿先輩の雰囲気が柔らかくなった気がする。
「常磐先輩の件で……」
私の言葉で察した草鹿先輩は頷いてから、廊下の壁の方に寄るようにと手招きする。今話題を集めている件だからか、周囲の目を気にしているようだった。
「突然すみません」
「いいよ。気になるのもわかるし。それで、なにを聞きたいの?」
「私がやめたあと、バスケ部でなにか問題はありましたか?」
草鹿先輩は視線を上げて、考えるように腕を組む。
「うーん、特にはなかったけどな。相変わらず三年と二年は仲悪かったけど」
私が所属していたときも、練習のたびに空気がピリついていたのを思い出して、一瞬胃のあたりが鈍く痛んだ気がした。
「あ、でも杏里ちゃんが一時期休んでいたんだよね」
二年生のバスケ部員、金守杏里はかつて私と一番仲がいい友達だった。けれど、部活を辞めたあとは一切関わりがない。
そのため、彼女が休んでいたという話は噂で聞く程度だった。
「それって部活が原因だったんですか?」
「揉めていた感じはなかったけどなぁ。だけど、朝葉ちゃんの代わりを杏里ちゃんがやらされてるっぽい空気は少しあったんだよね」
私の代わり。内容を聞かなくても大体わかる。
部室の掃除や試合場所の交通ルートを調べて連絡するなど、私がバスケ部にいた頃にやっていたことを杏里がやらされていたのだろう。
「二年の中でなにかあったのかなって思っていたけど、二週間くらいで復帰して今もバスケ部だよ。それに星藍は関係ないだろうし」
本当にそうなのだろうか、と言いたい気持ちをのみ込む。杏里も常磐先輩に私と同じことをされたとは限らない。
「朝葉ちゃんが責任を感じることじゃないよ」
「え?」
「部活やめたこと、気にしてるんじゃないの?」
気にしていないと言ったら嘘になる。私が抜けたことによって他の人が雑用を押しつけられて苦しんでいたのなら、あのときもっと別の手段を考えるべきだったのかもしれない。
「バスケ部の問題は誰かひとりのせいじゃないし、あのときやめる決断をした朝葉ちゃんは、私にはかっこよく見えた」
本当は少し羨ましかったんだと草鹿先輩が笑う。
「ずっとね、辛くても部活はやめちゃいけないものだって思ってたからさ」
私も同じだった。部活に入ったなら三年間続けないといけないと思い込んでいた。だけど、朝比奈くんにやめたっていいと言ってもらえて、大事なのは自分の気持ちなのだとわかり、決断ができた。
「……星藍もやめたいって思ってたのかな」
草鹿先輩がこぼした言葉に、私は目を見開く。
「星藍はしっかりしているし、部員たちをまとめるのが好きなんだと思ってたんだよね。でもそれは私が勝手に思い込んでいただけなのかもしれない」
常磐先輩が教室から落下した件を草鹿先輩は自殺だと思っているみたいだ。
もしも自殺だとしたら、部内でのストレスやプレッシャーも理由に含まれていたのだろうか。
「引退したって、辛かった記憶が消えるわけじゃないよね」
私には常磐先輩の本音が見えなくて、彼女が本当はどんな考え方を持っているのかも想像がつかなかった。
文武両道な人気者。なんでも持っているように見える常磐先輩が見せた冷たい表情。草鹿先輩は常磐先輩の別の一面を知っているのだろうか。
「草鹿先輩は、常磐先輩がいじめをしていたって噂は聞きましたか?」
私の質問に草鹿先輩は表情を曇らせる。噂に対していい感情を抱いていないようだった。
「星藍がいじめてるのなんて私は見たことないよ。桑野のことだってありえないし」
草鹿先輩曰く、噂の大半はデマだそうだ。
私が退部したあとになにかあったのかと思ったけれど、草鹿先輩も思い当たることはないみたいだ。それに桑野先生の件は私も真実だとは思えない。
「それとさ、桑野が星藍に付き纏っていたんじゃないかって噂もあるんだよね」
「桑野先生が、ですか?」
あまりピンとこなくて、私は眉を寄せる。
桑野先生は当時部長だった草鹿先輩よりも、常磐先輩を呼び出して話し合いをすることが多かった。桑野先生が部内で一番信頼していたのが、おそらく常磐先輩だったのだ。
それでもそこに特別な感情があったようには見えなかった。
「星藍が桑野と不倫していたって話よりも、付き纏われていた方が私は納得できるなぁって」
「常磐先輩からそういう相談を受けたことがあるんですか?」
草鹿先輩は寂しげに目を伏せると、「星藍は相談とか一切しないよ」と言う。親しいと思っていた草鹿先輩にも常磐先輩は自分のことをほとんど話さなかったそうだ。
壁に寄りかかり、草鹿先輩が教室の方向を見つめる。
「星藍って青年期失顔症だったのかも」
消えそうな声だったけれど、隣にいる私の耳にははっきりと届いた。
「……確定ではないんだけどね。思い当たる点はあるなぁって。ほら、あの子〝いい子ちゃん〟だからさ」
草鹿先輩は苦笑しながら言った。
いい子ちゃん。それは私にとって、呪いのような言葉だった。
きっとバスケ部にいた頃、私も同じようにみんなに思われていたはずだ。
頼めばなんでも引き受ける、都合のいい子。いつだったか、常磐先輩に言われたことがある。
『私と朝葉ちゃんは似てるよね』
そのときは非の打ち所がない常磐先輩と私が似ているところなんて全くないと思っていた。けれど、今ならわかる。
私たちは、バスケ部の中で面倒ごとを押しつけられやすい存在だったのだ。
その日の放課後、なんとなく帰る気分になれなくて私は席に座ったままぼんやりと人が減っていく教室を眺めていた。
「まだ悩んでんの?」
目の前の席の椅子を引くと、朝比奈くんが座った。こちらを向いて、机に肘をつく。
「間宮が悩んだところで答えなんて出ないだろ」
「……わかってるよ」
悩むだけ無駄だと朝比奈くんは言いたいのだろう。
「常磐先輩が青年期失顔症だったなら、青失部で助けることはできなかったのかなって」
青失部は、青年期失顔症になった人の悩みを聞くために作った部活だ。
それに匿名の相談の中に、常磐先輩がいた可能性だってある。そんなことを考えていると、朝比奈くんがきっぱりと「無理だろ」と言った。
「俺にはあの人が、他人に悩みを打ち明けるようには思わない」
「朝比奈くんって常磐先輩と親しかったっけ?」
面識があったのは知っているけれど、三年の先輩に常磐先輩が自殺だとは思えないと言っていたことも気になっていた。朝比奈くんはいったい常磐先輩をどんな人だと思っているのだろう。
「親しいわけじゃないけど。ただ……少し話をしたことはある」
どうやらそのときに、常磐先輩は周りが抱いているイメージの人とは違うと思ったそうだ。
「それにさ、青失部が誰かを救うなんてできないと思うんだよな」
朝比奈くんはちらりと私を見ると、言葉を探すように机の上で指先をとんとんと小刻みに動かす。
「心の整理をつけるために話を聞く役割つーか、もっと肩の力を抜いていた方がいい気がする」
「……そうだね」
話を聞く過程で救われる人も中にはいるかもしれないけれど、あくまで私たちはサポート。気づかない間に私は気負いすぎていたみたいだ。
「三年の教室、行ってみるか」
朝比奈くんがカバンを肩にかけて立ち上がる。
「もしかして常磐先輩のクラス?」
封鎖されているので入れないのではないかと指摘すると、朝比奈くんが片方の口角を上げた。
「あの教室、鍵が壊れてんだよ」
「……よくそんなこと知ってるね」
以前も旧校舎の屋上の鍵を先輩たちからもらったと言っていたので、その先輩たちから聞いたのだろう。
三年の教室がある方まで行くと、ひと気はなく静かだった。常磐先輩の件の影響で出席率が上がっているとはいえ、この時期なので三年生たちは居残りをせずに帰宅しているようだ。
三年二組の教室のドアには立ち入り禁止の張り紙が貼ってある。朝比奈くんは堂々とドアを開けて、中に入っていった。
私は念のため周囲を見回してから、教室に足を踏み入れる。
私たちの教室と同じ作りのはずなのに、置いてあるものや掲示物が異なるからか違和感がある。
「花壇の上に落ちたんだよね」
そうなると教室の後ろの方の窓から落ちたのだろう。
おそらく常磐先輩が使っていた机を指先でなぞる。
『朝葉ちゃんは私のこと、恨んでる?』
私が追い込まれるように促したのが常磐先輩だと知ったときに聞かれたことだった。
あのとき、常磐先輩はどんな表情をしていた……?
たとえ本心は違っていて、冷たい感情を持っていたとしても、常磐先輩はいつも優しかった。
親身になってくれて、甘やかしてくれて、ほしい言葉をくれていた。
それはもしかしたら——彼女自身がずっと誰かに与えてほしい言葉だったのかもしれない。
朝比奈くんが窓を開けて花壇を見下ろす。
「なんでほうきが落ちてんだ?」
「え、なに?」
「なあ、あれ……バスケ部のやつじゃねぇの」
彼の隣に立ち、同じように花壇の方を見ると見覚えのある女子生徒がいた。その生徒は花壇の側でしゃがんでなにかを拾い上げる。
「杏里……?」
あんなところでなにをしているのだろう。そ
れに手に持っているものがなんなのか、ここからではよく見えなかった。
私の声が聞こえたのか、杏里が弾かれるように上を向く。目が合うと、慌てた様子で走り去っていってしまった。



