祓い人菊理の恋情奇譚


それから深い眠りにつき、外の小鳥のさえずりで目を覚ました。小窓から光が漏れ出ていて朝が来たことを報せてくれる。体感としては卯刻(五〜七時)だろう。

和泉はまだ寝ているようで寝息が聞こえる。私は彼を起こさないように静かに身支度を整える。昨日縫合してもらった傷は痛みもなく完全に塞がったようだ。

流石に声もかけずに発つのは礼儀に欠けるので、私は悪いと思いながらも、和泉の背の側に腰を下ろし声を掛けた。

「和泉、私は白山に行かねばならないので、これで失礼する」
「――待て。怪我人に登山の許可を出すほど俺は甘くはない。せめて傷口が塞がってからにしろ」

和泉は不機嫌な口調で言葉を述べながら上体を起こすと、ジロリと私を睨みつけた。昨日と違う態度に思わずたじろぐ。

「だが、村里の祓い人の仕事もあるから急がねば――」
「祓い人の仕事もする気だと……? ますます行かせることは出来ないな」
「実は傷口はもう塞がっているんだ」
「……俺を前に、詐ろうなどと馬鹿げた真似をするものだ。朝の俺は機嫌が悪い。騙ったこと、後悔するぞ」

低く敵意がある声音で言うやいなや体を起こすと、私の体を手で押され床に転がした。
呆気にとられる間もなく、和泉は無理やり私の袴の裾を捲った。私は驚きつつも和泉の顔を窺えば、傷口を見て目を見張っている。

「馬鹿な……! 体の穢れに対して治りが早すぎる……!」
「白山の霊水は私と相性が良かったみたいだ。産子の頃、両親が白山から流れる滝の水で、血を洗い流したおかげかもしれないな」

転がった状態で顔を上げて、褒められたことに対して少し得意げに答えてしまう。
和泉は口元を押さえると難しい表情で私の顔を見据えた。

「……なるほど。環境が毒である可能性があるな……」

和泉はポツリと呟いた。私が首を傾げれば、彼は後ろ手で床に手をつき、自身の乱れた着崩れを直そうともせずに、片手で頭を掻いた。そして気怠げそうに言葉を吐く。

「白山の滝に行くと言っていたな。俺も同行しよう」
「え?」
「滝のある場所は粗方把握している。一番行きやすい道も知り得ているから、一人で行くよりは随分と楽になるぞ」
「でも、そこまで世話になるわけには……」
「別にお人好しで世話をするわけではない。お前がどれほど白山に適しているのかを、直接視たいだけだ。ただの俺の興味本位だな」

和泉はそう言うと大きな欠伸をした。


それから付近の村に寄り、佐吉宛てに言伝を頼んだ後、和泉の案内のもと白山を目指した。

白山の山頂には巨大な湖があり、そこから幾つも分岐して川が流れている。その内の一つが私の村で流れている滝だ。

村里の小山を経由して流れ着いているので、今まであったことのほうが奇跡のような現象だったのかもしれない。

未刻(十三〜十五時)くらいに白山の麓に着き、歩いて四半刻(三十分)も掛からないと言われたのでそのまま赴くことにした。

道中休みながら歩いているものの、和泉は疲れた素振りを一切見せず涼しい顔で先をゆく。
登山が趣味だと言っていたのは本当らしい。

近場の滝にはよく人が訪れるようで、歩きやすいように道付けされている。
川に沿うように進んでいけば、滝の落ちる音が段々と大きくなっていく。

開けた場所に出れば、岩肌から流れ落ちる滝が現れた。腕を広げたくらいの大きさで、白く流れる様が神聖で美しい。
私は和泉に頭を下げる。

「私一人なら道聞きを挟んでいたので、時間が掛かっていた。本当に助かった。ありがとう」
「別に。俺は俺の用事で来ただけだ。礼を言われる筋合いはない」

礼を言えば、飄々とした態度でのらりくらりと交わされる。彼にとって善行とは息をするようなものなのかもしれない。

私は滝壺に近づき鞘から刀を抜くと、透明に波打つ水底に沈めた。肘下ほどの深さで、眺めていれば刀の穢れがみるみるうちに清められていく。水量もそうだが、白山から直接流れているのが良いのだろう。

これならさほど時間を置かなくても直ぐに終わるだろう。
私は満足げに頷くと立ち上がり、側に来た和泉の顔を見上げた。

「滝行もしたい。良いだろうか?」
「好きにしろ」
「すまない。帰りたくなったら先に下りてもいいからな」

私が袴の紐を解けば、和泉は呆れたように肩を竦めふっと笑うと背を向けた。不思議に思ったが、いつも一人で滝行をするので配慮を忘れていたことに気付く。
男は胸筋を開けさせても何も言われないというのに、面倒なものだ。

行衣に着替え終わると、滝に歩み寄る。まだ残暑が続いているというのに、滝つぼに足を差し入れれば水はヒヤリと冷たかった。

滝に体を晒す。和泉に指摘されて、自分の中で雑念が多いことに気付かされた。
その全てを浄化させるために祝詞を唱え、白山の神に感謝の気持ちを捧げれば、応えてくれるように、滝が雑念を洗い流し、しがらみから解放されたように体が軽くなった気がした。

滝から出ると水で重くなった髪と服を絞り出し、沈めていた刀を取り上げた。そして改めて刀に神気を流してみる。刀身に澄んだ神気が宿り、刃先の鋭さが増している。

やはり白山に来て正解だった。この刃先ならば楽に妖を祓うことが出来る。
私は未だに背を向けている和泉に大声で声をかける。

「和泉見てくれ! やはり白山の滝は素晴らしい! 神気が滞りなく刀に流れたぞ!」
「……お前は誰にでもそうなのか? 俺が振り向いても騒ぐなよ」
「喜んでは駄目なのか?」
「なるほど。要らぬ心配だったな。どうれ、視てやろう」

和泉は揶揄うように言葉を返すと、ようやく振り向いた。私は見えやすいように刀を前に差し出し掲げる。
和泉は一瞬目を見張ると、口元に笑みをたたえた。

「――確かに。お前は白山と相性が良いようだ。どんな人間にも穢れはあるものでな。例外なく、お前にも憑いていた。が、一度の禊でそれほど澄み渡るとはな」

和泉は言葉を切ると一呼吸置いてから、口を開いた。

「菊理、お前は白山の神に愛されている」

和泉は真っ直ぐな眼差しで私の目を見てそう告げた。励ましではなく、彼はただ事実を教えてくれている。

父が亡くなってから、白山の神から見放されていると思っていた心細さが、思い違いだったことが堪らなく嬉しくなり目頭が熱くなる。

「……そうか。私は見捨てられてなかったのだな……」

まだ乾ききっていない髪から滴った白山の水と、合わさるように目からこぼれ落ちた涙が頬を伝った。