その日の夜。
美羽はため息をひとつこぼしながら、床に広げた旅行バッグに服を詰めていた。
畳まれたTシャツを入れては、また取り出し、意味もなく畳み直す。
(……ほんと、急すぎなんだから!)
スマホを肩と頬に挟みながら、もう一度ため息。
「……椿くん?」
『あぁ、美羽?どうした』
受話口から届く、いつもより少し低くて落ち着いた声。
それだけで、胸の奥がすっと軽くなる。
「今ね、パパの実家に行く準備してるの。ほんと急だよ!何にも教えてくれないんだから……」
『美羽の父さんの実家?そうか。前に、田舎から来たって言ってたな』
「そうそう。急に“明日から行くぞ”って……」
美羽はベッドの端に腰掛け、カーテン越しに夜空を見上げた。
「……それでね。椿くんのことも相談したんだけど……やっぱり、反対されちゃった」
『……だろうな』
さも分かっていたような返事に、美羽は小さく笑ってしまう。
「そんなに……駄目なことなのかな」
星明かりが、窓ガラスに淡く映る。
「私は、ずーっと椿くんといたいだけなのに……甘えすぎなのかな……」
声が、少し震えた。
椿は少し間を置いてから、優しく言った。
『美羽は一人っ子なんだろ?』
「……うん」
『だから余計、親として心配すんのは当たり前だろ。』
くすっと、向こうで小さな笑い声。
『俺もさ、美羽の父さんの気持ち、なんとなく分かるよ』
美羽は胸がきゅっとなる。
『だからな』
椿の声が、少しだけ真剣になる。
『あんまり両親が反対するようだったら、俺も何か策は考えてる』
「……え?」
『でも、最終的にどうしたいかは、美羽の気持ち次第だ』
『またそれについては、ちゃんと話そうぜ。な?』
「……うん」
少し悲しそうな顔で、美羽は頷いた。
「……ありがとう、椿くん」
電話が切れたあと、美羽はそのままベッドに倒れ込んだ。
スマホの画面には、
美羽と椿が並んで笑っているツーショット写真。
「……きっと」
ぽつりと、呟く。
「私が、まだ何も答えを見つけられてないからだよね……」
「どうしたら……椿くんと、一緒にいられるんだろう……」
その声は、やがて静かな寝息に溶けていった。
翌日。
東京を離れ、電車を乗り継ぎ、さらにバスに揺られて——
美羽は、パパの実家に到着していた。
見渡す限りの田んぼ。
アスファルトよりも濃い土の匂い。
蝉の声が、遠慮なく空に響いている。
「……静かすぎでしょ」
思わず、ぽつり。
(高3最後の夏休みなのに……)
パパはというと、実家に着いた瞬間から上機嫌で、
「やっぱり田舎は最高だなぁ~!」
縁側に腰掛け、お茶をすすっている。
美羽は一人、庭先を歩きながら空を見上げた。
(椿くん、今ごろ何してるかな……)
スマホを取り出しかけて、やめる。
(だめだめ……ちゃんと、自分の気持ち考えて決めなきゃ)
そのときだった。
——パンッ。ーダンッ!
乾いた音が、風に乗って届く。
「……空手の音?」
音のする方へ足を向けると、
小さな体育館のような建物が見えてきた。
中を覗いた瞬間——
「もっと腰を落とせ!構えが甘いぞー!」
低く、よく通る声。
「……え?」
美羽の目が、大きく見開かれる。
そこにいたのは——
「……佐々木、先生?」
白い道着に身を包み、腕を組んで子どもたちを見ている男性。
中学時代、美羽が空手を習っていた頃の恩師だった。
「お?」
佐々木先生も、美羽に気づき、目を丸くする。
「……おお?」
「雨宮じゃねぇか!!」
「ひっさしぶりだなぁ!」
「佐々木先生!!」
美羽は、思わず駆け寄っていた。
「なんで、ここに……!」
「なんでって、俺はずっとここで稽古つけてんだよ」
豪快に笑う佐々木先生。
「それより、本当に久しぶりだなー!元気だっか?」背、伸びたな!!」
「……顔は、あんまり変わってねぇけど」
「え、先生ひどい!」
二人のやり取りに、子どもたちがざわつく。
「先生、このお姉ちゃん誰ぇ?」
「強いの~?」
「空手できるの~?!」
佐々木先生は、美羽を一瞥してニヤリ。
「あぁ、元・俺の教え子だ」
「当時は、なかなか拳が良かったぞー」
「え、じゃあ黒帯?!」
「すごーい!お姉ちゃん!!」
一気に囲まれ、おろおろする美羽。
「ねぇねぇ!教えて!」
「一緒にやろうよ!」
「帰らないで!」
「えぇ、ちょ、ちょっと……!」
(……ああ)
(この感じ、久しぶりだなぁ)
その日は成り行きで、
美羽が子どもたちに空手を教えることになった。
「はい、みんな構えて!」
「膝はこう、力抜いてね」
「そうそう、上手!」
きらきらした目。
素直な動き。
「お姉ちゃん、すごーい!」
「先生より優しい!」
「おい、最後の一言余計だぞ!」
道場に笑いが広がる。
(……楽しい、なんだろう。すごく晴れやかだ)
稽古の終わり、佐々木先生が声をかけた。
「雨宮、久しぶりにやるか?」
「……え?」
「俺と勝負」
美羽は一瞬迷い、頷いた。
「はい……師範、お願いします」
構えた瞬間、身体が思い出す。
間合い。
呼吸。
視線。
だが——
「甘ぇ!」
一瞬の隙を突かれ、美羽は床に転がった。
「……っ!!」
「はい、俺の勝ち」
差し出される手。
「ブランクあるな」
「……そうですね」
悔しい。でも、清々しい。
佐々木先生は、じっと美羽を見て言った。
「なぁ雨宮、何か悩んでるんじゃないのか?」
図星だった。
佐々木先生には、お見通しのようだ。
美羽は、ぽつりぽつりと話し始めた。
東京の学校。
黒薔薇学園。
椿の留学。
将来の不安。
聞き終えた佐々木先生は、顎をさすりながら言った。
「人はな、悩みながら進むもんなんだ」
「あの日、お前が空手を急に辞めたのも、決して間違いなんかじゃねぇ」
「お前、相変わらず真っ直ぐだからな。変わってなくて俺は安心したぞ?」
「それはきっと…未来へのヒントになるんじゃねぇのか?」
「美しい羽は、どこまでも飛べるだろう?」
「……先生」
その瞬間——
「お姉ちゃーんっ!」
「また空手教えてよ!」
「明日も来てね!」
「帰らないでぇ!」
子どもたちが、ぎゅっと美羽に抱きつく。
小さな手。
真剣な目。
頼る視線。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
(……私)
(誰かを助けたい)
(支えたい)
(成長を、見守りたい)
全部、繋がっている。
「……佐々木先生」
「私……できるかな」
佐々木先生は、大きく笑った。
「あぁ。何があっても、お前らしくいれたらそれで最高だ」
美羽は、優しく笑った。
「うん、そうですよね。」
「皆、また教えに来るよ!」
「「「「やったぁ~!」」」」
夏の風が、道着の裾を揺らす。
美羽の胸に、確かな答えが芽生えていた。
「教師かぁ……ありかも」
「うん。そうだよ!!」
——この夏は、
恋だけじゃなく、
自分の未来を掴む夏になる。
美羽はため息をひとつこぼしながら、床に広げた旅行バッグに服を詰めていた。
畳まれたTシャツを入れては、また取り出し、意味もなく畳み直す。
(……ほんと、急すぎなんだから!)
スマホを肩と頬に挟みながら、もう一度ため息。
「……椿くん?」
『あぁ、美羽?どうした』
受話口から届く、いつもより少し低くて落ち着いた声。
それだけで、胸の奥がすっと軽くなる。
「今ね、パパの実家に行く準備してるの。ほんと急だよ!何にも教えてくれないんだから……」
『美羽の父さんの実家?そうか。前に、田舎から来たって言ってたな』
「そうそう。急に“明日から行くぞ”って……」
美羽はベッドの端に腰掛け、カーテン越しに夜空を見上げた。
「……それでね。椿くんのことも相談したんだけど……やっぱり、反対されちゃった」
『……だろうな』
さも分かっていたような返事に、美羽は小さく笑ってしまう。
「そんなに……駄目なことなのかな」
星明かりが、窓ガラスに淡く映る。
「私は、ずーっと椿くんといたいだけなのに……甘えすぎなのかな……」
声が、少し震えた。
椿は少し間を置いてから、優しく言った。
『美羽は一人っ子なんだろ?』
「……うん」
『だから余計、親として心配すんのは当たり前だろ。』
くすっと、向こうで小さな笑い声。
『俺もさ、美羽の父さんの気持ち、なんとなく分かるよ』
美羽は胸がきゅっとなる。
『だからな』
椿の声が、少しだけ真剣になる。
『あんまり両親が反対するようだったら、俺も何か策は考えてる』
「……え?」
『でも、最終的にどうしたいかは、美羽の気持ち次第だ』
『またそれについては、ちゃんと話そうぜ。な?』
「……うん」
少し悲しそうな顔で、美羽は頷いた。
「……ありがとう、椿くん」
電話が切れたあと、美羽はそのままベッドに倒れ込んだ。
スマホの画面には、
美羽と椿が並んで笑っているツーショット写真。
「……きっと」
ぽつりと、呟く。
「私が、まだ何も答えを見つけられてないからだよね……」
「どうしたら……椿くんと、一緒にいられるんだろう……」
その声は、やがて静かな寝息に溶けていった。
翌日。
東京を離れ、電車を乗り継ぎ、さらにバスに揺られて——
美羽は、パパの実家に到着していた。
見渡す限りの田んぼ。
アスファルトよりも濃い土の匂い。
蝉の声が、遠慮なく空に響いている。
「……静かすぎでしょ」
思わず、ぽつり。
(高3最後の夏休みなのに……)
パパはというと、実家に着いた瞬間から上機嫌で、
「やっぱり田舎は最高だなぁ~!」
縁側に腰掛け、お茶をすすっている。
美羽は一人、庭先を歩きながら空を見上げた。
(椿くん、今ごろ何してるかな……)
スマホを取り出しかけて、やめる。
(だめだめ……ちゃんと、自分の気持ち考えて決めなきゃ)
そのときだった。
——パンッ。ーダンッ!
乾いた音が、風に乗って届く。
「……空手の音?」
音のする方へ足を向けると、
小さな体育館のような建物が見えてきた。
中を覗いた瞬間——
「もっと腰を落とせ!構えが甘いぞー!」
低く、よく通る声。
「……え?」
美羽の目が、大きく見開かれる。
そこにいたのは——
「……佐々木、先生?」
白い道着に身を包み、腕を組んで子どもたちを見ている男性。
中学時代、美羽が空手を習っていた頃の恩師だった。
「お?」
佐々木先生も、美羽に気づき、目を丸くする。
「……おお?」
「雨宮じゃねぇか!!」
「ひっさしぶりだなぁ!」
「佐々木先生!!」
美羽は、思わず駆け寄っていた。
「なんで、ここに……!」
「なんでって、俺はずっとここで稽古つけてんだよ」
豪快に笑う佐々木先生。
「それより、本当に久しぶりだなー!元気だっか?」背、伸びたな!!」
「……顔は、あんまり変わってねぇけど」
「え、先生ひどい!」
二人のやり取りに、子どもたちがざわつく。
「先生、このお姉ちゃん誰ぇ?」
「強いの~?」
「空手できるの~?!」
佐々木先生は、美羽を一瞥してニヤリ。
「あぁ、元・俺の教え子だ」
「当時は、なかなか拳が良かったぞー」
「え、じゃあ黒帯?!」
「すごーい!お姉ちゃん!!」
一気に囲まれ、おろおろする美羽。
「ねぇねぇ!教えて!」
「一緒にやろうよ!」
「帰らないで!」
「えぇ、ちょ、ちょっと……!」
(……ああ)
(この感じ、久しぶりだなぁ)
その日は成り行きで、
美羽が子どもたちに空手を教えることになった。
「はい、みんな構えて!」
「膝はこう、力抜いてね」
「そうそう、上手!」
きらきらした目。
素直な動き。
「お姉ちゃん、すごーい!」
「先生より優しい!」
「おい、最後の一言余計だぞ!」
道場に笑いが広がる。
(……楽しい、なんだろう。すごく晴れやかだ)
稽古の終わり、佐々木先生が声をかけた。
「雨宮、久しぶりにやるか?」
「……え?」
「俺と勝負」
美羽は一瞬迷い、頷いた。
「はい……師範、お願いします」
構えた瞬間、身体が思い出す。
間合い。
呼吸。
視線。
だが——
「甘ぇ!」
一瞬の隙を突かれ、美羽は床に転がった。
「……っ!!」
「はい、俺の勝ち」
差し出される手。
「ブランクあるな」
「……そうですね」
悔しい。でも、清々しい。
佐々木先生は、じっと美羽を見て言った。
「なぁ雨宮、何か悩んでるんじゃないのか?」
図星だった。
佐々木先生には、お見通しのようだ。
美羽は、ぽつりぽつりと話し始めた。
東京の学校。
黒薔薇学園。
椿の留学。
将来の不安。
聞き終えた佐々木先生は、顎をさすりながら言った。
「人はな、悩みながら進むもんなんだ」
「あの日、お前が空手を急に辞めたのも、決して間違いなんかじゃねぇ」
「お前、相変わらず真っ直ぐだからな。変わってなくて俺は安心したぞ?」
「それはきっと…未来へのヒントになるんじゃねぇのか?」
「美しい羽は、どこまでも飛べるだろう?」
「……先生」
その瞬間——
「お姉ちゃーんっ!」
「また空手教えてよ!」
「明日も来てね!」
「帰らないでぇ!」
子どもたちが、ぎゅっと美羽に抱きつく。
小さな手。
真剣な目。
頼る視線。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
(……私)
(誰かを助けたい)
(支えたい)
(成長を、見守りたい)
全部、繋がっている。
「……佐々木先生」
「私……できるかな」
佐々木先生は、大きく笑った。
「あぁ。何があっても、お前らしくいれたらそれで最高だ」
美羽は、優しく笑った。
「うん、そうですよね。」
「皆、また教えに来るよ!」
「「「「やったぁ~!」」」」
夏の風が、道着の裾を揺らす。
美羽の胸に、確かな答えが芽生えていた。
「教師かぁ……ありかも」
「うん。そうだよ!!」
——この夏は、
恋だけじゃなく、
自分の未来を掴む夏になる。



