部活には新入部員が入り、二年生は最初張り切っていた。
けれど、だんだんと空回りしていき、一年生が不満を抱いているのが目に見えてわかる。
「二年の先輩たちさ、うざくない? 指示ばっかり出して、偉そうで意地悪だし。三年の先輩たちみたいに放置される方がまだマシなんだけど」
部活終わりに一年生の子たちが体育館のモップがけをしながら、二年生の文句を言っているのが外にまで響いていた。
ちょうど水道あたりにいた私と里帆には丸聞こえだった。
ふたつ離れた水道を使っている杏里ちゃんを見やる。彼女はタオルで濡れた顔を拭き終わると怒りに染まった表情を露わにした。
「上石先輩が一番ダルいかも〜」
「でも私、金守先輩も苦手」
一年生の間で若菜ちゃんと杏里ちゃんの悪口が始まると、杏里ちゃんは俯きがちに更衣室の方へ歩いていく。
「一年と二年、揉めそうだね〜。はぁ、面倒くさ」
里帆が首にかけたタオルで口元を拭いながら、ため息を漏らす。
新しく部長にあった里帆にとっては、なるべく部内で波風立てたくないのだろう。ただでさえ、三年生と二年生の仲が悪いのだ。
「今二年たちが来たら大事になりそうだし、早くモップがけ終わらせてって言ってもいいかもしれないね」
私の言葉に里帆が頷く。
「そうだね。軽く注意しておこっか」
杏里ちゃんはきっと二年の子たちに話すだろう。ひょっとしたら若菜ちゃんあたりが、一年生に文句を言いにくるかもしれない。
体育館の入り口に立つと、「常磐先輩とか間宮先輩に相談する?」という声が聞こえてきた。
私と里帆は足を止めて、顔を見合わせる。
「あのふたりならさ、困ってるんですって言ったら聞いてくれそう」
「えー……でもさ、言っても意味あるかな」
「お人好しっぽいし、使えそうじゃない?」
ひとりの子の発言に「使えそうは酷すぎ」と笑いが起こる。
「だってさ、使えそうな人は使わないと!」
〝使えそう〟と言われると心にグサリと刺さるものがあった。一年生の子にこんなことを思われていたなんて。
「なにあの言い方!」
自分のことのように怒っている里帆の腕に軽く触れて止める。
「私は大丈夫だから」
「だって、あんなふうに言われて腹立たないの?」
私と里帆の声が聞こえたのか、一年の子たちは「やば」と言ってチラチラとこちらを見ている。
「ここで揉めて桑野先生に知られたら、連帯責任になっちゃうよ」
なにか問題が起こるたびに桑野先生は連帯責任だと言う。ここで言い合いにでもなったら後が大変だ。
「……星藍がそう言うならわかった」
里帆は不服そうにしながらも、眉を吊り上げて体育館の中に入っていく。
「いつまで掃除してんの! 早く終わらせて! まだボールも片付けてないじゃん」
叱られた一年生たちは、小走りでモップをかけ始める。里帆は怒ると迫力があるので怖いみたいだ。
「戸締まりは私がするから、星藍は先に着替えて帰っていいよ。時間かかりそうだし」
サボらないように最後まで見張る気らしい。私は門限もあるので、里帆の言葉に甘えさせてもらうことにした。
「任せちゃってごめんね。ありがとう」
外通路を歩いて更衣室に向かう。さっき聞いた一年生の子の言葉が頭から離れない。
『お人好しっぽいし、使えそうじゃない?』
一年生の子たちがそう思うのなら、周りの友達にも同じように思われているのだろうか。
都合よく使えそうで、ちょうどいい存在。私や朝葉ちゃんのように、聞き役で相談を受けやすい人は、周りに消費されていく。
きっと朝葉ちゃんも、若菜ちゃんたちの対応で大変だろう。
今行ったら宥めないといけないと思うと憂鬱だ。二年生の子たちは気性が荒い子が多い。
更衣室のドアを開けると、中には朝葉ちゃんの姿しかなかった。ひとり残って掃除をしていたみたいだった。
「常磐先輩、おつかれさまです」
私に気づくと、朝葉ちゃんが柔らかく微笑む。
青年期失顔症のせいでどんな表情をしているかわからないけれど、私も自然と口元が緩んだ気がした。
「おつかれさま。掃除しているの?」
「はい。二年生が掃除当番なので」
他の子たちがいないので、朝葉ちゃんひとりが押しつけられたのだろう。
当番制にすればいいのにと思うけれど、彼女は周りに言ってギスギスするよりかは自分がした方がいいと考えそうだ。
「杏里ちゃんたち、大丈夫だった?」
「え?」
「一年生が話していること、私も聞いちゃったの」
朝葉ちゃんは視線を彷徨わせたあと、気まずそうに頷いた。
「……みんな怒ってました」
「やっぱりそうだよね。二年の子たち、体育館まで来るかなって少しひやひやしてたの」
「そうなりそうだったんですけど……」
「桑野先生に知られたら大変だもんね」
朝葉ちゃんがぎこちなく微笑んで頷く。おそらく体育館に乗り込もうとする若菜ちゃんたちを朝葉ちゃんが宥めたのだろう。
やっぱり朝葉ちゃんは私と似ているなと思う。
雑用を押しつけられたり、周りの空気を読んで宥めたり、話を聞く役割。
「私も掃除手伝うよ」
「え、大丈夫ですよ!」
「ふたりでやった方が早いでしょ。朝葉ちゃんは床を掃いてくれる? 私は雑巾で拭いていくね」
近くにある濡れた雑巾で、木製の荷物棚を一つひとつ拭いていく。
一年生の頃は私も掃除をしていたけれど三人ずつ当番制だった。それを朝葉ちゃんひとりでやり続けるのは苦労するはず。部長の里帆に共有した方がよさそうだ。
素早く掃除を終えて制服に着替えると、私たちはすぐに更衣室を出た。
外通路に出ると、朝葉ちゃんは体育館の方を振り返る。そして誰もいないのを確認するとホッと息をついた。
二年生の悪口を言っていたと聞いたあとなので、一年生と顔を合わせづらいのだろう。おそらく一年生は里帆にお説教をうけているはず。そのためもうしばらくかかりそうだ。
流れで一緒に学校を出ると、朝葉ちゃんが申し訳なさそうにした。
「遅くなっちゃってすみません」
「気にしないで。それよりお家の人は大丈夫そう?」
朝葉ちゃんの表情が強張る。慌てた様子でスマホをブレザーのポケットから取り出すと、疲れきった様子で俯いた。
「……どこにいるのって連絡きてました」
以前朝葉ちゃんの家が厳しいと聞いたことがあるけれど、もしかしたら私と近いのかもしれない。
「遅くなるときは連絡しなさいって言われてて……怒ってるかもしれないです。電話していいですか?」
「うん、いいよ」
電話をかけ始める朝葉ちゃんの横で、私も祖母にメッセージを送っておく。
【更衣室の掃除をしていたので遅くなりました。今から帰ります】
もっと早く送りなさいと帰ったら叱られそうだ。想像するだけでため息が漏れそうだった。
「本当だよ!」
隣を歩く朝葉ちゃんは、上擦った声でなにかを必死に説明している。
「掃除していたで、遊んでないよ」
朝葉ちゃんも大変そうだなと、同情してしまう。
私と同じで親から厳しくされているのだろう。テストもいつも高得点だと杏里ちゃんが言っていたのを聞いたことがある。親から日々プレッシャーをかけられているのかもしれない。
「今も部活の先輩といて……うん、そうだよ」
遊んで遅くなっていると疑われているようだった。困っている様子の朝葉ちゃんに「変わろうか?」と聞く。
「すみません。お母さん、今先輩に変わるから」
朝葉ちゃんからスマホを受け取って電話に出る。
「初めまして。バスケ部三年の常磐です」
【朝葉の母です。突然ごめんなさいね。最近前よりも遅くなることが多くて、それで心配になっちゃって】
朝葉ちゃんのお母さんは想像していたよりも、穏やかな口調だった。
「更衣室の掃除を一緒にしていました。すみません、遅くなってしまって」
【そうなのね。口出しすぎるのもよくないってわかっているんだけど……まだ心配で】
本気で朝葉ちゃんのことを心配しているのが伝わってきて、胸の奥がざわつく。
【電話に出てくれてありがとう。遅くまでおつかれさま。気をつけて帰ってね】
労う言葉に息をのむ。私が家族からは向けられない優しさだった。
「常磐先輩、大丈夫そうですか?」
「……うん」
スマホを返すと、朝葉ちゃんはお母さんと再び話し始める。
「これから帰るよ。うん、迎えは大丈夫だよ。バス乗ったらまた連絡するね」
私と似ていると思っていたけれど、似ていない。
電話越しの声音から、朝葉ちゃんは家族から愛情を注がれているのが伝わってきた。私の祖母のような、上辺だけの優しさではない。
朝葉ちゃんは電話を切ると、「すみません」と謝罪をした。
「うちのお母さん、少し口うるさくて……」
「朝葉ちゃんのことが心配なんだよ。優しいお母さんだね」
照れくさそうに朝葉ちゃんが微笑む。
朝葉ちゃんが羨ましい。学校で辛いことがあっても、愛情を注いでくれる家族がいたら、私は青年期失顔症にならなかったのだろうか。
だけどもしかしたら、私の母も一緒に暮らしていたら、こんなふうに心配してくれたのかもしれない。
遠い記憶の中の母に会いたくなる。祖母と父が面会を拒否しているのだろうから、会うことは叶わない。けれど、いつか一度でいいから母に会いたい。
家に帰り、靴を脱いでいると勢いよくリビングのドアが開けられた。
「遊んでいたんじゃないでしょうね!」
おかえりもなく、祖母は私の前に立って睨みつける、
「更衣室の掃除をしていて……それで遅くなっただけだよ」
「あなたの言っていることは信用できない」
いつもだったら感情を殺して、祖母の気が済むまで黙って待っていた。
だけど、今日は朝葉ちゃんのお母さんの優しい声を思い出して、虚しさや羨ましさや怒りがぐちゃぐちゃに入り混じる。
「……いつも私の言うことなんて信じないでしょ」
耐えきれず呟くと、祖母は目を見開いて思いっきり靴箱を叩いた。
「だいたい連絡が遅いあなたが悪いんでしょう! 口ごたえするのも、本当そっくりだわ」
「そうやってお母さんと私を比べるのやめてよ」
珍しく言い返す私に、祖母の苛立ちはどんどん大きくなっていく。
「引き取るんじゃなかった」
私だって好きでここに住んでいるわけじゃないと言いかけて、唇を噛んだ。これを言ってしまったら、祖母は許してくれない気がしたから。
「あの女が連れていけないって言うから、仕方なく引き取ったのに」
初めて聞く内容に私は困惑する。私を連れていけないと言った?
「……どうして」
「それは再婚するときに……はぁ、この話はもういいから、早く手を洗ってきなさい!」
祖母は詳しく話してくれなかったけれど、再婚という言葉が出てきた時点でどうして母が私を連れていかなかったのか想像がついた。
これ以上心を乱さないように、祖母の言う通りに手を洗いに洗面所へ行く。鏡に映った私には顔がなくて、自分が今どんな表情をしているのかわからなかった。
味がわからないご飯をお茶で必死に胃に流し込んだあと、勉強をすると言って部屋に閉じこもる。
辛くて、心が刺されたように痛いのに涙は出なかった。
朝葉ちゃんのお母さんの声を聞いたとき、朧げな記憶の中の私のお母さんもこんなふうなのだろうかと思った。けれど、母は新しい人生を歩んでいて、会いたいと思っていたのは私だけだ。
誰も私のことなんて必要としていない。
精神的に安定しない日々が続き、時折食べたものを吐いてしまうこともあった。けれど、周りには青年期失顔症だと勘づかれないように平気なふりをする。
そんなとき、朝葉ちゃんが部内の問題に板挟みにあって、部活中のプレイにも影響が出始めていた。
「急にごめんね。だけど、朝葉ちゃんが辛そうに見えて、なにかあったのかなって」
最初は桑野先生に気にかけてやってくれと言われたので、部活終わりに朝葉ちゃんに声をかけた。
「朝葉ちゃんは優しいから間に挟まれやすくて大変よね」
私と似ているけれど、似ていない。私が渇望しても絶対に手に入れられないものを持っている朝葉ちゃんが羨ましくてたまらない。
そっと朝葉ちゃんの肩に手を触れる。
「それなら桑野先生に、現状が辛いことを相談するのはどうかな」
「桑野先生に……?」
心に黒い感情が滲んでいく。桑野先生に相談をするべきじゃない。頭ではわかっているのに止められない。
きっと桑野先生は相談しても真剣に聞いてはくれない。むしろ今以上に朝葉ちゃんが精神的に辛くなるはずだ。
「朝葉ちゃんがこんなに悩んでいるんだから、真剣に考えてくれるはずよ」
「でも……」
「先生も朝葉ちゃんの調子が悪そうだったって心配していたのよ。だからきっと、親身になってくれるはず」
朝葉ちゃんに寄り添うふりをして優しい口調で話す。
「ひとりで抱え込まないで、桑野先生に相談してみて。ね?」
私の言う通りにして去っていく朝葉ちゃんの後ろ姿を眺めながら、自分の心がさらに壊れていく気がした。
そしてその後、朝葉ちゃんはバスケ部を退部した。
雑用を押しつけられてきたことや、バスケ部の二年生と揉めたこと。
桑野先生の対応など様々なことが積み重なったことによって決断したのだと思う。
私はあくまで桑野先生に相談をしたらどうかと提案をしただけ。けれど、そのせいで朝葉ちゃんは余計に傷ついたかもしれない。
チクリと胸が痛む。けれど感情がどんどん麻痺をしていって、どうして胸が痛んだのかすらよくわからなくなっていった。
このまま私は大人になるのだろうか。
青年期失顔症は、名前の通り青年期に発症する病だ。けれど、大人になっても症状がよくならない場合も稀にあるらしい。
それが私かもしれない。だけど、そうだったとしても納得してしまう。味覚まで失って、感情もほとんど揺れない。こんな状況で改善する気がしなかった。
クラスでも雑用を押しつけられることが増えた。
用事があるので掃除当番を代わりにやってほしいとか、プリントをクラスメイトたちから回収して職員室に持ってきてほしいとか、一つひとつは大したことがなくても積み重なると、自分の意志で動いているのではなく、周りの操り人形になっているような感覚になる。
友達に相談されたときは、否定はせずに優しい声で受け答えをする。そしたら相手はだんだん心を許してくれて、いろんな話をしてくれた。
だけどどうしても、自分の境遇と比べてしまう。もしも私がこの子だったらと考えても、惨めになるだけだった。
優しさの中にほんのちょっとの意地悪を隠して、いくつか提案をする。
「その子に本音を伝えてみるのもいいんじゃないかな」
本音を言ったところで余計に悪化するかもしれないと想像がついても、相手を安心させるように話した。
そうやって善人ぶって自分の黒い感情を隠して過ごしていると、同じクラスの土井さんに声をかけられた。
「常磐さん、それ……私も手伝うよ」
私が運んでいたノートを半分以上土井さんが持っていく。
「大丈夫だよ」
「わ、私暇だから!」
土井さんとは目が合わず、ちょっとだけ恥ずかしそうにしながら話している。緊張しているように見えて、不思議だった。
土井さんは物静かで、クラスの女子四人といつも一緒に行動している。席が離れているので、今まで話したことがほとんどなかった。
「……いつもありがとう」
「え?」
「常磐さん、プリントとか集めたり、行事ごとではクラスのまとめ役やってくれたり、大変だよね」
驚いて立ち止まると、土井さんも足を止める。一瞬目が合ったけれど、すぐに逸らされてしまった。
「あ、ごめんね! 余計なこと言ったかも……ただ常磐さんみんなのために色々してくれてるから、少しでも手伝えたらって思って」
面と向かってお礼を言われることはなかなかなかった。
星藍だから大丈夫でしょう。そう言われることがほとんどだったのだ。
「ありがとう」
気づいてくれて、私を見てくれていて。
私がお礼を言った意味がわからないのか、土井さんは狼狽えている。
彼女のおかげで、ほんの少し報われた気がした。
それから少しして、土井さんは仲良くしていたグループから外されていた。
同じグループではないので原因はよくわからない。少し噂で聞いたのは、ひとりの子が彼氏と同じ大学を目指していて、それに対して土井さんが言ったことで揉めているらしい。
三人の女子たちは集まってコソコソとなにかを言って、時折土井さんを見ている。土井さんはひとり俯いたまま自分の席に座っていた。
あんなふうに明らかに外されていたら、誰も近づけない。嫌な空気だった。
見ていて不快なものの、最初は口出しをする気はなかった。けれど、いつもありがとうと伝えてくれた土井さんのことを思い返すと、自然と体が動いた。
「一緒にお昼食べない?」
声をかけると、土井さんはぽかんとした表情で私を見つめる。周囲の人たちの視線が一気に集まるのを感じて、私は中庭で食べようと誘った。
揉めたことについて土井さんが話したければ話すだろうと思って、あえて触れずにたわいのない話をしてお昼を過ごした。
そんな日々が続くと、ふたりでお昼を過ごすのが定番となっていく。
彼女は私を利用しようとしないので、一緒にいると気が楽だった。
高校三年の一月、自由登校に切り替わったものの私は毎日登校していた。家にいると祖母の干渉があるため、学校にいた方が気は楽だったからだ。
放課後に土井さんと少しお喋りをしたあと教室を出ようとすると、担任の先生に呼びとめられた。
「常磐、卒業生代表をお願いできないか」
私には荷が重い。隣にいる土井さんだって、成績優秀のはずだ。横目で彼女を見ると、「すごいね!」と目を輝かせている。
「常磐以外に頼める人がいないんだよ」
断れる空気ではなく、私は作り笑顔を浮かべて「わかりました」と引き受けるしかなかった。
こんな高校生活ももうすぐ終わる。あと少し、あと少しだけ耐えないと。
廊下を歩いていると、二年生の男女を見かけた。元バスケ部の間宮朝葉ちゃんと、派手な金髪の朝比奈聖くん。
朝葉ちゃんは私と同じ青年期失顔症にかかっていたけれど、きっと今では症状もよくなってきているのだろう。以前よりも明るくなっているように見える。
楽しげに話しているふたりを遠くから眺めていると、側にいてくれる人がいる朝葉ちゃんが羨ましく思えてくる。
もしもあのとき、一条くんに素直になれていたら……。もしもなんて日はくるはずがないのに、また過去に縋ってしまう。
「教室に忘れ物しちゃった。ごめんね、土井さん。先に帰っていて」
ひとりになりたくて、忘れ物をしたと嘘をついて土井さんと別れた。
廊下の壁に寄りかかり、カバンに入れていたペットボトルのレモンティーを取り出して飲む。相変わらず、味はわからなかった。
ひょっとしたらなにかの拍子に味覚が戻るのではないかと期待して飲むけれど、毎回落胆する。
ゆっくり廊下を歩いて、昇降口へ向かう。少し時間をズラしたからか、生徒たちの姿はほとんどなかった。
外に出ると、冷たい冬の外気が肌を刺す。白いマフラーに口元を埋めて、身震いした。
早く色々なことから解放されて楽になりたい。だけど、大学に入ってもまた同じことの繰り返しになるのではないかと思うと、未来になんの希望も持てなかった。
『なんでも引き受けるのって、俺は優しさじゃないと思います』
いつだったか一条くんに言われた。押しつけてもいいという空気にさせてしまった私にも問題があるのだろう。
校門の近くに誰かが立っているのが見える。金色の髪が陽の光を浴びてキラキラと光っている。
一瞬朝比奈くんかと思ったけれど制服が違う。金髪の男の子は振り返ると、私を見て嬉しそうに笑った。その人懐っこい笑みは懐かしくて、心臓が鷲掴みにされるような感覚になる。
「なんで……」
私のことなんて、とっくに忘れていると思っていた。それなのにどうして彼がここにいるのだろう。
「いつかまた会うときがあれば、連絡先を教えてくれるって言ってましたよね」
寒い中ずっと待っていたのか、頬も鼻の頭も真っ赤に染まっている。
戸惑っていると、一条くんは「星藍先輩」と優しい声音で私の名前を呼ぶ。
「偶然を待つのはやめました。高校卒業したら、今よりももっと会いづらくなると思うんで」
心臓が今まで止まっていたかのように、どくどくと脈を打って大きく動き始める。目の奥が熱くなって、唇を噛んでいないと閉じ込めた想いが溢れ出てきてしまいそうだった。
「これ貰ってくれませんか」
一条くんが私に花飾りを差し出す。それは中学のものだった。紫色のライラックの造花に、白いリボンには一条拓馬と書いてある。
花飾りを交換すると恋が叶う。そのジンクスを一条くんは知っていて、私に渡そうとしているのだろうか。
受け取れずにいると、一条くんが「これで最後にします」と言った。
「会いたくなったら連絡をください」
「え……?」
花飾りを私の手に持たせると、一条くんがにこりと微笑む。彼の手はすごく冷たかった。
「それじゃあ、さよなら」
そう言って、一条くんは去っていく。
〝さよなら〟。以前私が卒業式のときに彼に告げた言葉だった。自分が言われるとこんなにも辛くて胸が締め付けられるなんて知らなかった。
……ずっと会いたかった。会いにきてくれて嬉しかった。
けれど、追いかけることもできない。今一条くんを追いかけても、なにを伝えたらいいのか、私自身がどうしたいのかもわからなかった。
彼からもらった花飾りを見ると、名前が印字されている白いリボンになにかが滲んでいる。
裏側を見ると、IDが書いてあった。きっと一条くんの連絡先だ。
連絡なんてできるはずがない。私は他人の話を聞いて、優しくするふりをしながら、苦しむような選択肢を提案したこともあった。いつも心の中は汚い感情でぐちゃぐちゃだった。
こんな最低な自分を一条くんに知られたくなかった。
ずっと会いたかった人に会えたのに。私は、どうしてこうなってしまったのだろう。
花飾りはカバンの中に入れずに、ブレザーのポケットの中に仕舞った。カバンでは祖母が見る可能性があるからだ。
翌日も頭の中は一条くんのことでいっぱいだった。
連絡をしたいけれど、できない。
花飾りが気になって、一日に何度もブレザーのポケットに手を入れてしまう。久しぶりに話した一条くんは以前と変わらない声と笑顔だった。
でも少しだけ大人っぽく見えたのは、髪色が変わったからだろうか。
私たちが関わった日々なんてほんの僅かだ。その短い日々を思い出補正で美化しているだけかもしれない。
「トリュフどうだった?」
土井さんは私の目の前の席に座ると、期待の眼差しを私に向けてくる。
彼女は好きな人にバレンタインチョコをあげるために、練習として昨日作ったトリュフを私にくれた。
彼女に協力がしたいけれど、私には味がわからない。だから、最低な嘘をつく。
「すごく美味しかった」
「本当? 本番も成功するといいな」
「大丈夫だよ。絶対喜んでくれると思うよ」
食べたふりをしてごめんねと内心謝りながら、土井さんの好きな人の話を聞く。メッセージのやり取りについて話す彼女からは、幸せオーラが溢れていて本気で好きなのだなと伝わってくる。
「告白はする予定なんだよね?」
私の質問に土井さんが照れくさそうに頷く。
「このまま動かなかったら、なにも変わらないから……」
「すごいね」
自分から行動ができる土井さんが羨ましくて、そして立ち止まってばかりの自分が情けない。
「常磐さんは? 好きな人がいたら自分から動く?」
「私は……あんまり自分から動けないかな」
「えー! 常磐さんから積極的に来られたら、絶対相手は嬉しいのに!」
「そんなことないよ」
土井さんは私に対して、相当いいイメージを抱いているらしく苦笑する。
「だって、常磐さんってモテるでしょ? 告白されてるの見たことあるよ」
「けど、すぐに別の子と付き合う人も多かったから、私に対してそこまでの気持ちはなかったと思うよ」
今まで何度か告白をされてきたけれど、そういう人たちは気持ちが移り変わるのが早い。
「うーん、そのときは本当に常磐さんのことが好きで告白したんだと思うよ。でも気持ちって変化していくものだから、すぐに切り替えられる人もいるってだけじゃないかな」
私はたぶんどこかで変わらない感情を探していたのかもしれない。
そんなものあるはずがないのに。自分がどれだけ傲慢だったのか今になって思い知らされる。
「その人のことが好きでも、気持ちが薄れることもあるしなぁ」
土井さんの言葉に、私は目を丸くした。
片想いの相手のことをすごく好きに見える彼女でも、気持ちが揺らぐこともあるのかと驚く。
「でも会うとまた好きになるっていうか……そういう気持ちの波ってどんな関係に対してもつきものなんじゃないかな」
会うとまた好きになる。私もそうだったのかもしれない。
一条くんに会えない間は思い出に縋って生きていた。
けれど、あの日々は思い出補正されただけで、今会っても気持ちは冷めているのではないかと思うこともあった。だけど、昨日会ってから再び恋に落ちたように彼のことが頭から離れない。
「うわー、なんか恥ずかしいこと言ったかも!」
土井さんは手をパタパタとさせて赤くなった頬を扇いでいる。スマホを見ると、土井さんは慌てて立ち上がった。
「今日用事があるんだった! 先に帰るね!」
「うん。また明日ね」
カバンの持ち手を肩にかけて、急いで土井さんが教室を出ていく。
開いている窓から、白い花びらがひらひらと舞っているのが見える。窓から外を覗くと、花壇の近くに植えられている梅の花が咲いていた。
私はブレザーのポケットから花飾りを取り出すと、リボンに書かれたIDを指先でなぞる。相変わらず一条くんの字はちょっと下手くそで右に上がる癖があった。
変わるものもあれば、変わらないものもある。
それはきっと私も同じだ。一条くんは時が経っても私を想ってくれているのか、そればかりを考えていた。肝心なのは、私がどう思っていて、どうしたいかだ。
「常磐、ちょっといいか」
いつの間にか教室の中には桑野先生がいた。三年生を受け持っていない桑野先生がどうしてここにいるのだろう。
「……なにかありましたか?」
できるだけ笑みを作る。桑野先生のことなので、おそらくバスケ部に関することだ。けれど、もう引退したのであまり私は干渉したくない。
「また二年と一年が揉めているんだ。金守あたりに間に入ってもらいたいんだが、なかなか上手くいかなくてな」
「杏里ちゃんを副部長にしたんですよね」
「ああ、金守は少し抜けているところがあるからな。部長より、副部長として周りのメンタルケアをしてもらった方がいいと思ったんだ」
桑野先生は杏里ちゃんに私や朝葉ちゃんのような役割を求めているのだろう。けれど、適材適所というものがある。
杏里ちゃんはプレッシャーに弱く、人をまとめるのが苦手な子だ。だから彼女はなるべく役職に就かせない方がいい。伸び伸びとしている方が、彼女は周りの空気をよくする。
「なるべく杏里ちゃんのことは叱らないでください。叱ると萎縮して、プレイにも影響が出てしまいます」
「たしかに金守は叱られたことを引きずるタイプだな」
今までいい顔をするだけで、私は後輩たちになにもしてあげなかった。彼女たちが辛い思いをしているのを傍観していた。今更かもしれないけれど、最後に少しでも彼女たちを守ってあげたくなった。
「部長の若菜ちゃんは頼られるとやる気を出す子です。なので、メニューなどの相談は彼女にしてください。ただ、同時進行で色々するのが苦手なので注意してください」
若菜ちゃんはストイックな子だ。だからこそ期待されれば努力をするし、実力もあるので結果も出すはず。
けれど、彼女に部長を任せたという点は、バスケ部の不仲を加速させる原因になってしまう。
一年生と一番仲が悪いのは彼女なのだ。若菜ちゃんが部内で部長という一番大きな力を持てば、反発する一年生も多いだろう。
役職を与えないと周りに当たりそうなので、若菜ちゃんは副部長がよかったのではないかと思う。
「人間関係のことは薫ちゃんと麻衣ちゃんのふたりに相談してください。あの子たちは二年生の中でも面倒見がいいです」
薫ちゃんと麻衣ちゃんは、仲がいいのでそのふたりに任せた方が、なにかあってもひとりで抱え込むことは少ないはず。揉めごとを最小限にするのなら、部長はこのふたりのどちらかがよかっただろう。
部員たちについて私が意見を述べていくと、桑野先生は「やっぱり常磐に後輩たちのことは任せた方がいいな」と呟く。
「今のアドバイスを常磐から後輩たちにしてくれないか」
桑野先生は自分が言うよりも、私が言った方が彼女たちは素直に受け入れると思っているようだ。それは間違っていないかもしれない。
けれど、私はもう引退した身だ。
「私が口を出すと、逆に空気が悪くなりませんか。少なからず不満を抱く子はいると思います」
やんわりと断ると桑野先生は眉を吊り上げる。
「常磐なら上手く言えるだろう。それとも引退したら、もうバスケ部のことなんて関係ないと思っているのか?」
桑野先生の表情が険しくなる。その姿が祖母と重なった。
「あいつらの気持ちは常磐が一番わかるだろう。お前も一年の頃は苦労したんだから」
どんどん桑野先生が不機嫌になっていくのがわかる。怒られるくらいなら、謝って従うのが一番いいかもしれない。
「す……」
すみませんと言おうとして、一条くんが頭に浮かぶ。
——もっと自分を大切にしてください。
昔言われたときは、自分を大切にするってピンとこなかった。けれど、今はどうするべきかわかる気がする。
このままではいけない。自分の心を一番刺し続けているのは、私だ。
「……バスケ部のことは、部員と顧問の桑野先生でなんとかしてください。私はもう部員たちの問題に介入できません」
桑野先生が目を見開く。
「常磐、お前どうしたんだ?」
引き受けると思っていたのか、桑野先生は戸惑っているようだった。
「いつもなら後輩たちのために色々してくれていたじゃないか」
「私が望んでやっていたと思うんですか?」
「嫌だったなら、もっと早くに言えばよかったじゃないか」
桑野先生の言う通りだとも思う。もっと早くに意見を言えていたら、よかったのかもしれない。
「それ、昨日の金髪のやつにもらっていたものだよな」
私が手に持っている花飾りに桑野先生は視線を向ける。
「どうして桑野先生がそんなこと……」
「たまたま窓から見えたんだ」
手のひらで花飾りを隠すようにしながら、私は「中学の後輩です」と答えた。たとえ偶然目撃したとはいえ、顧問の先生にプライベートなことまで触れられたくない。
「そいつが原因か」
「……なんのことですか?」
「ああいう素行が悪いやつと関わると碌なことにならない。影響を受けているんじゃないのか」
決めつけるように言われて、顔が強張る。一条くんのことを悪く言われて、表情を繕うこともできず、私は桑野先生を睨みつけた。
「違います! 素行が悪いって、彼のなにを知っているんですか? 見た目だけで決めつけて話さないでください」
「常磐、お前のことを思って言っているんだぞ」
「先生に私のプライベートは関係ないですよね」
桑野先生は諦めたような表情で「悪かった」と言って教室を出て行く。
恋に溺れて周りが見えていないと思われたのかもしれない。他人から見た今の私は愚かなのだろう。
だけど、恋というよりも執着に近いこの感情を、手放すことができない。
校庭から賑やかな笑い声が聞こえてきて、再び窓の方を見た。部活中の生徒たちがはしゃいでいる。
バスケではなく別の部に入っていたら、もう少し肩の力を抜いて学校生活を送れていたのだろうか。
花飾りのリボンを指先でなぞる。まだ決心がつかない。今の私を知った一条くんに幻滅されることが怖かった。
風が吹き、髪が顔にかかる。手で髪を押さえようとすると、花飾りが指をすり抜けて落ちていく。
「あ……」
花飾りは窓の下のひさしのような場所に落ちた。三階と二階の間にあり、手を伸ばしても取れるような距離ではない。
慌てて掃除箱からほうきを取り出す。ほうきを使って、ひさしの上から花飾りを落とそうするけれど、ぎりぎり届かなかった。
諦めた方がいいか迷ったものの、一条くんの顔が浮かぶ。
一条くんがわざわざ学校に来てまで渡しにきてくれたのに。
それに花飾りのリボンには連絡先も書かれている。ここで諦めたら完全に繋がりが切れてしまう。
もう一度ほうきを伸ばして花飾りを落とそうと試してみる。
『会いたくなったら連絡をください』
一条くん、私ずっと会いたかった。意地を張って、色々な理由をつけてごめんね。会いに来てくれてありがとう。ちゃんと私の口から伝えたい。
手からほうきが滑り落ちて地面に転がった。
窓の下を見ながら、手に汗を握る。怖いけれど、あの方法しかない。
私は窓の枠に足をかける。慎重に窓から降りて、ひさしの上に立った。
身をかがめて花飾りを手に取ると、ほっと胸を撫で下ろす。
ここから窓によじのぼるは大変だなと思っていると、強風に髪が煽られる。
ほんの少し左にずれると足が宙を切る。しまったと思ったときにはもう遅かった。
「え……」
バランスを崩し、体が宙に浮いた。浮遊感にぞわりとして、涙が浮かぶ。
せっかく拾った花飾りが再び手から離れていく。
このまま落ちたら、私どうなってしまうのだろう。この高さから落ちたら最悪死ぬかもしれない。
消えてしまいたいと思ったことは今まで何度かあったけれど……死にたくない。私、まだやりたいことがたくさんある。
視界に入った空は、目が痛くなるほど青かった。
もしも今日が私の命日だとしたら、もっと自由に生きればよかった。
いい子でいたい。そうじゃないと、誰にも好かれないから。
いい子でいたくない。だって、都合よく扱われるから。
矛盾した気持ちをずっと抱えていた。
涙がぽろりと、流れ落ちる。
私、本当はずっと……泣きたかった。
目が覚めると、病院のベッドの上にいた。
どうやら私はあのまま落下して、数日意識不明だったらしい。
幸い花壇がクッションとなり大きな怪我はしなかったけれど、脚に擦り傷と軽い打(だ)撲(ぼく)が残っていた。病院の先生曰く、運がよかったようだ。
運なんて、今で見放されていると思っていた。
それなのにこんなところで救われるなんて。
私が目覚めたと知った祖母と父は、病院へやってきた。ふたりとも表情から安堵というよりも怒りや呆れの方が強いように見える。
「いろんな人に迷惑かけているのよ! わかってる?」
迷惑をかけたのは事実なので、「ごめんなさい」と謝罪する。けれど祖母の苛立ちはおさまらない。個室とはいえ、この声量だと廊下まで聞こえそうだ。
「窓から落ちるなんて、なにをしたらそんなことになるの!」
「声を荒げるなって。病院の人に聞かれるだろ」
「自殺じゃないかなんて変な噂まで立ってるのよ!」
この人たちは、私が自殺をするはずがないと思っている。実際事故だったけれど、それでも過去に死にたいと思ったことは何度もあった。
そのことを話したら、ふたりはどんな表情をするのだろう。言ったところで、なに不自由ない暮らしをしているのにと叱られそうだけれど。
こんなときにでも心配よりも世間体などを気にしている祖母たちに虚しくなる。
もしも私が青年期失顔症で味覚も失っていると知られたら、カウンセリングに行かされそうだ。だけどこの人たちに打ち明けることは絶対ない。
家族だからと言ってなんでも話せるわけではない。言えばそんな病気を発症したなんてと非難してくるのが想像ついた。
——この人たちには私の心は見せない。
だから、反省したように悲しげな表情を見せて「ごめんなさい」と言う。
そのあとも祖母には色々とお説教をされたけれど、二十分くらいでふたりは帰っていった。
体を打ったせいで全身が筋肉痛のように痛い。
念のため検査が必要なので、入院生活が続くと先ほど父が言っていた。
大学の推薦が決まったあとでよかった。高校も自由登校なので、少し休んだところで問題はなさそうだ。
花飾りはどうなったのだろうと思ったけれど、病室には見当たらない。けれど、もしも祖母が見つけていたら先ほどなにか言われたはずだ。ひょっとしたら花壇の近くに落としたままかもしれない。今頃風に吹かれてどこかにいってしまっただろうか。一条くんとの最後の繋がりが切れてしまった。
彼の制服はどこの高校だったかと記憶を掘り起こす。見覚えはあるものの、どこの高校かまではわからない。
ベッドの横にある小さなテーブルにスマホと充電器が置いてあった。帰り際に父が置いていっていった私のスマホだ。入院生活は退屈だろうからと、父なりに気を遣ってくれたらしい。
数日充電をしていなかったので、電源が落ちている。充電をして数分置いてから、電源を入れると一気に通知が届く。
同級生たちから心配するメッセージが届いていた。その中に土井さんからのものもあった。
私のことを心配するメッセージと、チョコレートとか色々と押しつけてしまっていてごめんと書いてある。もしかして私が土井さんの手作りトリュフを食べていないことに気づいてしまったのだろうか。
そしてもう一通、土井さんから届いていた。
【自分の話ばかりしてごめん。いつも話を聞いてくれてありがとう。いつでも話を聞くから、私でよければ頼って】
そのメッセージを読んで、胸が痛くなる。
今まで色々な人の話を聞いてきたけれど、頼ってと友達に言ってもらえることはなかった。
……次会ったときにちゃんと謝らなくちゃ。
偶然二年生の朝比奈くんに知られてしまったことはあったけれど、味覚を失っていることを、自分から誰かに話したことはない。
土井さんは私が青年期失顔症を患って味覚も失ったと知ったら幻滅しないだろうか。
そのことが不安だけれど、スマホ画面に表示された文字を見つめる。
土井さんだったら、私の話を否定せずに聞いてくれるかもしれない。
翌日、雨村先生がお見舞いに来てくれた。付き添いとして朝比奈くんと朝葉ちゃんの姿もあった。
「体調はどう?」
「少し痛いですけど、大丈夫です」
にこやかに微笑むと、雨村先生は安堵したように表情を緩める。
雨村先生の後ろにいる朝比奈くんを見やると、あるものを持っていて私は目を見開いた。
「それ……」
「花壇の近くに落ちていたみたいです」
一条くんからもらった花飾りを手渡される。白いリボンは少し土で汚れていた。もう二度と戻ってくることはないと思っていた。
花飾りを両手で包み込むようにして、胸元に持っていく。
「大事なものだったの。だから、ありがとう」
笑いかけると、朝比奈くんと朝葉ちゃんは少し驚いたように目を丸くしていた。
「朝葉ちゃん、ごめんね」
「え?」
「部活のこと桑野先生に相談したら、朝葉ちゃんが苦しむってわかっていて傍観してた」
謝罪したところで許されないかもしれない。それでも彼女にはちゃんと謝らないといけない。
「常磐先輩のこと恨んでないです。それに私もごめんなさい。バスケ部にいたとき、常磐先輩の優しさに甘えて寄りかかっていました」
私も朝葉ちゃんも誰かに頼み事や雑用を押しつけられて、苦しくなっていたのは似ている。けれど、朝葉ちゃんは私と違って、違う未来の選択をした。
そんな彼女が眩しくてカッコよく見えて、羨ましかった。
雨村先生たちが帰ったあと、私は花飾りに書かれているIDを入力していく。一条拓馬と書かれたアイコンを友達追加した。
祖母に勝手に見られないようにスマホのパスワードを変更しておいた。
あの家を出るまでは、突然スマホを見せろと言われる可能性もあるので、念の為一条くんとのやり取りを見られないように毎回消しておけば、気づかれないはずだ。
一条くんのアイコンをタップして、電話をかける。まずはメッセージを送るべきかもしれないけれど、彼の声が聞きたかった。
五コール目で【もしもし!】と大きな声がスマホ越しに聞こえてくる。
【……星藍先輩?】
「遅くなってごめんね」
【大丈夫です! 電話、ありがとうございます】
物が落ちるような音がする。相当慌てているみたいで、思わず笑ってしまう。
「一条くんが会いに来てくれて、嬉しかった」
【迷惑じゃなかったっすか?】
「うん。……ずっと会いたかったから」
話したいこと、聞きたいことがたくさんある。
自分が今まで抱えていたことや、自分がしてしまったこと。そして、一条くんが会わない間にどんな日々を過ごしてきたのかを。
「私の話を聞いたら、一条くんは幻滅するかも」
【聞いてみないとわからないですけど】
嘘をつかず、素直に言うところが彼らしい。
【だから、これからゆっくり先輩の話を聞かせてください】
会わなかった時間を埋めるように、これからゆっくりふたりの時間を過ごしていけるだろうか。
【恋なんて一過性だとか言ってましたけど、今はどうですか】
以前私が言っていたことを一条くんが聞いてくる。
私はスマホを握りしめて、窓の外を眺める。外は粉雪がチラチラと舞っていた。
「たぶん……好き」
私が花飾りのリボンの裏側に書いた〝たぶん好き〟という素直じゃないメッセージ。
それを思い出したのか一条くんが電話越しに笑った。



