祓い人菊理の恋情奇譚


三鷹は私の腹の傷の処置が終わると、自身の刀を納刀し、私に再び近づくと両腕で抱き上げた。
私の顔を覗き込んで、三鷹は愛おしそうに目を細めた。

「折角だから、このまま滝に行こうか」
「……」

抜け殻のように虚無感に襲われている私は、返事をしようとする気力もなかった。
三鷹が思うままに行動する様を、木偶の坊のようにただただ受け入れる。

林の先にある滝は、遠目から見ても穢れに満ちていた。
そして段々と全容が見えてきて、滝つぼの前に着くと、白山から流れていた滝は完全に枯れ果てていた。

私が村里から離れて、十数日しか経っていないというのに。
どうやら私の弱さに呆れ果てて、完全に見放されてしまったようだ。

滝つぼも湿った土壌が入っていて、以前のような神聖さは見る影もない。
悲嘆に暮れる私を余所に、三鷹が安堵したように息をついた。

「やっと白山の神は、僕たちのことを認めてくれたようだね」

言われて、私の瞳から涙が零れ落ちた。

……私は、どうすれば良かったのだろうか。
父が亡くなり、伏せっていたあの日。
目が覚めた時に、最初に目にした三鷹が、別人だと気づければ良かったのだろうか。
そして刀を抜き、祓う――そんなこと、出来るわけがない。

心配していた顔が、私と目が合って安心しきって微笑んだ姿は、確かに三鷹だった。
三鷹の私への愛が、妖の欲望を上回った瞬間。
それを目にしてしまえば、その想いを無下になんて出来るわけがない。

静かに涙を流していれば、三鷹が優しく「帰ろうか」と声をかけて滝に背を向ける。
白山の滝と別れを告げるように、祓い人としての私を捨てるように、離れていく。

視界が不透明になり喪失感が意識をじわじわと支配していく中、心の奥底から、何かが小さく呼びかけてくる。

それに耳を傾けようとした時、頭の天辺に冷たい水が弾いた。
思わず顔を上げる。水はポツポツと顔に、腕に、頬に当たり降り続けている。

――雨だ。
それは冷たく、思考を、心を覚ましてくれるような清らかな雨。
ぼやけていた視界が光を取り戻していき、見えた空には五色の糸が張り巡らされている。
糸から伝う白山の霊水が地上に――私たちに降り注いでいる。

「どうだ、菊理。俺の言っていた通りだっただろう?」

草履と土が擦れる音が鳴り、誰かが軽口を叩くように声を掛けてくる。
顔を向ければ、木の陰から普段通り衿を開けさせ、右手で印を結びながら得意げに口の片端を吊り上げ、ゆったりとした佇まいで和泉が姿を現した。
左手には納刀されている私の刀を握っている。

「先に婚姻の儀を済ませておいて正解だった、と」

私が驚き、呆然と顔を見つめていれば、和泉は不敵な笑みを浮かべて私を真っ直ぐに見返した。

「旦那様が直々に迎えに来てやったぞ。さっさと帰るぞ、菊理。ここは陰気臭くて叶わん」

肩をすくめて冗談っぽく言うその声音は、私を気遣うように穏やかで優しい。
白山の霊水が恵みの雨のように私の体を清め、彼のもとへ帰れと明示してくれている。
しかし、それを遮るように三鷹が鼻で笑い冷笑する。

「ごっこ遊びで旦那気取りなんて、僕を笑わせようとしているのかい?」
「――ごっこ? ごっこ遊びをしようとしているのは貴様の方だろう? 菊理とは既に何度も愛し合い、契りを交わし合っている。……既に、俺の子を身籠っているかもしれないな」

恥ずかしげもなく偽りの言葉を吐く和泉だったが、三鷹には利いたらしい。殺気立ち、私を抱える手に力が入った。

霊水の雨は三鷹にとって毒のようで、体力を消耗するように浅く呼吸をしていたが、今はそれを忘れたように和泉を睨みつけている。

私を徐ろに地面に下ろすと和泉を見据えたまま、抜刀する。私と対峙した時とは違い、明らかに本気で命を奪うつもりで闘志を燃やしている。

「減らず口を……! 夫婦になるのは確約されているのに、菊理がお前と契りを結ぶわけがない……!」
「そうか。それは残念だったな。先ほども言った通り、白山の神の御前で俺たちは婚姻の儀を既に終えている。夫婦になるのは諦めるんだな。それに――雪白という女と結婚ごっこをしている時点で、貴様は妻帯者になる資格などない」

和泉が冷ややかな目を向け、強く威厳ある低い口調で言い放つ。彼は怒り、蔑んでいる。
刀を構えた三鷹と、和泉が互いを見据えている。

和泉が三鷹を祓う――。
私は両手を地面に突き、込み上がってくる涙を嗚咽を漏らしながら流す。

自分で決着もつけられず、ただ見届けることしか出来ない、情けない姿。
初恋の相手に囚われて、少女のように動けずにいる私は、ここで何をやっているのか。

暗い気持ちで地面を見つめていたが、当事者として二人の行く末を見届けなければならない。
涙を浮かべた頼りない顔を上げて、彼らの姿を窺うように瞳に映す。

三鷹が和泉に向かって刀を振り被り、刀身を下ろすが、空間に張り巡らされた糸に引っ掛かる。
和泉はそんな三鷹から避けるように横に飛び出すと、私の目を瞳で捉え、明るく笑い言葉を発した。

「菊理! 大事な刀を落としていたぞ! 俺が他の女に走ったら、首を切り落としてくれるのだろう?」

和泉はそう言って、片手で持っていた私の刀を放り投げた。
目の前の地面に音を立てて落ちた刀を、私が呆けたように眺めれば、和泉はわざとらしく嘲笑う。

「まさか、俺の言葉を本気で信じたわけじゃあるまいな? 俺はお前が思っているような、清廉潔白な人間ではなく、嘘つきだ。だから――刀を錆びつかせるには、まだ早いぞ」

ハッとして目が見開き、溜まっていた涙が全て零れ落ちた。
和泉は私に、笑えと言っている。

どんなに悲惨なことがあろうとも、人が最期に行き着く先は変わらない。
だから、嘆くより先に今生ですべき事をして生きろと伝えてくれているのだ。

母も父も――三鷹もこの先必ず会うことができる。
その日まで、私は彼らに胸を張れるような祓い人として――生きなければならない。

私の悲しみの涙を洗い流すかのように、白山の霊水の雨が目元に落ちて、涙のように流れていく。

――そうだ。私が流すべきは涙は、悲しみや同情ではなく、三鷹の体を苦しみから解放するための慈悲の涙だ。
白山の神が、悲しむ暇があれば、救うことを考えなさいと教え説いてくれている。

頬を伝う白山の神の涙を指でそっと触れる。
冷たいのに、なんて温かな涙なのだろうか……。
目元を両手の甲で拭い、瞳に力を宿す。

――迷いは消えた。
深呼吸し、心を無に精神を統一させる。そこに善悪の感情はなく、ただ清め祓うだけだ。

私は刀を手に取り、立ち上がると鞘から抜いた。刀身に落ちた雨粒が切っ先に向かうのと一様に、神気を流す。

妖の主は顔だけ振り返り、私の姿を確認すると不利な状況に目元を歪ませる。
窮地に立たされた妖の主が、迷った末に出した決断は和泉への殺意だった。

「よそ者の祓い人がっ! こうなればお前を殺し、菊理に穢れを取り戻させる!」
「俺も舐められたものだな。よもや、三下に吼えられることになろうとは……」

わざとらしく、苦笑いを浮かべて嘆く和泉。
斜に構えている態度を崩さずに和泉は顔を上げ、首を差し出すように左手で指を指した。

「ほれ、やってみろ。今なら特別に糸術を解いていてやる」
「……っ!」

挑発を受けた妖の主はあからさまに憤り、体を震わせた。今の彼は私のことなど忘れ、和泉しか見えていないだろう。

妖の主は腰を落とし脇構えすると、地を蹴り、跳び出すように和泉に斬り掛かった。
刀が首に差し掛かる直前に、和泉は左手を何かを捕らえるように握り込み、横に力強く引くと妖の主の刀が止まる。

和泉の糸術は強いが、力が拮抗した結果、刀が首に届き、鮮血が流れ落ちる。
それでも和泉は痛む姿など微塵も見せることなく、笑みを浮かべて妖の主を見続けている。
妖の主が焦りを滲ませた口調で言葉を吐いた。

「死を目前にして、なぜ恐怖しない……!?」
「残念だが、俺が唯一畏れているのは、他人の尻を遠慮なく叩いてくる女房だけだ。この気持ちは――ごっこ遊びでは、分からんだろうなぁ」

和泉は真顔を崩すと、呆れたように首を横に振り、やれやれと愉快げに笑う。彼はどんな状況でも余裕を崩すことはない。

頼もしい旦那様だが、私が恐いとは面白いことを言ってくれる。
口からふっと息が漏れ、唇の端が釣り上がる。

私は刀を肩の横に構え、妖の主に駆けだした。
もう躊躇うことなどない。私は私の行き着く先で三鷹に謝罪するのだから。

――人に仇なす妖を、祓い人として祓おう。

重かった筈の足は軽快に動き、心は凪いでいる。慈悲の瞳で捉えた妖の主の首元を、白山の神が与えてくれた神気で薙ぎ祓う。

私と三鷹に繋がっていた、妖の主の悪縁は完全に絶ち切った。
振り切った刀身が、一閃を放つのを視界の隅で捉えた。

『君の神気は綺麗だね――』

不意に三鷹の声が聞こえて、私はハッとして顔を向けた。
朝日の眩しさが木々の隙間を乗り越えて、瞳に差し込み、目を細めれば白山の神の慈悲の涙が光を増して降り注ぐ。
下ろした刀は穢れなどなかったように、銀色に輝いていた。