僕の奇跡と君のキセキ

 放課後の美術室でも苛立ちはおさまるどころか、むしろ増していた。

 絵の具と溶き油の匂い。それを逃すために開け放たれた窓。そこから入り込む熱をはらんだ空気。熱心に作品に取り組む部員たち。

 全てが僕を苛立たせた。
 あの六時限目の体育のせいだ。
 背の順なんて、
 100m走なんて、
 練習につき合えなんて、

 全部、おかしい
 全部、間違ってる

 ずっと夏休みだったらいいのに。いや、明日から冬休みになればいいのに。学校なんて何が楽しいんだ?

「伊吹、機嫌悪いの?」

 なんだよ、他人事みたいに。誰のせいで機嫌が悪いと思っているんだ。本当なら今頃はエアコンをガンガンに効かせた部屋で、アイスを食べながらゲームをしていたはずなのに。

「今日の部活は休むつもりだった」
 
 思いっきりぶっきらぼうに答えてやった。
 少しは反省したらどうだ。

「今日の部活? 昨日も一昨日も休んでるじゃない。これ以上サボったら文化祭に間に合わないわよ」

 反論出来ないだけに余計に腹が立つ。
 憎まれ口を叩くのは、幼馴染で同級生の小暮由香。家が近所で母親同士が仲が良かったこともあり、幼い頃はよく一緒に遊んでいた。小学校の低学年の頃までは小さくて可愛かったのに、いつのまにか僕を追い越し、最近では母親のようにあれこれと世話を焼く。
 今日だって帰ろうとした僕を無理矢理美術室に連れ込んだ。連れ込んだと言っても決して人に見られて困る事をするためではない。

 一ヶ月後に迫った文化祭。美術部にとって文化祭は年に一度の一大イベントである。部員達は夏休みから作品の制作に取りかかっている。由香に至っては部活の活動日以外も頻繁に学校に来ては制作に励んでいたらしい。
 しかし入部当初から幽霊部員と化している僕に、その熱量はない。

 絵を描くのは嫌いじゃないし、他にやりたい事もない。中学でも美術部に入っていた由香に熱心に誘われたこともあって入部したけど。

 どこでもよかったんだよな……

 そんなことをぼんやり考えながら薄汚れたダビデ像のデッサンを始めた。

 ガラッと音がすると、みんなの視線がドアに向いた。静かだった室内が急にざわめいた。

「失礼しまーす! あっ、上原〜」

 ーー加瀬君?

 僕を呼んだような気もしたが……気のせいだと思おう。

「あの人、陸上部の加瀬先輩じゃない?」
「メッチャ、カッコいい〜」
「間近で見るの初めて……素敵……」

 さすが陸上機のエースは違うな。他の学年にも顔が知られてる、まるでアイドルだ。僕なんか美術部員にも知られてないんじゃないか?おいおい、そこの一年女子、興奮しすぎだ。泣くなよ。
 加瀬くんは爽やかな笑顔を惜しげもなく振り撒きながら近づいてくる。やっぱり僕なのかーー

「部外者、立入禁止」

 もちろんそんな規則はないが、精一杯の抵抗を試みた。女子部員の冷たい視線が突き刺さるが、僕は心を強く持った。
 加瀬君は椅子を持ってきて、隣にどっかりと腰を下ろした。これは長期戦の覚悟か? 僕はそんなことには屈しないぞ。視界の端に加瀬君の端正な顔がチラチラして落ち着かないが、無視してデッサンを続けた。

「上原って絵が上手いな。美術部なんだから当たり前か」

 感心したように、キャンパスとダビデ像を見比べてている。
 自慢じゃないが僕は模写が得意だ。見たものを忠実に再現しているだけだが、集中している時間は無心になれる。今日は全くなれないけど。

「上原のダビデ、疲れてるように見える。そこがまたカッコいいな」

 おお!わかるのか?
 そう、このダビデ像は疲れている。長年美術室に置かれ、何百人、何千人の生徒のモデルになり疲れ果てている、と僕は勝手に思っている。僕の絵の真髄を見抜くとは、なかなか出来る男だな。

「デッサン得意なんだな。何でも描ける?」
「見えるものなら描ける。何か描いてやろうか?」

 余計な事を言ってしまったが、もう遅い。褒められると調子に乗ってしまうのは僕の悪い癖だ。

 んっ?
 なんでコイツ制服直して姿勢を正してるんだ?
 まさかーー 

「笑った方がいい?それとも素の方がいいかな」
 
 お前を描くのかよ〜!
 これだから顔に自信のあるヤツは嫌なんだよ。
 どっちでもいいよ。キメ顔でもなんでも好きな顔を描いてやるよ。
 あわよくば自分たちもとジリジリと詰め寄ってきた女子部員たち。合法的に加瀬君の顔をじっと見られるチャンスだと思ったんだろう。

「ごめん、うるさかった? 終わったら帰るからみんなは制作頑張って」

 加瀬君の『頑張って』と、溢れんばかりの笑顔に全員すごすごと退散した。

 さっさと描いて帰ってもらうか。
 ちっちゃなメモ帳を取り出し、描き始めた。
 簡単に描けばいいだろ。
 どう描いたってイケメンはイケメンだしな。
 
 ふんふん、うんうん。
 目鼻立ちがはっきりしてるから描きやすい。
 まあ、こんなもんかーーあれ?
 もっと自信満々の傲慢な顔に描いたつもりが、なぜか憂いを含んだ儚げな表情になっている。いくら手直ししても同じだ。

 おかしいな……

 手を止めた僕に気付いたのか、手元を覗き込まれた。

「お、いいじゃん。カッコいい。上原には俺がこう見えてるって事だよな?これ貰っていいよな」

「う、うん……」

 何か引っかかるけど、本人がいいなら良しとしようか。

「なぁ、練習つき合ってくれよ」

 まだ罰ゲームやってんのか、ヒマ人め。


「練習相手なら陸上部にいくらでもいるだろ」
「上原がいいんだよ」
「は? 意味わかんない」
「俺はわかってる」

 『いい加減にしろよ! 今日の僕は機嫌が悪いんだ!!』と、心の中で叫んだ。 

 情けないが大声を出す勇気はない。

「加瀬君、私たち文化祭の作品制作で忙しいの。そろそろ帰ってくれない?」

 おぉ、由香、よく言った。さすが幼なじみ、美術部の鏡。そうだ、僕は忙しんだ。加瀬君の相手をしている暇なんかない。
 
「伊吹はサボってばっかりで、自分の事すら出来ないの。文化祭の作品だって誰よりも遅れてる。人を手伝う暇なんてこれっぽっちもないの。何を頼んだか知らないけど、伊吹じゃかえって足手まといになるだけよ」

 由香ーーさすがにそれは言い過ぎだろ。幼なじみのリカバリー範囲を超えているぞ。

「えっ……お前そんなにダメなやつだったのか、知らなかったよ。自分のことも出来ななんて、そうか……」

 やめてくれ! そんな憐れんだ目で僕を見るんじゃない。

「俺のことは気にしなくていいから自分のことだけ考えてくれ。上原に頼んだのは間違いだった。悪かったな」

 うぅ、優しく肩をポンポンとか、慰めるのはやめてくれ。
 僕だって、、僕はーー

「僕はやればできる男なんだ!練習くらいいくらでもつき合ってやるよ。作品だってキッチリ仕上げてやる。任せとけよ!」

 えっ? 今、笑ったーー
 加瀬くんが俯いてニヤリと笑うのを、僕ははっきりと見た。

「じゃあ明日の放課後から練習な。トレーニングウエア持ってこいよ」

 えっ、ちょっと待って。やっぱり無理。
 ていうか、お前、爽やかイケメンじゃないのか?
 こんな腹黒いことしていいのか?

「おじゃましました〜」と手を振り、笑顔を振りまく加瀬君はやっぱり非の打ち所のないイケメンで、由香以外の女子部員は名残惜しそうに手を振り返している。

 由香は……

「ふ〜ん、『やれば出来る男』ね」
「な、なんだよ、やればいいんだろやるよ……」

 はめられた……練習に部活ーー両方なんて出来るのか? アイツ僕に恨みでもあるのかよ……