祓い人菊理の恋情奇譚


「力任せに刀を振るうとは、随分と手荒い祓い人だ」

凛とした男の声が静寂を切り裂いた。すると遅かった時の流れが正常に戻り、私に襲いかかるはずの狼は首に縄を付けられたように、後ろに引っ張られ地面に音を立てて転がった。

それと同時に私の刀に掛かっている狼の首が、何かに締め付けられるように絡め取られる。
すると男の張りのある声が唱え詞を紡いだ。

「――祓い給え、清め給え、神ながら守り給え、幸え給え」

唱え終わると二匹の狼の首が同時に胴体から切り落とされた。何が起きたか目を凝らせば、微かに五色に輝く細い糸が視えた。
私は緊張が解け、腰が抜けるように地面に尻を付ける。

暗闇の中、足音が近づいてきて顔を上げた。
月光に照らされ姿を現したのは着物の衿を着崩し、胸筋をさらけ出している褐色肌の黒髪の男だった。年は二十後半くらいか。

男は印を結んでいた手を解き、薄く笑みを浮かべながら切れ長の目を細めて私を見下ろすと、自身の顎を撫で煽るような口調で話しかけた。

「よくもまあそのような、なまくら刀で妖を斬れるなどと驕り高ぶったものだな。命知らずか、はたまたただの横着か。――悪いことは言わない。祓い人に向かぬから即刻降りた方が身のためだぞ」

首を左右に振り肩を竦め、小馬鹿にしたように男は息を吐いた。私はその言葉が身に染みて、顔を伏せた。

「……返す言葉もありません。私の不徳の致すところです。危ないところを助けて頂き、心から感謝します」

言葉を絞り出し、精一杯の気持ちを伝える。感謝よりも反省の色の方が大きい。刀の状態が不十分と分かっていたにも拘らず、鷲夜の依頼を引き受けたのは紛れも無く私自身。そこに驕りがあったと指摘されるのは当然のことだ。

「ん? 刀の扱いに似合わず意外にも素直だな。申開きの一つや二つあるかと思ったが……やむを得ない事情でもあるようだな?」

男は毒気を抜かれたのか、挑戦的な物言いが砕け私の境遇に関心が向いたらしい。
私は唇を噛み締め、話すか迷う。男の言っていることは、正論でしかなく弁明するのも憚れる。
私が黙っていれば、男は可笑しそうにふっと笑った。

「真面目も行き過ぎると損をするぞ。俺が聞いてやると言っているんだ。素直に話しておけ」

男の私を見下ろす目が優しくて、強がっていた意固地がふっと緩んだ。甘えても大丈夫なのだと安心し、口を開く。

「実は――」
「いや、待て。まずは怪我の治療が先だ。体の穢れが酷い。近くに猟師の小屋があるからそこに移動するぞ」
「え?」
「立てるか?」

男は骨ばった無骨な手を差し出してきた。一瞬何の意味かと不思議に思ったが、体を起こす手助けの意と理解すると私は慌てて彼の手に掴まった。

「す、すまない」

立ち上がり直ぐに手は解いたが、久方ぶりに人の手の温かな感触に包まれて懐かしい気持ちが胸に宿った。

「それでは移動するか。俺について来い」
「は、はい。――っ!」

男の後に続こうと足を踏み出すが、先ほど狼に噛まれた箇所に痛みが走り、顔を顰める。しかし、足を庇って歩けば歩けないこともない。
我慢することを選べば、異変に気づいたのか男が振り向いた。

「脚を負傷しているのか?」
「はい。戦闘で少し無理をしました。全く歩けない訳ではないのでお気になさらず」

私が返事をすれば、男は深いため息をついた。それから背を向けてしゃがむと、後ろ手を構え顔だけを向けてきた。

「乗れ」
「え? で、ですが……」
「無理をすれば傷口が悪化する。大人しく云うことを聞いておけ」
「……ありがとうございます」

有無を言わさない物言いに、私は躊躇いながらも素直に従う。
幼い頃は父に背負われていたが、この年になって男に背負われるのは初めてのことだ。
男の首に腕を回し、体を預けると脚を掴まれ立ち上がる。大きな逞しい背中が温かく、昔を思い出してしまい照れ臭くなった。

峠道を逸れ雑木林の中に入る。周囲は暗いというのに、男は迷うことなく足を進めていて山に慣れていることが伺えた。

「……私は菊理と申します。御人の名は?」
和泉(わいずみ)だ。和泉でいい。敬語は堅苦しいからやめろ」
「それじゃあ和泉。貴方もこの峠の妖を祓いに来たのか?」
「薬草採りのついでだな。出たら祓ってやるか程度で赴いた」
「祓い人ではないのか……」

軽い口調で答えられて、私は腑に落ちない気がしたが本人がそう言うならそうなのだろう。
小屋に入ると私は上がり框に腰を下ろされ、和泉は火打石で囲炉裏に火をつけた。そして和泉は私の所に戻ってくると腰を下ろした。

「傷を見せてみろ」

私は袴の裾を持ち上げる。噛まれたのは脛で、視るからに咬傷は穢れを纏っていた。
和泉は脚を手に取り状態を観察した後、腰に下げていた小ぶりの瓢箪を取り出すと栓を開けた。

「土間に足を下ろせ」
「それは?」
「白山の霊水だ。この地域の者には相性が良いから重宝している」

言われた通りに土間に足を下ろせば、和泉は霊水を傷口に流した。穢れが瞬く間に浄められ、私は感嘆の声を上げる。

「凄いな。白山の山頂まで行くのは並大抵のことではないのに、私のために貴重なものを頂いてしまい、すまない」
「山登りが趣味でな。なくなればまた汲みに行くだけの話だ。気にするな」

闊達な口調で言葉を返され、私は和泉の人となりが分かってきたような気がした。
この人は良い人だ。見ず知らずの私のために、戒めの言葉を掛け、身を案じるだけではなく負い目を感じさせないように配慮してくれている。

父を亡くしてから人情とは一生無縁だと思っていたが、人との巡り合わせは不意に訪れるものだ。
和泉は瓢箪を腰に下げ直すと「さて」と話を切り替える。

「ここからは自身との戦いだ。俺は今から傷を糸術で縫合する。痛みが嫌であれば止めるがどうする?」

重みのある声音が冗談でないことを伝えてくれている。
勿論、白山の滝にも行かねばならないので断る理由がない。私は覚悟を決めて頭を下げた。

「よろしく頼む」
「後戻りは出来ぬぞ」

和泉が口の端をつり上げ意地の悪い笑みを浮かべたが、私は迷うことなく頷いた。

和泉は私の返事を受けると、一転して真摯な表情で私の傷口に視線を注ぎ、片手で印を結んだ。
傷口を見れば五色に微かに光る糸が視えた途端、皮膚が引っ張られるような感覚があり、痛みに奥歯を噛みしめる。

和泉が印を解いたので縫合は終わったようだが、無理に動かせば傷口が開いてしまうような緊張感がある。

「……完全には塞がらないのだな」
「わざとそうしている。糸術で縫合するのはあくまで補助だ。大事なのは人の治癒力であるから、安静にしとくんだな」

和泉は立ち上がると上がり框を越えて囲炉裏の近くに腰を下ろした。私は裾を正してから彼に向き合った。