妖の主は、側に置いていた刀を握ると徐ろに立ち上がる。私は直ぐに動けるよう、彼の一挙一動に気を配って眺める。
私の手許には刀はない。
記憶を辿るに、鷲夜との一戦の後、意識を失いこの部屋に運ばれている。恐らく、鷲夜はこいつに殺されたのだろう。
武器がない今、妖の主に刀を抜かれては、逃げ惑いながら屋敷を探し回るしかない。
妖の主は、私を見下ろすと敵意を感じない温厚な佇まいで言葉を掛ける。
「安心していいよ。僕はここで刀を抜く気はない。菊理の刀もちゃんと返すから、ここで待っていて」
「……」
私が睨みつけ、警戒しているにも拘らず、妖の主はそれを意にも介さず背を向けて襖を開ける。
私が背後から飛び掛かり、体を拘束してくることすら恐れていないのだろう。そのまま後ろ手で襖を閉められる。
後ろ姿だけ見ていれば、三鷹にしか見えず心が揺らぐ。
戻ってきた時を狙い、奇襲をかけても良かったが、私の体は少し休んで軽くはなっているものの、力の押し合いになれば不利であることに変わりはない。
私は膝に手を突いて立ち上がり、緊張した面持ちで襖を見つめる。
シンと静まり返っているせいで、妖の主の足音が近づいてくるのが容易に聴こえ、肩幅に足を開き腰を落として構える。
襖が開くと妖の主は私を見て、子供の悪戯を目にしたようにクスリと笑うと、片手に持った私の刀を差し出した。
「特に穢れてなさそうだったから、そのまま返すよ」
「……今から祓われるのに、随分と余裕だな」
「祓われはしないよ。――そうだ。折角だから、僕たちが初めて会った場所に行かないかい? 刀を振るうには、ここじゃ狭すぎるしね」
私の戦意を削ぐように、妖の主は落ち着きを払って提案する。私は警戒心を解くことなく、固い表情のまま右手を差し伸べて刀を受け取った。
両手で掴み持てば、妖の主は安堵したよう見届け、「それじゃあ行こうか」と和やかに声を掛けては背を向けて歩き始める。
刀を抜こうか躊躇うが、遅かれ早かれ抜くことになるなら、動きやすい外の方が適しているだろうと考え至り大人しく後に続いた。
背中を睨みつけていたが、歩を進めれば進めるほど、その瞳に力がなくなっていく。
顔をそらし足元にだけ目をやらなければ、目の前の妖を見知った人だと勘違いしそうになりそうだ。
そんなやるせない気持ちに苛まれながらも、私は心が揺らがないように、刀を持つ手に力を入れた。
外に出れば、明け方が近いのか未明くらいの色をしていた。
特に会話もなく歩けば、夜風の涼しさが滾った体を冷やすように、段々と意気込んでいた気持ちが鳴りを潜めていくようで。事を急ぐ焦る気持ちと、着きたくないという感情が自分の中でせめぎ合っているようだ。
頭を振って、人情が芽生えそうになる自身の心を叱咤する。
――こいつは父の命を奪い、子供と赤子の命すら露ほどにも思っていない、極悪非道な妖だ。躊躇うことなどない……! 果敢に祓うのだ、私!
そう考えれば、祓わなければならないという気持ちが強く出て、俯いていた顔をあげる。
下を向いていれば、弱気に囚われる。意思を強く持つには、姿勢を意識することが重要だ。
私は背筋を伸ばし、前を歩く妖の背中を見据えながら堂々と歩んだ。
妖の主が提案して着いた場所は、三鷹と初めて会った村里の近くの原っぱだった。
三鷹との思い出の場所を、自分のものに挿げ替えようとは、なんと図々しい奴だ……!
私が妖の主の言動を忌々しく感じ、睨みつけていれば、彼は振り返り遠い目をしながら辺りを見渡した。
「懐かしいね。ここで僕は菊理に助けられた」
「私が助けたのは三鷹であって、お前じゃないっ! 三鷹の振りをするのはやめろ! 虫酸が走る!」
「初めて菊理を見た時は驚いたよ。僕より年下の女の子が、刀で妖を綺麗に祓うんだからさ。その神気の美しさに惹かれて、僕も君のようになれたらって憧れて、刀術士を目指したんだ」
三鷹の姿で、慈しむように三鷹との想い出を語り始め、私の瞳は動揺で揺れる。
足が怖気づくように自ずと後ずさり、苦しくなった胸が悲鳴を上げる。
「だ、黙れ……!」
「僕が刀を持って会いに行ったら、菊理は呆けていたけど、僕が刀術士になりたいって言ったら、先輩だからって得意げに指南してくれたよね。一所懸命に教えてくれるから、可愛らしくて、つい分かっていることも訊ねてしまっていたな……」
「黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れっ!」
それ以上聞きたくなかった。
まやかしの言葉を振り払うように、顔を振って両手に握っていた刀の鞘を抜いた。抜くと同時に鞘を地面に投げ捨て、私は両手で柄を握り中段に構えて妖の主を見据えた。
妖の主は口を閉じて、余裕の笑みを浮かべて私を見る。私は、強く命令する。
「刀を抜くがいい!」
「……」
妖の主は口元に笑みを称えたまま、じっと私の瞳を窺うように見てから、腰に携えていた刀を抜いた。
まともに構えようとせず、腕を下ろしていて切っ先は下を向いたままだ。
ようやく祓えるというのに、動揺のせいか、息切れをしたように、呼吸が整わない。
圧を掛けられている訳ではないのに、動くことが出来ず、彼の姿を瞳が捉え続ける。
――駄目だ。黙っていると、三鷹にしか見えない。
亡骸に取り憑いているだけだと頭では理解しているが、姿、雰囲気、私を見つめる緩やかな表情が、生きているのかもしれないと錯覚を起こさせる。
刀を握る手に迷いが生じそうになって、私は心を奮い立たせるために、妖の主に息むように声を張り上げて問う。
「どうして、雪白に懐妊などという暗示をかけさせた!?」
「あれは雪白自身が勝手に掛けたんだよ。……僕は雪白と一度だって、契りを結んだことはない。婚姻もただの形だけのものだよ」
「それなら何故、雪白の身持ちを案じるような真似をした!?」
「だって、あまりにも哀れじゃないか。現実には触れてもいないというのに、思い込みだけで信じ込み、生まれもしない子の名前まで考えている。それに、あれは労れば随分と大人しい。相手をしなくて良いのなら、可愛がってやるのもやぶさかではないよ」
「……な、なんて酷いことを……」
「言ったはずだよ、菊理。僕は菊理が一番だって。信用されてなかったなんて、残念だ」
私が雪白の気持ちを汲んで心を痛めれば、妖の主は目に見えて落胆していた。
雪白はどこまで気付いていたのだろうか……。
もしかしたら、中身が三鷹ではないことを知っていたのかもしれない。それでも三鷹を想う気持ちと板挟みになった結果、穢れてしまったのだろう。
現実から目を逸らして、いつまでも真実に気付けない私は、彼女からすればさぞかし憎い存在だったのだ。
雪白が私を恨んでいる理由をようやく理解した。
私は自分の愚かさに顔を歪め、罪の告白を苦しくなりながらも吐き出した。
「――三鷹なら、婚姻を結んだ相手に、そんな辛い思いをさせるようなことはしない。真面目な人だから、ちゃんと雪白と向き合って、夫婦関係を築いていくのだと、私は信じていた……。だから、私はお前のことを三鷹だと信じて疑わなかった……」
この言葉は私の想像でしかない。今となっては真相を明らかにする手立てなどどこにもない。
だけど、私が知っている三鷹であるなら、きっとそうなっていると思っていた。
妖の主の目が見開き、非難するように眉を顰めた。
「……まさか、夫婦ごっこを真に受けていたのかい? 僕は昔から君に言っていただろう。僕が愛してやまないのは菊理だけだと」
その言葉で、やはり彼は三鷹ではないと決定づけられた。
刀を握る手に迷いがなくなり、情に揺れていた瞳は消え失せ、真っ直ぐに妖の主を捉える。
「黙れ! お前のようなものが、三鷹の想いを捻じ曲げて伝える言葉は耳障りでしかない! 即刻口を閉じろっ!」
「三鷹の想いは僕の想いだ。菊理を愛する気持ちに偽りなどない。だから雪白の想いにも応えなかった。誠実だろう?」
「誠実な人間が、人の愛の苦しみを煽るような真似などしないっ! お前の首は私が祓ってやる! 覚悟するがいい!」
確かな意思を示したことで、練られた神気が刀に宿る。妖の主は神気を目にすると、機嫌を損ねたように、顔を顰めて刀を構えた。

