祓い人菊理の恋情奇譚


東の峠にはおおよそ申三つの刻(十六時頃)に着いた。暦は葉月に入ったばかりなので日はまだ明るい。

妖の行動時刻に決まりはないが、だいたい夕刻以降が出やすいとは謂れている。
取り敢えず、佐吉と近くの村を訪れ話を聞き終えてから峠に戻り、野宿で一夜を明かすこととなった。

暗くなると足元も見えづらくなるのもそうだが、刀の状態が万全ではないので、出来れば明るいうちに仕事を終わらせたい。

脇道に寄り、隣り合った大木の軒にそれぞれ背もたれかかると、私は佐吉に前もって釘を刺す。

「何があっても良いように、気だけは抜くなよ」
「……毎度毎度同じことばかり言うな。お前のせいで俺の耳はタコだらけだ」

私の小言に佐吉はうんざりした表情で、耳を小指でほじりながら返事を返した。
鬱陶しいと思っているようだが、どうにも佐吉は緊張感に欠ける。

そのせいで今まで私が何度災難に見舞われたことか。しかも、手柄だけは自分のものにしようと村人に虚言を吹聴するので図々しい。

特に会話もなく精神を集中させていれば、次第に周囲は茜色に染まり夕闇が混じって、逢魔ヶ刻を報せてくれる。

風で揺れた草木がざわめき合う。その中に不可解な音が耳につき、私は刀の柄に手を掛ける。
荒い息遣いが背後から近づいてくる――獣のようだ。

「佐吉、背後から獣が来ている。不用意に覗かず木に体をくっつけとけ」
「獣!? 熊じゃないだろうな!?」
「予想では犬だと思うが……」

佐吉の言葉に、僅かな焦燥が生まれる。熊だと穢れが祓いきれていない刀で首を切り落とせるか……。

妖に憑かれた生物の筋肉量は関係ないが、斬るものが厚ければ厚いほど神気の鋭さが重要になるのだ。

不安する気持ちとは関係なく、獣の息遣いが近づき、私たちの大木を二つの影が駆け抜けた。峠道に降り立ち、獲物を見据えるようにこちらに体を向ける。

狼二匹か――。厄介な亡骸に憑いたものだ。
ただでさえ狼というだけで素早く鋭利な武器を持っているというのに。

しかし、弱みを見せれば妖をつけ上がらせる。
狼から目を離さず刀を抜くと中段に構え、神気を流す。やはり流れが悪く鋭さが十分ではない。

この二匹の狼が番同士だとすると精神の結びつきから、同時に祓わなければならなくなる。
一振りで済むと思われた予定が狂った。
刀の穢れから一匹ならば問題はないが、二匹、それに同時となると佐吉を頼らなければならない。

「佐吉、刀は握れるな?」
「……握れはするが、俺はどちらかといえば術を主としているからな。期待はするな」
「術と刀、同時に扱えたりはしないか?」
「どちらか一方で手一杯だ! 神気が乱れる! 話しかけるな!」

佐吉が怒鳴ったので口を噤む。
神気に影響が出ても困るので、優先するべきは佐吉が集中できる状況を作ることだ。

私は狼たちの前に出て、注意を引きつけるため刀を持ち替え峰打ちで対処する。
しかし、二匹となると連携での狩りを行うからか、一匹の攻撃をいなした直後に、もう片方が襲いかかってくる。
気を抜けば負傷しかねない状況だが、同時に祓う段取りは組めた。

「菊理! 神気を流し終えたぞ!」
「そうか! なら一匹目を左に薙ぎ払う! 起き上がる前にそちらを祓ってくれ!」
「わ、分かった!」

先に襲ってくる方を地面に転がし、二匹目を私が祓う。恐らく二匹目は下半身を狙ってくるので、注意を即そちらに向ければ対応できる筈だ。

佐吉を背に、私は唸りながら頭部を低くしている二匹を見据える。そして先に動いたほうが飛びかかって来たのを視認すると、足を踏み込み胴体に打ち込んで左に薙ぎ払う。

地面に転がる音が聞こえる前に、直ぐ様二匹目に意識を向ける。二匹目は足捌きを駆使して攻撃を躱し、峰から刀身に戻し振るう。首を斬り落とし、やり切ったことに笑みを浮かべて佐吉の方を見る。

しかし、佐吉は祓うことが出来ず、刀が首に入らなかったようだ。狼は既に体勢を立て直しており唸りながら私たちを睨みつけていた。

――神気に手を抜いたな!?

私がひと睨みすれば、佐吉はバツの悪い顔を見せたが直ぐに眉を吊り上げて「お前が急かすから悪いのだぞ!」と責任転嫁してきた。そして非難は続く。

「それに、お前だって神気が不十分じゃないか! 鷲夜様であれば間を空けずに二匹同時に祓うことも出来るというのに、お前のくだらぬ拘りのせいで俺の身も危険に晒されているのだぞ!?」

この状況下で良く舌の回ることだ!
それは条件が揃わなければ、いくら実力のあるものでも難しいということは誰にでも分かるものだろう……!

苛ついたものの、ここで心を乱すわけにはいかない。
私は狼が佐吉に敵意を向けないよう、前に出て襲いかかる狼を峰打ちで追い払う。私が祓った狼も再生したので思わず舌打ちをすれば、背後でぶつぶつ言っていた佐吉が不意に手をならした。

「そうだ! 俺は村から応援を呼んでくる! 菊理、それまで耐え忍んでいてくれ!」
「はあ!? 何を寝ぼけたことを言って――」

狼の隙を突き背後にいるはずの佐吉を一瞥すれば、既に背を向けて遠ざかっていた。怒りが芽生え思わず歯ぎしりする。

相変わらず逃げ足だけは速い。その特技を狼の翻弄に使えれば文句の付け所もないのだがな……!

そんな皮肉を心のなかで唱えても佐吉は帰ってこない。
耐えると言っても、村里からここまで来るのに卯から申まで(十時間程)かかっているので、大人しく助けを持っている場合ではない。

都合よく警戒してくれているのか、二匹は離れた場所から私の様子を伺っている。

――刀の達人は居合で一瞬にして斬り落とす。父もそうだった。

私は覚悟を決めて、場を整えるために動く。
先ずは攻撃を一定の方向から受けるために、狼を見据えたまま峠道から逸れ、大木を背にする。これで正面か、真横のどちらに絞れる。

呼吸を整え、刀を鞘に収めると左手に持ち、右手はいつでも柄を握れるように構えておく。
瞳を閉じて心を落ち着かせ、精神を研ぎ澄ませながら神気を練る。
不思議と狼の唸り声から私に襲いかかろうとする瞬間が分かるようだ。

走り、地面を蹴り飛びかかってくる狼に、私は目を開き、姿勢を低く落とすと大きく足を踏み出して抜刀する。澄み切った心が反映するように綺麗に祓うことが出来た。

その間にもう一匹に脚を噛まれるが、覚悟していたことだ。一匹の首を切り落とすと体の負荷など考えず、速やかに向きを変え、二匹目の狼に脚に食らいついている状態のまま首に刀を入れる。が、半分ほどのところで斬り進まなくなる。先ほどの一刀で刀の穢れが増したのだ。

しかし、ここで止まれば後がない。力任せに地面叩きつけ、穢れを断ち切ろうとしたがどうしても祓えなかった。
もたついている内に、首を切り落とした狼が再生してこちらに飛び掛っていることに気付く。

――私は阿呆だ。そもそも感情が昂ぶった状態で妖を祓おうなどという前提が間違っていたのだ。本当に必要なのは、澄み切った神気だったというのに――。

重傷を覚悟した瞬間、悔やむのは自身の祓い人としての心構えを忘れていたことだった。
瞬きすることも忘れ、剥き出された牙に抵抗することなく、私の瞳はゆっくりと動いている狼の姿を捉えていた。