「朝葉って、元バスケ部だったよね」
同じクラスのバレー部の子達に話題を振られて、私は身構えながら頷く。
「飛び降りた先輩のこと、色々噂になってるけど実際のところどうなの?」
「噂って……」
「バスケ部内でその先輩がいじめしてたとか、桑野先生との関係とか、本当なのかなーって」
彼女達からは深い意図は感じない。関わりがない人たちにとっては、きっとこの事件はゴシップネタみたいなものなのだろう。
昨日、朝のホームルームで三年生が窓から転落した〝事故〟について担任の先生から報告をされた。
事故が起きた花壇や三年二組の教室は立ち入り禁止になっていて、生徒達はさまざまな憶測をしている。
学校側は詳細を伏せているけれど、すぐに生徒の名前は特定された。
窓から転落したのは、常磐星藍。私が六月まで所属していたバスケ部の先輩だった。
「常磐先輩はみんなと良好な関係だったし、桑野先生とそういう関係には見えなかったよ」
「じゃあやっぱデマかぁ」
常磐先輩はみんなが桑野先生を怖がるので、代わりに練習メニューの改善についての意見などを伝えにいく役割をしていた。私から見たふたりは特別な雰囲気は一切ない。あくまで顧問と部員だった。
それに私がバスケ部に所属しているとき常磐先輩のトラブルは一度も聞いたことなかった。むしろ三年生と仲が悪い二年生達から唯一慕われている人だった。
「三階から落ちて花壇がクッションになったって奇跡じゃない?」
「でも意識戻ってないんでしょ」
「花壇のレンガに頭打ったのかな」
二日が経過しても常磐先輩の意識は戻っていない。学校側は事故と言っていても、自殺じゃないかという意見も多い。さらには誰かに恨まれて突き落とされたのではないかという噂まで出てきた。
「常磐先輩って、どんな人だった?」
ひとりの子に質問をされて、私は固まる。どんな人なのか、今ではよくわからない。動揺を悟られないように、落ち着いた口調で以前抱いていたイメージを口にする。
「優しくて、勉強もバスケも得意で完璧な人って感じかな」
常磐先輩と関わった人はこういう印象を抱くと思う。
だけど、人は見えている部分だけが全てではない。
それを去年の初夏に私は思い知ったのだ。
常磐先輩に悩みを相談すると、親身になって改善策を提案してくれる。
たとえそれが躊躇うような提案だとしても、みんな「常磐先輩が言うなら」と信じて実行してしまう。そのくらい信頼が厚い人だった。
バスケ部に所属していたとき、私は二年生の子たちから練習メニューの見直しを桑野先生に相談してほしいと頼られていた。けれど、実際裏では〝桑野先生のお気に入り〟で〝八方美人〟と陰口を言われていた。
そして一年生の子たちからは、二年生に嫌がらせをされていることを桑野先生に報告してほしいと頼まれ、三年生からは私が二年生の責任者として扱われて叱られることが多かった。
板挟みにあい、苦しんでいる私に気づいてくれたのは、常磐先輩だった。
『朝葉ちゃんが辛そうに見えて、なにかあったのかなって』
常磐先輩は、桑野先生に相談するのはどうかと提案してくれた。
最初は桑野先生に話したところで解決するのか不安だったけれど、常磐先輩は桑野先生が私のことを心配していたから親身になってくれると励ましてくれた。
あの頃は心に余裕がなくてその言葉を信じてしまったのだ。
その結果、桑野先生に相談したことによって、私の精神バランスはさらに崩れて、青年期失顔症を発症した。
自分を見失い、さらには部内で利用されているだけだと痛感してからは、部活に行くことが辛かった。
そんな私を同級生の朝比奈くんが気晴らしに外に連れ出してくれて、支えてくれた。そして、保健医の叶ちゃん先生の助けがあって休部をし、最終的には辞める選択をした。
常磐先輩は私が桑野先生に相談をしても、解決することはないとわかっていたのではないか。
そう思って、部活を辞めるとき、常磐先輩に私と部内の人たちの関係が悪化する方向に促していたのでないかと聞いた。
『私はただ、相談にのっていただけ。なにも悪いことはしてないよ』
冷たい眼差しを向ける常磐先輩の姿を思い出す。
『朝葉ちゃんが勝手に自分の首を絞めたんでしょ』
あのときの彼女は普段とは別人だった。
たしかに常磐先輩の言うとおり、相談にのって改善策を提案しただけ。桑野先生に相談することを決めたのは私だ。
それでも常磐先輩は、桑野先生に相談をしたらどうなるのかを最初からわかっていたのだ。そして私が追い詰められていくのを傍観していた。
だからこそ、私はそんな彼女のことが怖かった。
自分の手は汚さず、まるで相手を操って楽しんでいるかのように見えたのだ。私が青年期失顔症を発症したことを気づいていたかはわからない。だけど、薄々勘づいていた気もする。
私が見ていた常磐先輩の全てが偽りだったとは思わない。だけど、周りに本心を見せているようにも思えなかった。
ずっと周りに言いたいことを言えずに流されていた私が言えることではないけれど、常磐先輩は根深いなにかを抱えている気がする。
三年の教室で事件が起こった日の朝、私は常磐先輩を昇降口で見かけた。
けれど、裏の顔を知ってから苦手意識が生まれて挨拶をすることができなかった。
もしも自殺だったとしたら、あのとき常磐先輩はひとりで思い悩んでいたのだろうか。
昼休みは週に二回保健室でご飯を食べるのが恒例になっている。
メンバーは二年生の朝比奈くんと一年生の中条さん。そして養護教諭の叶ちゃん先生だ。
少し前まで私も中条さんも青年期失顔症を発症していて苦しんでいた。
だからこそ、同じ症状に悩む生徒たちの助けになりたい。そんな気持ちで立ち上げたのが『青失部』で、メンバーがこの四人だ。非公認の部活だけれど、生徒達からは学校の相談ボックスやSNSのアカウントを通じて度々相談が届く。
この日も相談内容について話し合いをしていると、中条さんが「そういえば」と口を開く。
「三年生の出席率が一気に上がったらしいですね〜」
「ただの野次馬だろ。くだらない噂話のせいで根も葉もないことまで広まってるみたいだし」
朝比奈くんが呆れたように言うと、叶ちゃん先生がため息を漏らす。
「学校に保護者の方や、生徒のSNSを見た人たちから電話がきているの」
「どんな電話がきてるんですか?」
私の問いに、叶ちゃん先生は言葉を濁しながら話せる範囲でと前置きをして説明をしてくれる。
「SNSに書いてあることは事実なのかっていう質問よ。私たちもまだ調査中だから答えられることが少なくて、それでもなかなか電話を切ってくれなくてね……」
おそらくは本当に事故だったのか、いじめがあったのか。そして教師と不倫をしていたというのは本当かといったことだろう。
「私、常磐先輩と同じ中学出身なんですけど、中学校の方にも取材の連絡がきているって友達が言ってました。よくそこまでしますよねー」
「中条さん、常磐先輩と同じ中学だったの?」
ふたりに繋がりがあったことに驚いていると、中条さんは食べ終わったコロッケパンの袋をくしゃくしゃにしながら頷いた。
「ここからふたつ先の駅が地元なんです。なので、同じ中学出身の人ってちらほらいるんですよ」
「学年違うのに同じ中学って知ってるってことは関わりあったのか?」
朝比奈くんの疑問に、中条さんが「あまり関わりはないです」と答えた。
「高校に入って図書委員になったときに知り合って、それで同じ中学だって知ったんです」
委員会で会話をするくらいで個人的な連絡先も中条さんは知らないそうだ。この中なら、私が一番常磐先輩と関わりがあったのだと思う。けれど、いくら考えても常磐先輩がなにを思い詰めていたのかわからない。
部活のとき、常磐先輩が感情的になる姿は一度も見たことがなかった。
桑野先生に理不尽なことで叱られても表情を変えることはなかったし、部員達から頼られても嫌な顔をしなかった。
そんなことを思い返していると、ふとある可能性が浮かんだ。
けれど、これは根拠のない憶測にすぎない。だけど、もしもそうだとしたら、私も常磐先輩を追い詰めていたひとりだったのかもしれない。
「間宮、購買」
「え?」
「さっき購買行きたいって言ってただろ」
そんなこと言った覚えがなかった。固まっていると、朝比奈くんがコンビニ袋を持って立ち上がる。
「えー、なに買いに行くんですか! 私もなにか買いに行こうかな〜」
「中条は留守番」
「ひどい! 邪魔されたくないなら、そう言ってくださいよ!」
「うざい」
朝比奈くんと中条くんがいつものように口喧嘩をし始めると、叶ちゃん先生が私の腕を軽く叩いて「いっておいで」と微笑む。
私はお弁当を片付けて席を立った。
朝比奈くんのことだから、なにか話したいことがあって購買に行くと言っているのかもしれない。
「ごめんね、中条さん。ちょっとふたりで購買にいってくるね。なにか買ってきてほしいものはある?」
不満げだったのが嘘のようににんまりとした中条さんが首を横に振って「ごゆっくり〜!」と言ってくる。
なにか誤解をしている気がするけれど、朝比奈くんと中条さんの口喧嘩が再び始まる前に私は保健室を出た。
廊下を歩きながら隣にいる朝比奈くんを見やる。
「間宮はあんまり気にすんなよ」
誰のことかと聞かなくても、すぐにわかった。もしかしたら朝比奈くんも同じことを考えていたのかもしれない。
「でももしも常磐先輩も……青年期失顔症だったとしたら」
「そうだとしても、間宮が責任を感じることじゃないだろ」
立ち止まり、私は自分の足元を見つめる。
「常磐先輩は器用だし、周りとも上手くやっていて人気者で……だから想像もしてなかった」
まだ決まったわけではない。だけど、考えれば考えるほど、過去の自分と重なっていく。
常磐先輩も私と同じような役割をしていた。
部員達から練習メニューの改善を桑野先生に相談してほしいと頼まれて、桑野先生からは責任者のように扱われていつも指名されて叱られる。部内の不和についての相談を受けていることだってあった。
私の心が少しずつ壊れたように、常磐先輩だって精神的に負荷がかかっていたはずだ。
「常磐先輩の悩みは、誰が聞いていたんだろう」
みんなから相談を受けてばかりで、常磐先輩が心に溜め込んだ本音を話せる場所はあったのだろうか。
「間宮」
落ち着けと言うように、朝比奈くんが私の手を掴んだ。それによって指先が冷え切っていて微かに震えていたことに気づかされる。
「俺はあの人が自殺だとは思ってない」
どうして朝比奈くんが言い切るのかはわからないけれど、彼の言葉は不思議と安心感を与えてくれた。
「気になるなら常磐先輩と親しい人に聞いてみたら?」
「親しい人……部長の草鹿先輩なら、常磐先輩のこと詳しいかも」
学年が違うので部活以外の人間関係はわからない。けれど、部内ではよく部長と一緒に行動していた。
でも退部をした私が、今更部長に会いにいってもいい顔はされないかもしれない。そんなことをぐるぐると悩んでいると、朝比奈くんに手を引っ張られる。
「行くぞ」
「え、今から?」
「悩んでる暇があるなら行動した方がいいだろ」
俯いていた顔を上げて、半歩先を歩く朝比奈くんに視線を向ける。金色の髪がさらさらと揺れて、眩しさに目を細めた。
ふっと笑うと、振り返った朝比奈くんが怪訝そうな顔をする。
「朝比奈くんらしいなって思って」
「なんだよそれ」
「ありがとう」
「……別に」
ぶっきらぼうに返されて手は離れていったけれど、冷えていた指先はいつのまにか温かな温度を取り戻していた。
朝比奈くんは私が悩んでいると手を差し伸べてくれる。そんな彼に私はいつも救われているのだ。
三年生の教室がある三階に着くと、「何組?」と朝比奈くんに問われる。
そういえば部長が何組かまでは知らない。
「たしか常磐先輩とは違うクラスだったと思うんだけど……」
二年に上がったばかりの頃、部長が常磐先輩とクラスが離れたと嘆いていたのを聞いたことがある。けれど、それだけの情報では部長のクラスはわからない。
「聞いてみればいいんじゃね」
ちょうど前方にいた三年の女子生徒と目が合った。肩くらいまでの長さの黒髪で、毛先が綺麗に内巻きになっている。大人しそうな雰囲気の人だった。
「あの……草鹿先輩って何組かわかりますか?」
先輩は目を瞬かせたあと、一組だと教えてくれる。けれど、どうやら今は購買に行っていていないそうだ。
「ありがとうございます」
購買ならもう少し待っていたら戻ってくるはずだ。
目の前にいる先輩はじっと私のことを見つめると、「バスケ部の子だよね?」と聞いてきた。
私のことを知っていることに驚く。部活以外で三年生と接することはなかったはずだけれど、私が忘れているだけでどこかで交流があった人だろうか。
「前に常磐さんと話しているのを見たことがあったから、バスケ部の子かなって思って」
必死に記憶を引っ張り出そうとしていると、先輩は慌てた様子で理由を説明してくれる。
そういうことかと安堵して、一応「元バスケ部です」と訂正をしておいた。
すると、先輩は探るような眼差しで私を見る。
今噂でバスケ部は揉め事があって部員がやめたという話も広まっているので、私もそうなのではないかと気になっているのかもしれない。
けれど、先輩は私に質問をしてくることはなく、むしろ気遣うような言葉をかけてくれる。
「草鹿さんが戻ってきたら、後輩がきたって伝えておこうか?」
「少しここで待ってみます」
先輩に迷惑をかけるわけにはいかない。きっと昼休みが終わるまでに戻ってくるはずだ。「それじゃあ」と先輩が立ち去ろうとすると、何故か朝比奈くんが先輩を呼び止める。
「常磐先輩と仲よかったんですか」
初対面の後輩からの突然の質問に、先輩は誇らしげに微笑んだ。
「常磐さんとは同じクラスで、最近はよく一緒にいたよ」
ひょっとしたら部長よりも親しい間柄だろうか。
面白がって聞きにきたと思われないか不安だったけれど、むしろ常磐先輩の件で部長に会いにきたと伝えると先輩の表情は明るくなる。
「常磐さんって、みんなに優しくて責任感も強いでしょ。だから、きっとずっと苦しくても誰にも言えなくてこんなことに……」
うっとりとした様子で話している目の前の先輩からは、常磐先輩のことが好きで尊敬しているのが伝わってくる。得体のしれない違和感に私は戸惑う。
この先輩は熱量のこもった話し方で、常磐先輩に対して友情というよりももっと盲目的な感情を抱いているように思えた。
「本当に自殺なんですか」
朝比奈くんの言葉に先輩が眉をひそめた。醸し出す雰囲気が一気に鋭いものに変わる。
「……自殺じゃなかったら、なんだと思うの」
「俺にはあの人が自分から飛び降りるようには思えないです」
「常磐さんのこと知ったように言わないで!」
苛立ちを含んだ尖り声に、体がびくりと震える。
先輩は不快そうにしながら朝比奈くんを睨みつけているけれど、朝比奈くんは一切引く気がないようだった。
「先輩、あの人のことちゃんとわかってますか?」
「すみません、先輩。失礼します」
さすがにこれ以上はまずいと思い、先輩に謝罪をして朝比奈くんの腕を掴んで離れていく。
先輩と少し離れると、私は朝比奈くんに向き直り先ほどの発言を注意する。
「言いすぎだよ」
朝比奈くんはむっとした表情のまま、金色の髪を乱暴に掻く。
「どうしてあんなこと言ったの?」
彼がなにも考えずに、あんなふうにキツいことを言うとは思えない。じっと見つめると朝比奈くんは観念したように口を開いた。
「ああいうのが、噂を助長すると思ったんだよ」
「朝比奈くんの言いたいことはわかるけど……」
常磐先輩と親しい間柄の人が自殺だと断定して話してしまうと、聞いた人はそれを真実だと思って広めてしまうかもしれない。
「悪い。もうちょい言葉選ぶべきだった」
朝比奈くんはため息を吐いて、視線を下げた。
「自殺じゃないって思ってるんだね」
先ほど朝比奈くんが、常磐先輩のことを自分から飛び降りるようには思えないと言っていたのを聞いたとき、少し驚いた。
教室の窓から落下したという状況から見て、自殺だと思っている人が多いのだ。私もその可能性が高いのではないかと思っていた。
「俺は……」
「あれ? 朝葉ちゃん、どうしたの?」



