青春ゲシュタルト崩壊 Another(期間限定公開)



学校で飛び降り事件が起きた。
卒業式を約二ヶ月後に控えた一月のことだった。


「ねえ、あの話聞いた?」
「聞いた聞いた! 飛び降りのことでしょ」

先生たちがいくら情報を規制しても、生徒の間で噂はあっというまに広がり、自由登校の三年生たちの出席率が一気に上がった。

「あれって誰のことなの?」
生徒が教室の窓から落ちたというだけでも驚愕だけれど、周囲の関心を最も集めたのは飛び降りを図ったのは誰かということだ。

「それがさ、二組の常磐さんだって」

──常磐星藍。
成績優秀で品行方正。常磐さんはそこにいるだけで目を惹くほどの美しい容姿を持った人だった。

バスケ部では引退前までレギュラーで活躍し、先生たちからの信頼も厚く、穏やかで優しい性格で絵に描いたような人気者。
そんな彼女が窓から落ちたのだ。順風満帆に見える常磐さんになにがあったのか気になっている生徒も多い。
学校側は事故と言っているものの、一部の生徒たちの間では自殺ではないかと噂されて様々な憶測が飛び交っ
ていた。

飛び降りがあった三年二組は封鎖され、二組の生徒たちは他クラスの空いている席か図書室を使うようにと先生から指示があった。
私はひとまず一組で自習させてもらうことにした。九時頃になると、教室の中は騒がしくなってきた。まともに自習をしている生徒なんてほとんどおらず、みんな常磐さんの噂話をしていた。


「星藍が自殺するなんて思わなかった」
声を追うように教卓の方を見ると、女子バスケ部に所属していた五人組が集まっている。全員一組の子たちだ。

「まだ自殺って決まったわけじゃないみたいだよ」
「でも、教室の窓から落ちるってそれしかなくない?」

彼女たちの声はよく響くため、廊下側の列の真ん中あたりに座っている私にも筒抜けだった。

「もしそうなら、星藍が追い詰められるくらいの辛いことがあったってことだよね」
「えー……でもそんな素振りなかったと思うけどなぁ」

周囲の人たちの会話が少しずつ小さくなっていく。きっとみんな、彼女たちの話が気になるのだ。

三年間一緒に過ごしてきたはずのバスケ部の人たちですら知らない悩みを、常磐さんは抱えていたようだ。
けれど、教室で側にいた私も彼女の悩みに気づけなかったひとりだった。

私と常磐さんとは同じクラスで、三年の秋あたりから仲よくなった。
仲よくといっても、下の名前で呼び合うことも学校外で遊ぶこともない。お昼を一緒に過ごすような、ほどよい距離感だった。

私たちが一緒にいるようになったのは、私がグループから外されたことがきっかけだ。
友達が彼氏と同じ大学に進みたいからランクを落とすという話を聞いたとき、私は少し心配になった。けれど、面と向かって言うのは傷つけてしまう気がして本音を言えなかった。

『綾芽はさっきの話、どう思う?』

別の親しい友達に聞かれたとき、私は躊躇いながらものみ込んでいた意見を口にする。

『彼氏と別れたら進路を後悔しないか、そこは心配かな』
その彼氏と付き合ったのは一ヶ月前で、以前は別の大学を目指して頑張っているのを知っていたので気がかりだった。
気づけば本人に伝わってしまい、さらには尾鰭がついて『恋愛なんかで進路を変えるなんてくだらないと、彩芽が馬鹿にしていた』ということになっていた。

それがきっかけで同じグループの子たちを怒らせてしまい、一時期クラスでひとりになった。そんな私に声をかけてくれたのが常磐さんだった。

『一緒にお昼食べない?』

教室だと息が詰まるから気分転換に中庭で食べたいのだと常磐さんは言っていたけれど、きっと教室で居心地が悪そうにしている私のために連れ出してくれたのだと思う。

ふたりで中庭のベンチでお昼ご飯を食べながら、たわいのない話をした。
常磐さんは、私がグループから外された理由をなにも聞かない。

それが彼女の優しさで、きっと私が話したくなるまで待っていてくれたのだと思う。

それから頻繁に常磐さんがお昼を誘ってくれるようになり、彼女と過ごす時間が毎日の楽しみになっていった。
今では揉めた子に謝罪をして仲直りをしているけれど、あのときの私にとって外に連れ出してくれた常磐さんの存在が救いだった。
一年生の頃から私は彼女の凜とした佇まいに憧れていたので、中身まで綺麗だと知って、私の中の憧れはさらに強くなった。

私の言葉で笑ってくれるたびに嬉しくて、友達として隣にいられることが誇らしかった。
最近は以前より親しくなれたはずだけど、常磐さんが抱えていた悩みが思い当たらない。

常磐さんが飛び降りた日、私は彼女と少し話をしてから先に帰った。
あのとき特に違和感はなかった。むしろ機嫌がよかった気がする。私はなにかを見落としているのだろうか。


「綾芽、これ見た?」
目の前の席に座っていた虹佳が振り返って、スマホを見せてくる。

「……なにこれ」

画面には名前は伏せられているけれど、常磐さんのことだとわかるような投稿がされていた。

【うちの高校の三年生が花壇の上に倒れてたんだけど、窓から落ちたっぽい!】

その投稿にコメントがいくつかついている。【飛び降り⁉︎】というコメントに対して、【たぶんそうかも。でも花壇がクッションになって血は出てなかった!】と返していた。

「このアカウント、陸上部の子っぽいんだよね。ちょうど部活中だったから、現場を見たみたい」
「誰でも見えるところで書くなんて……」

面白がっているのが文面から伝わってきて、不快感が胸に広がる。
常磐さんの名前が書かれていないのは幸いだけれど、どこでどう広まるかわからないのでSNSに書くべきではないと思う。


「みんな噂好きだからね。特に学年違う子は、他人事っていうかさ」

常磐さんは奇跡的に一命を取り留めたものの、今も意識不明だと朝のホームルームで先生から説明を受けた。彼女がそんな状況なのに、好き勝手言うのは不謹慎だ。

「それに三年でも投稿している人見かけたよ。バスケ部の三年生が飛び降り自殺したって」
「自殺だなんて、まだ決まってないのに」
「常磐さんと自殺って結びつかないけどさ、実際どうなんだろう」

周りを見回したあと、虹佳は声を潜める。

「さっきバスケ部の人たちも自殺じゃないかって言ってたじゃん?」
虹佳とは二年の頃に同じクラスだったけれど、噂好きでなにか問題があるたびに食いついていた。今回も常磐さんの事件は彼女の好奇心をくすぐったのだろう。

「綾芽は最近仲よかったけど、なにか悩みとか聞いてた?」
私は首を横に振る。思い当たることはなにもない。

「部活を引退して、大学も決まったし、ようやく色々なものから解放されたねってこの間話していたばかりで……」
「常磐さんって大学決まったあとも登校してたの?」
「うん。平日は家にいるより、学校に来た方が落ち着くって」

私も常磐さんと同じ気持ちだった。家にいるとだらけてしまうし、学校に来て友達と過ごしている方が楽しい。

「真面目だなぁ」
「でもそこが常磐さんのいいところだと思う」
「綾芽って相変わらず常磐さん推しだよね〜」
推しという感覚はよくわからないけれど、私にとって常磐さんは一年生の頃から憧れの人なのだ。

「常磐さんってさ、彼氏とかいたのかな。男関係で悩んでいたんじゃないかとか、そういう噂もあるみたいだよ。綾芽はなにか知ってる?」
忘れられない人がいるという話は聞いたことがある。だけど、相手が誰なのかは知らないし、それを虹佳に話すわけにはいかない。

「……どうだろう。そこまではわからないや」
虹佳は「そっかぁ」と残念そうにする。周囲の席の人たちがこちらに耳を傾けているような気がして、背筋が凍るような感覚になった。

私が下手なことを言えば、それを聞いた人が誰かに話したり、SNSに書いたりするかもしれない。現に今だって学校内で噂話が広まっているのだ。常磐さんのためにも発言に気をつけないといけない。

「トイレに行ってくるね」

そう言って私は席を立った。廊下に出ると、お喋りをしている生徒たちから「常磐さん」という名前が聞こえてくる。
どこにいっても彼女の話題で持ちきりだ。
逃げるようにピロティの方面へ向かうと、人がいないことに安堵した。

柱の影に隠れるように座り、スマホを取り出す。

【借りていた本、明日持っていくね!】
昨晩私が送ったメッセージには既読がつかないままだった。

常磐さんは幸い大きな怪我はないと聞いたけれど、意識が戻っていないことが心配だ。
もしもこのまま目が覚めなかったらどうしよう。そんな悪い想像をしてしまい、急いでメッセージアプリを閉じる。

──綾芽は最近仲よかったけど、なにか悩みとか聞いてた?

『本当は卒業生代表なんてなりたくなかったんだ』

ふと常磐さんの言葉が頭を過る。飛び降り事件が起きた日の昼休みのことだった。

たしかあのときは、私が『卒業生代表に選ばれるなんてすごいね』と言ったら、そう返ってきたのだ。
予想外の返答に驚いた私は咄嗟に『どうして?』と聞き返してしまった。

『私よりも成績優秀な人もいるし、本当は人前に立つのも少し苦手なの』
『常磐さん以上に相応しい人なんていないよ! 成績優秀なだけじゃなくて、周りからいつも頼られているし!』

興奮気味に返す私に、常磐さんは困ったように微笑んだ。

『……私は土井さんが思っているようないい人じゃないよ』
『常磐さんが選ばれたこと、みんな納得だと思うよ!』

嘘偽りのない言葉だった。
先生からも信頼が厚く、友達からも頼られている人格者。

生まれつき薄茶色の髪は艶やかで傷みもなく、目鼻立ちはハッキリとしていて、雰囲気は柔らかい。
私には常磐さんがキラキラと輝いて見える。

『卒業生代表、本当は辞退しようかなって思ってるんだ』
彼女らしい控えめな発言に、私は力強く首を横に振った。

『ひとりしか選ばれないのに、辞退するなんてもったいないよ!』
きっと誰かに心無い言葉を浴びせられたのかもしれない。完璧すぎる彼女だからこそ、嫉妬されることだって多いはずだ。

『誰かになにか言われたの?』
一瞬、常磐さんの表情が固まる。やっぱりそうに違いない。

『私は常磐さんの味方だよ! だから、せっかく掴んだチャンスを逃したりしないで。ね?』
常磐さんは少し眉を下げて頷いた。

彼女は優しすぎるところがあるから、周りの些細な言葉にも心が揺れるのかもしれない。けれど、私の励ましによって心を持ち直してくれたことが嬉しくて口角が上がった。

このとき、私は常磐さんの気持ちにもっと寄り添うべきだったのかもしれない。今思うと、常磐さんの表情はほんの少し陰があった。
どうしてもっと深く聞かなかったのだろう。

だけど、常磐さんが卒業生代表になりたくないからといって自殺するようには思えない。

なにかあるとしたら……と考えてバスケ部の子たちが思い浮かぶ。
バスケ部が関係しているというのはないだろうか。

彼女たちのよくない噂を聞いたことがある。
バスケ部の三年生は仲がいいけれど、後輩たちと不仲で度々揉め事を起こしていたらしい。それで辞めてしまった後輩も何名かいるそうだ。

困っている人を放っておけない常磐さんのことだから、そういう状況の中にいるのは、相当辛かったはずだ。
バスケ部の子たちに思い当たることがないか聞いてみたいけれど、さすがに突然声をかけるのは勇気がいる。それに誰が常磐さんと親しいのだろう。二組には他にバスケ部の子がいないので、交友関係が私にはわからない。

ふと教室にいたバスケ部五人組を思い出す。あの中にいた草鹿さんなら、元部長なので部内のことには詳しいはずだ。


それに草鹿さんとは一年の頃に同じクラスで、何度か話したことがある。ちょっと気が強いけれど、基本的には誰に対しても気さくな人だ。彼女なら私の質問にも答えてくれるかもしれない。

教室に戻った後、私は横目でバスケ部の子たちの様子をうかがう。

お昼が過ぎても五人はずっと一緒だった。なかなかタイミングが掴めず、諦めかけていると、草鹿さんがグループから離れて教室を出ていった。

私は慌てて席を立ち、彼女の後を追う。
女子トイレに消えていったのを見て、不審に思われないように歩く速度を調整しながら私も女子トイレに入っていく。
鏡の前でポーチを開けている草鹿さんの姿を見つけて、思わず足を止める。私は隣の鏡の前に立ち、前髪を整えにきたふりをする。

ここからどう話かけて、常磐さんの話題に持っていこうかと悩んでいると、草鹿さんが先に口を開いた。


「土井さんさー、星藍と仲よかったよね」
「え……あ、うん」
「なんか悩んでたとか、思い当たることある?」

草鹿さんから聞かれるとは思っていなかったので目を見開いて、彼女を凝視する。リップを塗っていた草鹿さんは、鏡越しに私を見て苦笑した。

「私らクラスが違うからさ、部活以外のことはわからないんだよね」
「クラスでは特になにも問題はなかったよ」

自由登校なので関わるクラスメイトもほんの一部で、私が知る限り揉め事はなかったはず。

「……バスケ部では、特になにもなかった?」
「うーん。部活引退してから、前ほど関わりはなかったんだよね。個別で連絡取ることもなかったし。他の子もそうだったみたい」

それならバスケ部絡みで思い悩んでいたという可能性は低いのだろうか。

「部活で一緒に行動していてもさ、普段の学校生活ではグループとかって違うじゃん? だから、思い返してみるとあんまり星藍のこと知らないなって」
ポーチから櫛を取り出した草鹿さんは、鎖骨あたりまでの長さの黒髪を丁寧に梳かしていく。

「そうだったんだ。バスケ部って放課後とかも一緒にいるイメージだったから、引退したあともよく会っているのかと思ってた」
「引退前は、部活が終わったあとはみんなでいたけど、引退後は一緒に帰ったことも一度もなかったなぁ」

私が想像していたものとは違って、バスケ部が淡白な関係だったことに驚く。仲がいいからこそ、私が知らない揉め事があったのではないかと思っていた。

草鹿さんはポーチのチャックを閉めながら、「そういえば」と口を開く。

「星藍の家って厳しかったのかも」
「そうなの?」
「メイクしないの?って聞いたら、そういうのはまだ早いって親に言われてるからって話していたことがあったんだよね〜。今時珍しいよね」

常磐さんからは家の話を一切聞いたことがない。
これといって家で問題はなかったから話さないのだと思っていたけど、逆に両親からの期待を背負いながら日々プレッシャーに耐えていたのかもしれない。

「あ……それとカメラが苦手だったな」
「カメラ?」
「部活のメンバーでよく帰り道に写真とか動画撮って遊んでたんだけど、星藍は写りたがらなかったんだよね」

カメラを向けると常磐さんはサッと横にずれたり、撮る側になることが多かったらしい。

「意外と恥ずかしがりみたいなんだよね。あんなに美人でも顔にコンプレックスでもあったのかな」
〝顔〟。その単語に、あることが思い浮かんだ。
「青年期失顔症……」

私たち学生にとって身近な病だ。
自己に限定された相貌失認で、自分自身の顔が認識できなくなり、のっぺらぼうのように見えてしまう。
外傷がないため、他者から気づかれることは少ない。けれど、急に顔を気にして手で隠すことや、学校を休みがちになることが多いため周囲に勘づかれることもある。

そして特に発症しやすいのは、周りに合わせたり自分の本音を言わず、我慢してしまう人。個性を殺し、自分を見失うことが強いストレスになり発症すると言われている。

ぽつりと漏らした私の言葉が聞こえたらしい草鹿さんが目を丸くする。

「ありえない話じゃないかも」
「え……でも常磐さんは自分をしっかり持っているし、ただ顔って言葉で私が連想しただけだから」

きっと違う。常磐さんに限ってそんなはずない。優しいけれど、しっかり自分を持っている人だ。
だけど、草鹿さんは「むしろ星藍だからありえる」と言う。
優しくて話を親身になって聞いてくれる常磐さんは、部員たちからの信頼も厚く、相談を受けることも多かったそうだ。

「バスケ部の三年って後輩と揉めてたんだよね?」
「……そうだね。星藍はいつも間に挟まれてた。周りの愚痴を聞く役割っていうか……星藍ならなんでも聞いてくれるみたいな空気ができてたんだよね」

噂でも聞いていたけれど、特に二年生と仲が悪かったらしく、練習中にわざとパスをしないなど嫌がらせは日常茶飯事だったという。

「顧問が桑野なんだけどさ、高圧的に話すから怖がってる子も結構いて、そういうときに星藍が代わりに話をしにいってくれたこともよくあったんだよね」

桑野先生とは直接関わったことがないけれど、生徒に大きな声で怒鳴っているのを見たことがある。
野太い声で迫力があるため、自分が叱られているわけではないのに、私の心臓が縮み上がるほどだった。あの先生の対応を常磐さんがいつもしていたなんて、相当のストレスだったのではないだろうか。

「だからさ、今思うと星藍は誰にも自分の本音を言えなかったのかも」
「そういうものが積み重なって、常磐さんは青年期失顔症を発症したのかな。でも……」

部活でのストレスの積み重ねが青年期失顔症になったとしても、すでに引退をした後だ。この病が自殺に繋がるのだろうか。

「十二月に配信者の事件あったじゃん」
「あ……顔が見えないことがノイローゼになってマンションから飛び降りた事件だよね」

去年の十二月、青年期失顔症を発症した女子生徒が、自分の顔が見えないことに苦しみ、ノイローゼになり自殺をしたという事件。ゲーム配信をしていてネットでは有名な子だったらしく、かなり話題になっていた。

「ああいう事件もあったから、常磐さんもそうなのかなって」

もしも本当に青年期失顔症だったとしたら、引退後も症状がよくならず、誰にも相談することができないまま心が追い詰められて飛び降りたという可能性もある。

「私……なにも気づけなかった」
同じクラスで仲がよかったはずなのに。卒業生代表をやりたくないと言っていた彼女に寄り添う言葉もかけられなかった。

「私も同じだよ。三年間一緒の部活だったのに、一度も星藍の悩みを聞いたことなかった。だからといって、悩みがないわけじゃないのにね」

草鹿さんの言う通りだ。悩みを聞いたことがないからといってなにもないわけではない。いつも人に囲まれているような人気者の常磐さんにだって、辛いことはあるはずだ。

常磐さんはいつだって周りの話に耳を傾けて、励ましてくれる。
だけど、そんな彼女の話を聞いて、寄り添ってくれる人はいたのだろうか。悔しいことに、私も彼女が悩みを打ち明けてくれるような存在にはなれなかったのだ。

その日の放課後、私は以前バイトしていたベーカリー店に立ち寄った。ガラス張りのドアを開けるとパンのいい香りが鼻腔をくすぐる。

「いらっしゃいま……土井さん、こんちは!」
白いコックコートにダークブラウンのエプロンをつけている男の子が私を見て軽く手を振ってきた。
彼の髪色は昨年会ったときとはだいぶ変わっている。


「一条くん、また金髪にしたの?」
「黒髪は飽きちゃったんすよね〜」

バイトの後輩であり、高校二年生の一条くんは髪色をころころ変える。秋頃は金髪で夏は銀髪だった。
このベーカリー店は個人経営で店長が従業員の髪色は自由としている。そのため一条くん以外にも派手な髪色の人は結構いる。逆に黒髪でい続けている私は珍しいと言われるくらいだ。

「これ、新製品ですよ。おすすめです」
「また随分と季節を無視したパンを作ってるね」
三角に切られたスイカの形をしたパンと、さつまいもの形をしたパンが一月の新製品だそうだ。しかも商品説明を読むと、見た目と味が違っている。

「スイカのパンの方は苺ミルク味で、さつまいもの方はみかん味……?」
「味は美味しかったですよ」
「それなら食べてみようかな」

苺の形をしたパンと、みかんの形をしたパンにしたらいいのにと思いつつも、店長らしいなと笑ってしまう。
トレイにスイカパンとさつまいもパンをのせて、会計をしてもらう。

「土井さん、なんかありました?」

レジを打っている一条くんがちらりと私を見て、心配そうに聞いてきた。

「いつもより表情が暗い気がしたんで」
「そう、かな」
「甘いパンでも食べて元気出してください」

お財布からお金を取り出そうとする私を一条くんが手で制する。

「これは俺の奢りで」
「え……でも」
「バイトのとき土井さんにはお世話になってたんで。そのお礼です」

見た目が派手だけれど、一条くんは話すと落ち着きがあってしっかりしている。そんな彼に私もバイトのときは何度も助けてもらってきた。私も今度なにかお礼をしようと決意をして、一条くんの優しさを受け取った。

「ありがとう」
トングでパンをお皿に乗せている一条くんの表情はいつもより明るい気がする。

「一条くんはなにかいいことでもあった?」
「え、いや、まあ……」

彼らしくない歯切れの悪い返答に笑っていると、「そんな大したことじゃないですよ」と答える。

「前に話した人と再会できたんです」
そういうことかと私はにやりとする。一条くんは片想い中の人がいると以前話していた。案外奥手なのか、ずっと進展がなかったみたいだった。

「それで? 進展はあった?」
「……空いているお好きな席をご利用ください」

揶揄われるのが嫌なのか、目を細めた一条くんは私をイートインスペースへと促す。「今度聞かせてね」とだけ言って、私はパンがのったお皿を持ってカウンター席の端に座った。

好きな人と会えてあんなにも幸せそうな一条くんを見て、羨ましくなる。私は今年に入って好きな人と一度も会話を交わしていない。自由登校になってからクラスで会うことも少なくなり、今日も学校では見かけなかった。

『十四日に渡したいものがあるって、連絡してみたら?』

常磐さんの提案のおかげで、十四日に会う約束をなんとか取り付けた。けれど、会ってくれることになったとはいえ、まだ告白が成功するとは限らない。
チョコなんて小学生以来で、なにを作ればいいのかわからない。そんな私のために、常磐さんはなにを作るか一緒に考えてくれていた。

昼休みにチョコレートのレシピを見ながら、あれこれ話し合ったときのことを思い出す。あれは三学期が始まってすぐのことだった。

『ねえ、常磐さん。フォンダンショコラなんてどうかな? 温めると中からとろっとチョコレートが出てくるの』

スマホでレシピを検索して画面を見せる。常磐さんは悩ましげに顎に手を添えた。


『それも美味しそうだけど、手軽に食べられるトリュフとかもいいんじゃないかな』

常磐さんの言葉に、私はハッとした。電子レンジで温めるという手間を、わざわざ彼はしないかもしれない。
気軽に食べられるチョコレートレシピを色々見てみたけれど、常磐さんからのアドバイス通りトリュフが一番よさそうだった。
けれど、私は今までトリュフは挑戦したことがない。前日に作って失敗は避けたかったので、バレンタイン前に試作してみることにした。

いざ作ってみると、少し歪な形になってしまったけれど、味は美味しくできた。相談にのってくれた常磐さんにもプレゼントしようと思い、私は翌日トリュフを学校に持って行った。

『よかったら感想教えて』
淡い桃色の小花柄のラッピング袋に入れたトリュフを受け取ってくれた常磐さんは微笑んだ。

『ありがとう。あとで食べてみるね』

そのときはお昼ご飯を食べた直後だったので、常磐さんはすぐには食べなかった。彼女は少食で、いつも梅味のおにぎりをひとつだけしか食べない。モデルのようにスラリとした彼女の体形に憧れつつも、おにぎりふたつでも足りない私には同じ食事量は難しい。

そして放課後までに食べてくれたらしく、帰り際に常磐さんは『すごく美味しかった』と感想をくれた。

『本当? 喜んでくれるかな』
『絶対喜んでくれると思うよ』
『期待してるって言われちゃって、結構プレッシャーで……』

十四日に渡したいものがあると言った時点で、彼は勘づいたようだった。
約束を取り付けてから、以前よりもメッセージのやり取りが増えた。彼は甘党らしく、チョコを楽しみにしてくれているらしい。

『仲いいんだね。きっと上手くいくんじゃないかな』
『えー……そうかな。たぶん他の子ともこういう距離感だと思う』

彼は誰にでも気さくなので、私が特別なわけではないはずだ。だからこそ、勘違いしてはいけない。
こんなことを友達に話すと、適当にあしらわれて終わりだ。だけど常磐さんは嫌な顔をせず聞いてくれていた。

いつかもっと仲よくなれたら、下の名前で呼び合ってお互いに相談するような関係になれるかもしれない。
そんなふうに思っていた。だけど、私が帰ったあとあんなことが起こるなんて……。
SNSを開くと、フォローしている同じ高校の人が常磐さんの話をしていた。

【うちの学校の生徒が飛び降り自殺したっぽい】
その投稿には興味津々といった様子のコメントが数件ついていた。おそらくは他校の生徒たちだろう。
常磐さんの件を話のネタにされていることを不快に思いながらも、私は画面をスクロールしていく。

「あれ……」
どこの中学出身か、兄弟はいるのかなど今回の件とは関係がなさそうなことまで書いている人がいる。そんなことまでどうやって調べたのだろう。

その中のひとつの噂に私は眉を寄せる。

【飛び降りたTさんって、バスケ部の顧問と不倫してたんだって】

これは常磐先輩と桑野先生のことだ。

よくふたりで部活の後に話をしていたことなどが挙げられているけれど、部員たちが桑野先生を怖がっているので、常磐さんが代わりに話をしていたと草鹿さんが言っていた。それなのに常磐さんの善意がこんなふうに曲解して書かれていることが不快で仕方ない。下唇を噛みながら、私はSNSを閉じた。

口角を上げながら噂話をしている人たちの顔が思い浮かぶ。

だんだんと噂がひとり歩きしているような気がする。
どうしてこんなことを好き勝手書くのだろう。

私はため息を漏らし、スイカの形をしたパンをかじった。中からは、とろりと苺ミルクの甘いソースが溢れ出す。

疲れきった心に甘い味が染みて、涙が出そうになる。

友達が苦しんでいるのに、私にできることはなにもない。そのことがもどかしくてたまらなかった。