――夢を見た。過去の出来事だ。
父が亡くなってから、針の筵のような扱いを受けた私は、村里の人の住む一帯から家移りした。
昔誰かが住んでいた竹藪の側の小屋は、人が滅多に近づくこともないので、心を落ち着かせることが出来た。
そして暫くして、三鷹と雪白が婚約したという風の噂を耳にする。村里の人に詳細を訊ねることも出来ずに過ごしては、偶に会いに来てくれる三鷹がいつ話を切り出すのかを待っていた。
覚悟はできていたというのに、三鷹はいつも何も言わずに帰っていく。
胸がもやついた私は、家を訪ねてきた三鷹に向き合って座ると、何食わぬ顔で自分から鎌をかけてみた。
「最近、雪白と仲が良さそうだな」
「そうかな? 僕と菊理の仲には及ばないけど、仲はいいかもね」
私が出したお茶を飲みながら、穏やかな顔でしらばっくれる。
すんなりと話してくれないことに、なぜ話してくれないのかと複雑な感情が渦巻いて、私は顔を曇らせ俯く。
「……隠さなくてもいい。噂で二人が婚約したのは知っている。こんな状況で、三鷹と一緒になるのを夢見るほど、私は浅はかではない」
名主の息子とただの村娘。
そもそもの立ち位置が違うというのに、村八分のような扱いを受けている状態で一緒になれば、ますます立場が悪くなる。
三鷹がこうして私の所に来ることも、良くは思われてはいないのに。
私が憂いているというのに、三鷹はお茶を床に置き、涼しげな顔で言葉をかける。
「だけど菊理は、晴時さんの汚名を晴らすために、頑張っているじゃないか」
「それはそうだが……それとこれとは関係ないだろう」
「そうなの? てっきり、それは名目上だけのもので、菊理は、僕のために頑張ってくれているのだと思っていたけど、違うのかい?」
寝耳に水だというように、私の顔を見つめたままきょとんと瞳を瞬かれる。
最初は言われている意味が分からなかったが、言葉を噛み砕き考えると、私は三鷹の冗談に笑った。
「なんだ。三鷹は、私が三鷹と一緒になれるよう、頑張っていると思っていたのか?」
「当たり前じゃないか。菊理は僕のものなんだから」
「ふ。期待を裏切って悪いが、本当に父のために頑張っているだけだ」
重苦しい緊張が解けたかのように、私の肩は軽くなった。そんなに私は器用な女ではない。
三鷹は私の言葉が気に入らなかったのか、ムッとした顔で抗議した。
「それじゃあ僕ばかりが、菊理と一緒になるために頑張っていることになる。夫婦は苦楽を共にするべきだ」
「ふ、夫婦……!?」
突拍子もない、気が早いことを言い出され、私の顔はカッと熱くなった。それを三鷹は見逃さないように、ずいっと身を乗り出して私の顔を凝視する。
食い入るように見つめてくる綺麗な瞳に、私は恥ずかしさに居た堪れなくなり、慌てて腕で覆った顔を逸らす。
それでも見続けてくる三鷹に私は「あまり見るな。顔に穴があく」と完全に照れ隠しだと分かる発言しか出来ない。
三鷹は安心したように頬を緩ますと身を引いた。
「良かった。菊理はまだ、僕のことを好きでいてくれている」
「そんなに早々、嫌いになれるわけがない」
顔を逸らしたまま拗ねれば、三鷹はにじり寄ってきた。顔を隠している腕を掴んで下ろそうとするので、私は抵抗せずに大人しく従う。
三鷹は下から撫でるように私の片頬に手を添えると、優しい表情で口を開いた。
「今はまだ、頬に触れるだけしか叶わないけれど、いつか一緒になろう菊理」
「……」
私の返事を聞く前に、頬に触れていた手は直ぐに離れた。私はその手を視線で追うことしか出来ない。
これは三鷹からの希望ではなく、ただの慰め。
分かっているのに、縋りたいと心が揺らぐのは私の中に恋情が残り続けているせいだ。
帰る三鷹を見送るが、遠のく後ろ姿に私は思い切って声を掛ける。
「三鷹、次は一緒に滝に行かないか?」
父が亡くなってから、三鷹とは一度も行っていない。刀の清めも、いつの間にか三鷹は滝を使わなくなり、他の清め場を使用しているようだ。
三鷹は振り返る。日差しの眩しさで表情は見えない。
「滝には行かない。だけど――いつか一緒になれるときに、そこで永遠の愛を誓おうか」
「……」
私はその返事に、三鷹とは二度と滝に行くことはないのだろうと悟った。
突きつけられたのは別れだと分かっていても、せめて密かに想い続けることだけは許してほしいと願う。
そうして時が流れ、私が十六の時。
村里は、明日の三鷹と雪白の婚礼の儀の準備で賑わっていた。
私は皆に見つからないように、遠くからその様子を眺めていた。
父が亡くなってから二年半。状況は変わるどころか、段々と村里の人たちとの距離が開いていく。ここで三鷹と仲がいい私が見つかれば、水を差しかねない。
私はその場からそっと離れて、滝に足を運んだ。滝つぼの前に座り、水量が半分以下になってしまった滝をぼうっと眺める。
いつかはそうなると分かっていたのに、いざ目の当たりにしてしまうと、胸が堪らずに苦しくなり、食事も喉を通らない。
唯一の心の支えは、この白山の滝だった。
私は立ち上がると普段着のまま滝つぼに入り、滝行をした。
勢いが衰えている水量は頭より細く、体全体が清められない。私は落ち着かない気持ちで、体が濡れるよう身を動かした。
そして日が沈んでからようやく気がつく。
これは滝行ではない。ただの水遊びだ、と。
暗い気持ちで滝つぼから上がった。
濡れたまま帰路につけば、家の前で誰かが立っている。歩みを止めずに近づけば、三鷹だった。
彼は私の姿を目にすると、顔を顰めた。
「そんなに濡れてしまって……。菊理に寒い思いをさせる滝行は良くない。早く着替えてくれ」
私の短慮な行動を、怒っているような、咎めているような口調だった。
それは弱った心に、追い打ちをかけられているようで辛く、私は三鷹を外で待たせて家に入り衣服を着替えた。
そして浮かない顔で外に出れば、三鷹は安堵したようにほっと息をついて、私に穏やかな笑みを向ける。
「そう不安がらなくていい。結婚したとしても、僕の一番は菊理に変わりはないよ」
「……」
そんなことを告げられれば、ますます不安を煽られる。
いっその事、突き放してくれたほうが、未練がましくならずに済んだのに。
父が亡くなり、村里の人に頼ることができなくなった私は、いつの間にか三鷹に依存していたのだろう。
恋情と執着が混じり合い、私から別れの言葉は口には出来なかった。
「菊理、信じてくれるよね?」
「……」
真摯に、直視してくる瞳から逃げるように俯く。今から結婚する男の、誑かすような甘い誘惑。
長くは続かない。結婚してしまえば変わってしまう。だから、それを受け入れても、意味はない。
だけど、断る言葉を発することができない。
静かな闇夜に二人きりで、誰にもこの秘密を知られることはない。
私が黙り込んでいれば、視線の先に手が差し伸べられ、人差し指と中指で顎を持ち上げられる。
視界に映った三鷹の瞳が、私を捉えて離さない。揺れる思いを見透かされるように、三鷹は穏やかに命令した。
「信じろ、菊理。僕は、君が一番好きだ」
そうして指が離された。
上がっていた顔を戻せば、頷くような形になってしまい、三鷹は微笑んだ。

