翌日も三年生の出席率は高かった。しかも昨日に増して、妙な噂が飛び交っている。
あの清廉潔白といった雰囲気の常磐さんが、裏では桑野先生と不倫をしていたのではないか。そんな馬鹿馬鹿しい話を信じている人たちに呆れてしまう。
常磐さんはそんなことしない。少し考えたらわかるはずなのに、みんなこんなにも簡単に噂話に踊らされる。
教室に入ると、虹佳が「聞いて聞いて!」と声を弾ませながら話しかけてきた。例の桑野先生との噂話をされるのかと思っていると、彼女が口にしたのは耳を疑うような内容だった。
「常磐さん、部員いじめしてたんだって」
「……ありえないよ」
それなら昨日草鹿さんがそのことに触れるはずだ。同じ部だった彼女が知らないはずがない。
「でもこれ見てよ」
虹佳がスマホの画面を私に向ける。SNSにはまた噂話が載っていた。
【あの人、裏で後輩いじめをしていたらしいよ】
その投稿を虹佳がタップすると、画面に友達らしき人とからのリプが表示される。詳しく聞きたいというリプに、投稿者がバスケ部の二年生たちは常磐さんを恐れていると返していた。
「これが本当なら、バスケ部の三年生がなにも知らないのはおかしくない?」
「あー……たしかに」
常磐さんが二年生をいじめていたのなら、草鹿さんが知らないわけがない。それに間に入っていたと草鹿さんが言っていたのだ。こんな話嘘に決まっている。
「でもさ、周りの三年にはバレないようにしていたんじゃないかって噂もあるみたい」
「いじめているのに三年生が誰も気づかないなんて、ありえないよ」
非の打ち所がない常磐さんが、事件後どんどん根も葉もない噂によって、評判を下げられている。きっと完璧な彼女への嫉妬がそうさせているのかもしれない。悔しいけれど、どうしたら止められるのか私には方法が思いつかなかった。
昼休みになると、廊下で二年生の男女を見かけた。
女子の方は以前常磐さんと一緒にいるのを見たことがあるので、おそらくバスケ部の後輩だ。
そしてもうひとりは、二年生の中で悪目立ちしている問題児。一条くんよりも少し淡めの金髪で、生活指導の先生に度々注意を受けている。関わりのない私でも知っているほど有名な朝比奈聖という生徒だ。
真面目そうな女子と、不真面目な男子の組み合わせが不思議で、つい目で追ってしまう。すると、女子の方と目が合ってしまった。
「あの……草鹿先輩って何組かわかりますか?」
「一組だよ。でも今はたぶん購買に行っていると思う」
私の返答に彼女は目を伏せて「ありがとうございます」と言った。なんとなく常磐さんに似ている気がした。顔立ちは異なるけれど、醸し出している雰囲気が大人びているように感じる。
「バスケ部の子だよね?」
問いかけると、彼女はわずかに目を見開く。その隣で朝比奈聖が私を警戒するように眉を寄せたのがわかった。
「前に常磐さんと話しているのを見たことがあったから、バスケ部の子かなって思って」
納得した様子で彼女が表情を和らげると、すぐに苦笑する。
「元バスケ部です」
「……そう、なんだ。ごめんね、余計なこと聞いちゃって」
「いえ、大丈夫です」
なにか揉めごとがあって辞めたのだろうか。だけど、こうして草鹿さんを訪ねてくるということは三年生と不仲ではない?
そもそもどうして訪ねてきたのだろう。もしかして常磐さんのことで? いじめの噂について、この子なら真実を知っているかもしれない。
次々に疑問が浮かんだけれど、質問攻めにしたら困らせてしまいそうだ。気になるとはいえ、私が深く聞くべきことではない。
「草鹿さんが戻ってきたら、後輩がきたって伝えておこうか?」
「少しここで待ってみます」
ふたりの横を通り過ぎようとすると、「先輩」と朝比奈聖に呼び止められる。
「常磐先輩と仲よかったんですか」
ずっと口を開く気配がなかった彼に、突然声をかけられたことに戸惑う。朝比奈聖は真剣な眼差しで私の言葉を待っているようだった。
「同じクラスで、最近はよく一緒にいたよ」
どこまで話していいものか迷いながらも当たり障りのない言葉で返す。すると、朝比奈聖が考え込むように口をへの字に曲げる。
「常磐さんの件で、草鹿さんに会いにきたの?」
私の質問に朝比奈聖の隣にいる女子が頷いた。
「事件のこと聞いて……それで……」
関わりがあったからこそ、彼女は常磐さんのことを心配しているのかもしれない。やっぱり部内でいじめをしていたなんて嘘に決まっている。
「常磐さんって、みんなに優しくて責任感も強いでしょ。だから、きっとずっと苦しくても誰にも言えなくてこんなことに……」
同意を求めるように彼女たちの方を見ると、ほんの少し表情が強張ったのがわかった。
「本当に自殺なんですか」
朝比奈聖の発言に私は目を丸くする。彼は飛び降り事件はそれ以外の理由だと言いたいように見えた。
「……自殺じゃなかったら、なんだと思うの」
「俺にはあの人が自分から飛び降りるようには思えないです」
手をきつく握りしめながら、私は朝比奈聖を睨みつける。
「常磐さんのこと知ったように言わないで!」
誰かの恨みを買って突き落とされたとでも言いたいのだろうか。それとも不倫をしているという馬鹿馬鹿しい噂を信じているのかもしれない。
近くにいた私だからこそわかる。常磐さんはそんな人じゃない。
「先輩、あの人のことちゃんとわかってますか?」
学年も違っていて、大して常磐さんと関わりがなさそうな人の言葉なんて気にする必要はない。それなのに朝比奈聖の言葉が心に突き刺さる。
「朝比奈くん! すみません、先輩。失礼します」
「引っ張んなって、間宮」
間宮と呼ばれた女子は、慌てた様子で朝比奈聖の腕を引っ張って私から離れていく。
言い表せないようなモヤモヤとした感情が心の中で渦巻いた。
常磐さんが目覚めたら、真相も明らかになるはずだ。
苦い気持ちを抱えながら、三年二組の教室のドアの前に立つ。
立ち入り禁止という張り紙がされている。取手の部分に指先を引っ掛けてみると、すんなりとドアが開いた。そういえば、夏休み前に男子たちがふざけて遊んだせいで、教卓側のドアの鍵は壊れていた。
誰にも見られていないのを確認してから、私はそっと中に入る。
教室は日差しがたっぷりと注がれていて、ここで事件が起きたのが嘘のようだった。
常磐さんの席は窓際の後ろの席にある。彼女が飛び降りたのは、その席の斜め前にある窓からだった。
私は常磐さんの席に座り、彼女が日々見ていた風景を眺める。
常磐さんにとってこのクラスは、私は、どんな存在だったのだろう。
考えても答えが出るはずもなく、ため息を漏らした。ここにいても暗い気分になるだけだ。立ち上がろうとすると、膝と机の脚がぶつかってしまった。
「いった……」
床にしゃがみ込み、痛む膝をさすっていると、机の中に黒い塊が入っているのが見えた。
不思議に思って手を伸ばしてみる。丸みを帯びた黒いポーチだった。
そのまま机の中に戻そうとして、思わず息をのむ。
ポーチのチャックがわずかに開いていて、隙間から淡い桃色の花柄の袋が見える。
その柄には見覚えがあった。私が作ったトリュフを入れた袋と全く同じ柄だ。微かに震える手でチャックを開けていく。
勝手に見てはいけない。やめておいた方がいい。頭ではわかっていても、手は止まらなかった。
「え……」
ポーチから出てきたのは、淡い桃色の花柄のラッピング袋の中に入った〝トリュフ〟。
頭を思いっきり殴られたような衝撃だった。
『すごく美味しかった』
常磐さんは笑顔で私にそう言ってくれた。けれど、袋の中に入っているトリュフの数は減っていない。
常磐さんはひと口も食べていなかったのに、食べたふりをしていたということだ。
『先輩、あの人のことちゃんとわかってますか?』
先ほどの朝比奈聖の言葉が頭を過った。
信じたくない。私が見てきた常磐さんが、偽りの姿だったなんて思いたくなかった。だけど、彼の言う通りだったのかもしれない。
ポーチを机の中に仕舞って、窓の方向に視線を向ける。
常磐さんの噂話がどこまでが本当で、どこまでが嘘なのかわからなくなってきた。
私は彼女のなにを見てきたのだろう。



