僕の奇跡と君のキセキ

 翌日の放課後、僕は学校指定のジャージに着替えてグラウンドに立った。敢えて学校指定のジャージにしたのは、「うっかりしてた、今日体育あって助かった」と言うシュチュエーションを演出するためだ。我ながらバカバカしいと思うが、加瀬君のためにいそいそと準備してきたんじゃないとアピールするつもりだった。それなのにーー

「なんでわざわざ体操服? 今日体育なかったよな」

 僕と加瀬君は同じクラスじゃないか、僕のバカ。
 クスッと笑う笑顔が爽やかで、それでいて全てを見透かしているようで、ホントにムカつく。

「まずはランニングしよう」

 高校に入ってからは体育の時間くらいしか体を動かしてない。毎日部活に励んでいる加瀬君についていけるだろうか。そんな心配を知ってか、ゆったりとしたペースで走りだした。僕と加瀬君のコンビがよほど珍しいのか誰もが僕らを二度見する。陸上部に至っては三度見してたな。

「あっちで練習しなくていいの?」

 当然の疑問だ。陸上部員の前を陸上部のエースと美術部員がランニングで素通りするって、ツッコミどころ満載だろ。

「もうすぐ文化祭だろ。準備で集まらないから自主練なんだ」

 それで僕を誘ったのか。それでも自主練している部員は何人もいる。知った顔もいるからニ年生も参加しているのに、なんでわざわざ僕なんかを誘うんだ。

 二周走ったところで、次はストレッチ。ペアでストレッチを始めたものの、「急に体を動かすと故障するからな」と自分より、僕の体を念入りにほぐしてくれる。背中をグッと押されると、凝り固まった筋肉がほぐれていく。
 ん〜、気持ちいい。久しぶりだな、この感じ。いやいや、僕が気持ちよくてどうする。これじゃ練習にならないだろ。由香じゃないけど足手まといになってないか? 二人でいても会話も弾まないし、気まずいんだけど。
 加瀬君とは二年で同じクラスになってーーそもそも会話したことあったか?

 こうなるとやっぱり……

「罰ゲームなのか?」
「なんだよ、罰ゲームって。昨日も言ってたな」
「だって、どう考えてもおかしいだろ。陸上部のエースが美術部を練習相手に選ぶなんて」
「元陸上部の美術部ならおかしくないだろ?」

 心臓がトクンと音を立てた。

 中学では三年間陸上部に所属していた。三年生最後の試合であっさりと予選敗退し、引退した。高校では陸上はやらないと決めていた。頑張れば誰もが一番になれるわけじゃない。燃え尽きたたと言うほど努力したわけでもないが、僕はここまでと自分を見限った。
 そんなに大したことじゃない。人生は少しの挫折と諦めで出来ている。

「最終組第三レーン、違うか?」
「そう、だけどーー」
「あのスタート、最高だった」

 心臓がドクンと跳ねた。

「へぇ、見てたの?」

 動揺を隠すように努めて冷静に答えた。

「俺のレースは終わって移動中だった。ちょっと距離はあったけスタートラインの真横から見てた。ピストルの音が鳴ると、上原の顔だけが見えた。0.1秒、フライングギリギリのスタート。完璧だったよ」

 ーー本当に見てたんだ。僕の最後のレースを。

「僕さ、スタートの緊迫感が好きなんだ。一瞬の緊迫感のあとの躍動感。誰よりも早く飛び出したい、一番になりたいって、いつも思ってた」

 誰にも話したことのない秘密を話してしまった。毎回、予選敗退の僕が一番になりたいなんて恥ずかしくてこれまで誰にも言えなかったのに。

「あの瞬間、間違いなく上原が一番だった。鳥肌が立ったよ。たまたま通りかかって偶然目撃したなんて信じられるか? あの0.1秒のスタートは俺にとってはキセキの瞬間だった」
「オーバーだな、キセキなんて。すぐに抜かれて予選五位敗退だよ」

 それでもゴールした時の充足感と空の青さは、はっきり覚えている。
 僕にとっては三年間の集大成、その試合でこれまでで一番いいスタートがきれた。でも他の人からしたらただの予選の1レースにすぎない。誰も見ていなくてもしかたないけど、でも本当は誰かに見ていて欲しかった。凄かったと認めてもらいたかった。それを加瀬君が見ていたなんて。僕だけの奇跡が二人のキセキになった。僕たちは二人だけの秘密を共有した高揚感に包まれた。

「結果なんて関係ない。あの0.1秒のスタートがキセキなんだ。この前の体育の時もいいスタートだったよ。かなりブランクあるのに凄いなと思ってさ。だから上原と練習したかった。俺もあんなスタートを切ってみたいんだ」

 加瀬君は本心で僕と練習がしたかったんだ。罰ゲームでも何でもなかった。疑って悪かったな。

 こうして僕は加瀬君と自主練を続けることになった。