放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
西日が教室の窓から斜めに差し込み、机の角や床に長い影を落としている。
チョークの粉が、光の筋の中でゆっくりと舞っていた。
教室の一角。
机を寄せて座る三人のうち、中心にいる美羽は、英語の教科書を開いたまま、どこか緊張した面持ちだった。
「いい、美羽ちゃん」
秋人は、ペン先で美羽のノートをとん、と軽く叩く。
「英語はね、結局文法が基本なんだよ。ここが崩れると、全部分からなくなるからね」
淡々とした口調。
けれど距離が、近い。
「ほら、この主語に、この動詞を当てはめると……」
秋人は美羽の横に少し身を寄せ、自然な動きで教科書を指さした。
そのまま、顔を近づける。
美羽の肩が、ぴくっと跳ねる。
次の瞬間、秋人の唇が美羽の耳元へと近づき、低く、囁いた。
「I can’t take my eyes off you.…Be mine.」
吐息混じりの英語。
意味よりも先に、声の温度が肌に触れる。
「……っ!」
美羽の背筋に、ぞわっと電流が走る。
「え、えっーと……意味は……」
必死に教科書へ視線を戻そうとするが、心臓の音がうるさくて、文字が頭に入ってこない。
秋人は、美羽の反応を確かめるように、綺麗なオッドアイを細めた。
そして、何の前触れもなく、美羽の顎にそっと指をかける。
——顎クイ。
「……?」
顔が上を向かされ、視線が絡む。
「君から、目をそらせない…俺のものになって…」
真っ直ぐで、逃げ場のない言葉。
「あ、秋人くん……」
美羽の目が、じわっと潤む。
頭では「英語」だと分かっているのに、胸が勝手に反応してしまう。
「きゃーーーっ!!」
次の瞬間、美羽は耐えきれず、机に突っ伏した。
「もう無理!!無理無理無理無理っ!!」
足をバタバタさせながら、両手で顔を覆う。
「全然!!頭に入ってこない!!」
真っ赤になった耳まで、隠せていない。
その様子を、斜め前から冷たい視線で見下ろしていた人物がいた。
「……ってか」
腕を組んだ莉子が、低い声で言う。
「何これ?何なの?」
「私はいったい、さっきから何を見させられてるんでしょうか?」
教室の空気が、ぴしっと凍る。
秋人はきょとんと瞬きをしてから、にこっと微笑んだ。
「え?何言ってるの莉子」
「放課後、美羽ちゃんと俺と莉子で英語の勉強会するって言ったでしょ?」
さらっと、憎たらしい爽やかなウインクをする莉子の兄。
莉子のこめかみに、青筋が浮かんだ。
「いやいやいや!!」
一気に距離を詰め、美羽の胸ぐらを掴む。
「おかしくない?!」
「もうさっきから、英語で口説いてるだけじゃん?!
ちょっと美羽!?こんなのでいいの?!
こんなお兄ちゃんに任せて、美羽の人生それでいいのーー?!!」
ぐらぐらと揺さぶられる美羽。
「へ、へるぷみー……」
目を回し、今にも倒れそうだ。
秋人は机に肘をつき、余裕の表情を崩さない。
「だからスパルタって言ったでしょ?」
「いやいや、なんのスパルタなのよ?!」
「俺に顔赤くしてたら、美羽ちゃん留学先で心配でしょ?」
指先で、空中に線を引くような仕草。
「今のうちに男の免疫、つけとかないと」
「こんな風に口説いてくる外国人、ざらにいるんだから~」
きらきらした目で、にやり。
莉子は深く息を吐いた。
「……もう」
「今の美羽とお兄ちゃんの関係性が不可解だよ」
「椿くん、また怒るんじゃないのー?」
そのとき。
「それなら、心配いらないよ?」
背後から、ひょいっと顔が覗いた。
「俺が見張りだからね」
そこにいたのは遼だった。
「ひゃっ?!」
莉子は思わず体を跳ねさせ、
「り、りり、遼くん!?!?」
顔を真っ赤にする莉子。
秋人は面白そうに目を細める。
「え?珍しく莉子が動揺してる」
「何々?そういうこと?」
「ちょっと!!秋人くん!」
美羽が慌てて、秋人の口を手で塞ぐ。
「それ言っちゃだめだよ!しぃーっ!!」
遼は気にせず、莉子の教科書を手に取った。
「ふーん」
「結構楽しそうなことしてるねぇ?」
「今度の中間テストの勉強?」
「……そ、そうだけど?」
莉子は視線を逸らし、頬を赤くする。
「それ以外、ないでしょ?」
美羽は内心、目を輝かせていた。
(へぇ~…莉子、やっぱり遼くんのこと好きなんだぁ)
遼は涼しい顔で、ふっと笑う。
「そういえば莉子ちゃん、あの約束まだ続いてるから、覚えておいてね?」
「わ、わかってるよ遼くん!」
莉子はぷいっと顔を背ける。
ぽかん、とする秋人と美羽。
「……?」
「……?」
秋人は小さく笑った。
「ふーん……そういうことね」
まるで家族を見守るような、優しい目だった。
帰り道。
夕焼けが街をオレンジ色に染め、空気が少しだけ冷えている。
「ちょっとペース、早かったかな?」
秋人が歩きながら、美羽を見る。
「美羽ちゃん、大丈夫だった?」
「う、うん!」
美羽は慌てて笑った。
「大丈夫!コツ、掴めてきたから!ありがとう、秋人くん!」
(うう…、……秋人くんの声が良すぎて、半分くらいしか頭に入ってなかったなんて、言えない……)
途中で道が分かれ、秋人と莉子は去っていく。
残された美羽と遼は、並んで歩き始めた。
「ねぇ、遼くん!」
美羽が少し身を乗り出す。
「遼くんって、いつのまに莉子と仲良くなったの?」
「え?」
遼は一瞬、言葉に詰まり、
「あー……まぁ、ちょっとだけ、ね」
と曖昧に答えた。
「ふーん?」
美羽はにこっと笑う。
「でも、莉子、遼くんと話してるとき本当に嬉しそうだったけどなぁ…」
遼は目を見開いた。
「……?そうなの?莉子ちゃんが?」
「うん!」
「あんなに可愛く笑う莉子、私初めて見たから!なんだか嬉しくなっちゃって!」
「あ、私、次の電車だからここまででいいよ!」
「じゃーね!遼くん、バイバイ!」
「あ、あぁ…またね美羽ちゃん」
そう言って、美羽は軽やかに走り去った。
遼は立ち止まり、夕焼けの空を見上げる。
「……そっか」
「てっきり、嫌われてるかと思ってたんだけどなぁ」
小さく息を吐き、苦笑する。
「……何考えてんだ俺」
「らしくないな……」
オレンジ色の空に、風が静かに吹き抜けていった。
西日が教室の窓から斜めに差し込み、机の角や床に長い影を落としている。
チョークの粉が、光の筋の中でゆっくりと舞っていた。
教室の一角。
机を寄せて座る三人のうち、中心にいる美羽は、英語の教科書を開いたまま、どこか緊張した面持ちだった。
「いい、美羽ちゃん」
秋人は、ペン先で美羽のノートをとん、と軽く叩く。
「英語はね、結局文法が基本なんだよ。ここが崩れると、全部分からなくなるからね」
淡々とした口調。
けれど距離が、近い。
「ほら、この主語に、この動詞を当てはめると……」
秋人は美羽の横に少し身を寄せ、自然な動きで教科書を指さした。
そのまま、顔を近づける。
美羽の肩が、ぴくっと跳ねる。
次の瞬間、秋人の唇が美羽の耳元へと近づき、低く、囁いた。
「I can’t take my eyes off you.…Be mine.」
吐息混じりの英語。
意味よりも先に、声の温度が肌に触れる。
「……っ!」
美羽の背筋に、ぞわっと電流が走る。
「え、えっーと……意味は……」
必死に教科書へ視線を戻そうとするが、心臓の音がうるさくて、文字が頭に入ってこない。
秋人は、美羽の反応を確かめるように、綺麗なオッドアイを細めた。
そして、何の前触れもなく、美羽の顎にそっと指をかける。
——顎クイ。
「……?」
顔が上を向かされ、視線が絡む。
「君から、目をそらせない…俺のものになって…」
真っ直ぐで、逃げ場のない言葉。
「あ、秋人くん……」
美羽の目が、じわっと潤む。
頭では「英語」だと分かっているのに、胸が勝手に反応してしまう。
「きゃーーーっ!!」
次の瞬間、美羽は耐えきれず、机に突っ伏した。
「もう無理!!無理無理無理無理っ!!」
足をバタバタさせながら、両手で顔を覆う。
「全然!!頭に入ってこない!!」
真っ赤になった耳まで、隠せていない。
その様子を、斜め前から冷たい視線で見下ろしていた人物がいた。
「……ってか」
腕を組んだ莉子が、低い声で言う。
「何これ?何なの?」
「私はいったい、さっきから何を見させられてるんでしょうか?」
教室の空気が、ぴしっと凍る。
秋人はきょとんと瞬きをしてから、にこっと微笑んだ。
「え?何言ってるの莉子」
「放課後、美羽ちゃんと俺と莉子で英語の勉強会するって言ったでしょ?」
さらっと、憎たらしい爽やかなウインクをする莉子の兄。
莉子のこめかみに、青筋が浮かんだ。
「いやいやいや!!」
一気に距離を詰め、美羽の胸ぐらを掴む。
「おかしくない?!」
「もうさっきから、英語で口説いてるだけじゃん?!
ちょっと美羽!?こんなのでいいの?!
こんなお兄ちゃんに任せて、美羽の人生それでいいのーー?!!」
ぐらぐらと揺さぶられる美羽。
「へ、へるぷみー……」
目を回し、今にも倒れそうだ。
秋人は机に肘をつき、余裕の表情を崩さない。
「だからスパルタって言ったでしょ?」
「いやいや、なんのスパルタなのよ?!」
「俺に顔赤くしてたら、美羽ちゃん留学先で心配でしょ?」
指先で、空中に線を引くような仕草。
「今のうちに男の免疫、つけとかないと」
「こんな風に口説いてくる外国人、ざらにいるんだから~」
きらきらした目で、にやり。
莉子は深く息を吐いた。
「……もう」
「今の美羽とお兄ちゃんの関係性が不可解だよ」
「椿くん、また怒るんじゃないのー?」
そのとき。
「それなら、心配いらないよ?」
背後から、ひょいっと顔が覗いた。
「俺が見張りだからね」
そこにいたのは遼だった。
「ひゃっ?!」
莉子は思わず体を跳ねさせ、
「り、りり、遼くん!?!?」
顔を真っ赤にする莉子。
秋人は面白そうに目を細める。
「え?珍しく莉子が動揺してる」
「何々?そういうこと?」
「ちょっと!!秋人くん!」
美羽が慌てて、秋人の口を手で塞ぐ。
「それ言っちゃだめだよ!しぃーっ!!」
遼は気にせず、莉子の教科書を手に取った。
「ふーん」
「結構楽しそうなことしてるねぇ?」
「今度の中間テストの勉強?」
「……そ、そうだけど?」
莉子は視線を逸らし、頬を赤くする。
「それ以外、ないでしょ?」
美羽は内心、目を輝かせていた。
(へぇ~…莉子、やっぱり遼くんのこと好きなんだぁ)
遼は涼しい顔で、ふっと笑う。
「そういえば莉子ちゃん、あの約束まだ続いてるから、覚えておいてね?」
「わ、わかってるよ遼くん!」
莉子はぷいっと顔を背ける。
ぽかん、とする秋人と美羽。
「……?」
「……?」
秋人は小さく笑った。
「ふーん……そういうことね」
まるで家族を見守るような、優しい目だった。
帰り道。
夕焼けが街をオレンジ色に染め、空気が少しだけ冷えている。
「ちょっとペース、早かったかな?」
秋人が歩きながら、美羽を見る。
「美羽ちゃん、大丈夫だった?」
「う、うん!」
美羽は慌てて笑った。
「大丈夫!コツ、掴めてきたから!ありがとう、秋人くん!」
(うう…、……秋人くんの声が良すぎて、半分くらいしか頭に入ってなかったなんて、言えない……)
途中で道が分かれ、秋人と莉子は去っていく。
残された美羽と遼は、並んで歩き始めた。
「ねぇ、遼くん!」
美羽が少し身を乗り出す。
「遼くんって、いつのまに莉子と仲良くなったの?」
「え?」
遼は一瞬、言葉に詰まり、
「あー……まぁ、ちょっとだけ、ね」
と曖昧に答えた。
「ふーん?」
美羽はにこっと笑う。
「でも、莉子、遼くんと話してるとき本当に嬉しそうだったけどなぁ…」
遼は目を見開いた。
「……?そうなの?莉子ちゃんが?」
「うん!」
「あんなに可愛く笑う莉子、私初めて見たから!なんだか嬉しくなっちゃって!」
「あ、私、次の電車だからここまででいいよ!」
「じゃーね!遼くん、バイバイ!」
「あ、あぁ…またね美羽ちゃん」
そう言って、美羽は軽やかに走り去った。
遼は立ち止まり、夕焼けの空を見上げる。
「……そっか」
「てっきり、嫌われてるかと思ってたんだけどなぁ」
小さく息を吐き、苦笑する。
「……何考えてんだ俺」
「らしくないな……」
オレンジ色の空に、風が静かに吹き抜けていった。



