危険すぎる恋に、落ちてしまいました。3

その日の夜。


美羽はため息をひとつこぼしながら、床に広げた旅行バッグに服を詰めていた。
畳まれたTシャツを入れては、また取り出し、意味もなく畳み直す。

(……ほんと、急すぎなんだから!)

スマホを肩と頬に挟みながら、もう一度ため息。

「……椿くん?」

『あぁ、美羽?どうした』

受話口から届く、いつもより少し低くて落ち着いた声。

それだけで、胸の奥がすっと軽くなる。

「今ね、パパの実家に行く準備してるの。ほんと急だよ!何にも教えてくれないんだから……」

『美羽の父さんの実家?そうか。前に、田舎から来たって言ってたな』

「そうそう。急に“明日から行くぞ”って……」

美羽はベッドの端に腰掛け、カーテン越しに夜空を見上げた。

「……それでね。椿くんのことも相談したんだけど……やっぱり、反対されちゃった」

『……だろうな』

さも分かっていたような返事に、美羽は小さく笑ってしまう。

「そんなに……駄目なことなのかな」

星明かりが、窓ガラスに淡く映る。

「私は、ずーっと椿くんといたいだけなのに……甘えすぎなのかな……」

声が、少し震えた。
椿は少し間を置いてから、優しく言った。

『美羽は一人っ子なんだろ?』

「……うん」

『だから余計、親として心配すんのは当たり前だろ。』

くすっと、向こうで小さな笑い声。

『俺もさ、美羽の父さんの気持ち、なんとなく分かるよ』

美羽は胸がきゅっとなる。

『だからな』

椿の声が、少しだけ真剣になる。

『あんまり両親が反対するようだったら、俺も何か策は考えてる』

「……え?」

『でも、最終的にどうしたいかは、美羽の気持ち次第だ』

『またそれについては、ちゃんと話そうぜ。な?』

「……うん」

少し悲しそうな顔で、美羽は頷いた。

「……ありがとう、椿くん」

電話が切れたあと、美羽はそのままベッドに倒れ込んだ。
スマホの画面には、
美羽と椿が並んで笑っているツーショット写真。

「……きっと」

ぽつりと、呟く。

「私が、まだ何も答えを見つけられてないからだよね……」

「どうしたら……椿くんと、一緒にいられるんだろう……」

その声は、やがて静かな寝息に溶けていった。




翌日。

東京を離れ、電車を乗り継ぎ、さらにバスに揺られて——
美羽は、パパの実家に到着していた。
見渡す限りの田んぼ。
アスファルトよりも濃い土の匂い。
蝉の声が、遠慮なく空に響いている。

「……静かすぎでしょ」

思わず、ぽつり。

(高3最後の夏休みなのに……)

パパはというと、実家に着いた瞬間から上機嫌で、
「やっぱり田舎は最高だなぁ~!」

縁側に腰掛け、お茶をすすっている。
美羽は一人、庭先を歩きながら空を見上げた。

(椿くん、今ごろ何してるかな……)

スマホを取り出しかけて、やめる。

(だめだめ……ちゃんと、自分の気持ち考えて決めなきゃ)

そのときだった。

——パンッ。ーダンッ!

乾いた音が、風に乗って届く。

「……空手の音?」

音のする方へ足を向けると、
小さな体育館のような建物が見えてきた。
中を覗いた瞬間——

「もっと腰を落とせ!構えが甘いぞー!」

低く、よく通る声。

「……え?」

美羽の目が、大きく見開かれる。
そこにいたのは——

「……佐々木、先生?」

白い道着に身を包み、腕を組んで子どもたちを見ている男性。
中学時代、美羽が空手を習っていた頃の恩師だった。

「お?」

佐々木先生も、美羽に気づき、目を丸くする。

「……おお?」
「雨宮じゃねぇか!!」
「ひっさしぶりだなぁ!」
「佐々木先生!!」

美羽は、思わず駆け寄っていた。

「なんで、ここに……!」
「なんでって、俺はずっとここで稽古つけてんだよ」
豪快に笑う佐々木先生。

「それより、本当に久しぶりだなー!元気だっか?」背、伸びたな!!」
「……顔は、あんまり変わってねぇけど」

「え、先生ひどい!」

二人のやり取りに、子どもたちがざわつく。

「先生、このお姉ちゃん誰ぇ?」

「強いの~?」

「空手できるの~?!」

佐々木先生は、美羽を一瞥してニヤリ。

「あぁ、元・俺の教え子だ」

「当時は、なかなか拳が良かったぞー」

「え、じゃあ黒帯?!」

「すごーい!お姉ちゃん!!」

一気に囲まれ、おろおろする美羽。

「ねぇねぇ!教えて!」

「一緒にやろうよ!」

「帰らないで!」

「えぇ、ちょ、ちょっと……!」

(……ああ)
(この感じ、久しぶりだなぁ)



その日は成り行きで、
美羽が子どもたちに空手を教えることになった。

「はい、みんな構えて!」

「膝はこう、力抜いてね」

「そうそう、上手!」

きらきらした目。
素直な動き。

「お姉ちゃん、すごーい!」

「先生より優しい!」

「おい、最後の一言余計だぞ!」

道場に笑いが広がる。

(……楽しい、なんだろう。すごく晴れやかだ)

稽古の終わり、佐々木先生が声をかけた。

「雨宮、久しぶりにやるか?」

「……え?」

「俺と勝負」

美羽は一瞬迷い、頷いた。

「はい……師範、お願いします」

構えた瞬間、身体が思い出す。
間合い。
呼吸。
視線。

だが——
「甘ぇ!」

一瞬の隙を突かれ、美羽は床に転がった。

「……っ!!」
「はい、俺の勝ち」

差し出される手。

「ブランクあるな」

「……そうですね」

悔しい。でも、清々しい。
佐々木先生は、じっと美羽を見て言った。

「なぁ雨宮、何か悩んでるんじゃないのか?」

図星だった。
佐々木先生には、お見通しのようだ。
美羽は、ぽつりぽつりと話し始めた。
東京の学校。
黒薔薇学園。
椿の留学。
将来の不安。
聞き終えた佐々木先生は、顎をさすりながら言った。

「人はな、悩みながら進むもんなんだ」
「あの日、お前が空手を急に辞めたのも、決して間違いなんかじゃねぇ」
「お前、相変わらず真っ直ぐだからな。変わってなくて俺は安心したぞ?」
「それはきっと…未来へのヒントになるんじゃねぇのか?」
「美しい羽は、どこまでも飛べるだろう?」

「……先生」

その瞬間——

「お姉ちゃーんっ!」
「また空手教えてよ!」
「明日も来てね!」
「帰らないでぇ!」

子どもたちが、ぎゅっと美羽に抱きつく。
小さな手。
真剣な目。
頼る視線。
胸の奥が、じんわり熱くなる。

(……私)
(誰かを助けたい)
(支えたい)
(成長を、見守りたい)

全部、繋がっている。

「……佐々木先生」
「私……できるかな」

佐々木先生は、大きく笑った。

「あぁ。何があっても、お前らしくいれたらそれで最高だ」

美羽は、優しく笑った。

「うん、そうですよね。」


「皆、また教えに来るよ!」

「「「「やったぁ~!」」」」

夏の風が、道着の裾を揺らす。

美羽の胸に、確かな答えが芽生えていた。

「教師かぁ……ありかも」
「うん。そうだよ!!」


——この夏は、
恋だけじゃなく、
自分の未来を掴む夏になる。