祓い人菊理の恋情奇譚


次の日、鷲夜が村里の人たちに少年の死を告げる。彼らは少年の死が堪えたのか、自分の身を守るように菊理から遠ざかった。

そんな人達を白山の神が愛してくれるわけがない。
人々の生んだ穢れが瘴気になり、土地に根付いてしまえば神聖な滝はいずれ枯れ果てる。

通り悪魔は物陰からそっと様子を窺って、その成り行きに満足すると、菊理のもとに戻った。
相変わらず伏せっていて、時折肩を抱いて穢れた水を飲ませやる。

触れた箇所は相変わらずただれるが、菊理のためなら我慢もできるし、洗い流せば修復できる。
眠っている菊理の隣に寝転がり、床に頬杖を突きながら顔を覗き込む。眺めているだけで幸福感に満ち溢れ、頬が緩んだ。

「菊理と子を為せば、面白い妖が生まれるかもしれないな。――となると、神の加護は邪魔だな……」

薄めた穢れを飲ませてはいるが、菊理は全く穢れる様子がない。一緒になるには、彼女が追い詰められる状況を作らなければならない。

孤立させ、三鷹だけを頼りにさせる――しかし、それだけでは十分ではない。
愛している三鷹が、他の女性と婚約を結んだ状態で自分のもとへと通えば、ヤキモキしてくれるだろう。

周りからも、菊理が三鷹の優しさに甘えていると外聞もますます悪くなる。
そして婚約する相手は、三鷹に好意を抱いていて、自分の気持ちを押し殺している雪白で、周りからの同情も得やすいだろう。

目を覚ました菊理は気丈に振る舞っていたが、強がりも少なからずあることに通り悪魔は気づいていた。

三鷹にだけ見せる、気を許した笑顔。
両想いであるにも拘らず、満足に触れ合うことすら叶わないのは、二年経っても枯れることのない白山の滝のせいだった。

予想以上に白山の神は執念深かった。
水量は確実に減っているというのに、菊理も滝と縁を切ろうとせず、清めに使うので気を揉んだ。

婚約期間が長引くほど、状況に慣れていくのも良くなかった。
気乗りはしなかったが仕方なく、菊理に知らせることなく、水面下で話を進めていけば、後々気付いた彼女は顔を曇らせる。
そんな姿も愛おしくなりながら、揺るぐことのない想いを伝え続ける。

「僕は菊理が一番好きだ」

そのひと言で、菊理も三鷹と同じように恋焦がれてくれるだろう。

両思いの二人が困難の果てに一緒になることは、確約された未来。
面倒な行程を踏むこととなったが、永遠の愛を誓う時、より一層幸福感で満たされるのならば、それも悪くないと思えるのは、菊理を想う故だった。

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夢物語のような語りを耳にして、放心した私は無意識にポツリと呟いた。

「三鷹は死んだのか……」

意識は遠のき、目は開いているはずなのに、真っ白で何も見えない。
目尻から涙が零れ落ちるが、鉛のように重たくなった体では、それすら拭うことはできない。

告げられた事実に、静かに傷心していれば、三鷹が体を起こし、私の手を両手で握った。

「いいや。死んでいない。僕はここにいるよ、菊理」

温かくて、力強い励ましの言葉だった。
三鷹はいないはずなのに、三鷹の声がする。
まるで私の間違いを正してくれるような、甘美な響きだ。

三鷹が結婚しても尚、私から別れを告げることは出来なかった。
家に招かれた時も、そんな後ろめたさを雪白に隠したくて、出来るだけ三鷹を見ないように、話さないように、雪白の方ばかり見ていた。

そうすれば、勝手に円満になるだろうと思っていた。そして別れを告げることなく、縁が切れるのだろうと。
しかし、それが雪白を苦しめた。

『――お前は目を逸らしてばかりだな……!』

雪白の言葉が、脳裏に蘇る。
見ていたはずなのに、何も見えていなかった。
二人の仲睦まじい姿を見る時は、大人になる過程で育てあげた第三者が祝福していたのだろう。

私が動くことも出来ずにただ涙を流していれば、三鷹は握っている手を持ち上げる。
そして、自身の頬に愛おしそうに私の手を押し当てた。そして、優しい口調で言葉を紡ぐ。

「穢れろ、菊理。僕のために心身を穢し、子を宿せ」

天井を見上げている筈なのに、見えないそれを見つめ続け、呆けた頭でぼんやりと彼の言わんとする意味を考える。
そして、ふと一つの疑問が浮かび上がって、自ずその言葉を小さく口にする。

「赤子……。――そうだ。岩山の村の赤子はどうした?」

鷲夜が言っていた話を思い出した。
頭が冷えたように、正気を取り戻し、視界が鮮明になって顔を向けた。

三鷹は瞼を閉じて、私の手のひらに口づけを落として享受するように頬に擦りつけながら、柔らかな口調で返事を返した。

「――ああ。あの赤子なら、君の父親と共に葬ったよ。以前憑いていた子供の願いだったからね。僕をあそこから出してくれたのだから、願いは叶えてやらないと」

耳にした瞬間、全身の血の気が引き、絶句した。

父の願いは何一つ叶わなかった――。

そして、集落の長の孫娘を見つめる雪白の姿が脳裏に蘇る。彼女は、暗示をかけてまで三鷹の想いを繋ぎ止めたかったと言っていた。

だけど雪白は、本気で子供が欲しかったのだ。そうじゃないと、他人の孫娘に母のような微笑みを向けたりはしない。
それをこいつは赤子を殺し、自分の益のためだけに利用したのだ。

噛み締めた歯がギリっと音を鳴らし、湧き上がる憤りに、麻痺していた体に熱い血が宿る。

尚も頬ずりされている手を力の限り振りはらい、私は上体を起こし、足を曲げると片膝を布団に突いて妖の主を睨みつける。

妖の主は、払われた両手を開いたまま苦笑して、肩を竦める。それを目にした私は瞳孔が開き、唸るように声を張り上げた。

「お前は三鷹なんかじゃないっ! 人の想いを踏みにじり、弄ぶ、腐れ外道がっ! 人に仇なすお前は、私が祓ってやる! 覚悟しろ、妖の主……!」
「……困ったな。花嫁を傷付けるつもりはなかったのにな。だけど、それで菊理の気が済むのなら、受けて立ってもいい」

妖の主は、私に相反して、肩を落とすとのんびりした口調で穏やかに微笑みを称えていた。