危険すぎる恋に、落ちてしまいました。3

中間テスト二週間前。
夜の静けさに包まれた美羽の部屋では、紙が擦れる音と、小さなうめき声だけが響いていた。
ベッドの上に広げられた、年季の入ったテスト用紙たち。
黄ばみかけたプリントを指でなぞりながら、美羽は眉を寄せる。

「えーと……」

独り言が、ぽつぽつと零れる。

「これが一年の時の英語の中間テスト……七十点でしょ~」

紙を一枚めくる。

「で、これが期末……六十八点」

さらに、もう一枚。

「……二年の中間テスト……六十二点……」

そこで、ぴたりと動きが止まった。

「……って、待って」

美羽は、ゆっくり顔を上げる。

「これ、かなり不味いんじゃない?!!」

次の瞬間。

「やばいやばいやばい!!」

頭を抱え、ベッドの上でごろんと転がる。

「これじゃ留学どころじゃないよ!!」

「土俵っていうか、空手の道場にすら足踏み入れてないじゃんこれぇ!?」

天井を見上げ、両手をばたばたさせる。

「どうしよ~っ!!」


その叫びは、夜の部屋に虚しく反響した。
そこから、美羽の徹夜が始まった。
分厚い英単語帳。
付箋だらけの文法ノート。
意味の分からない例文たち。

「……これは……何形?」

「……え、なんで過去分詞?」

ぶつぶつと呟きながら、鉛筆を走らせる。
けれど、集中力は長く続かない。
いつの間にか、美羽は机に伏せていた。
腕の中には、英単語帳。

「……う~、椿くん……」

眠りに落ちる寸前、かすれた声で呟く。

「雨宮美羽は……結構バカかもしれないです……」
「……ごめんなさい……」

そう言って、美羽はそのまま眠ってしまった。




翌朝。
美羽の目の下には、しっかりと隈ができていた。

「……」

机に突っ伏す美羽を見て、莉子が固まる。

「え、どーしたの美羽?!」

近づいて、顔を覗き込む。

「目の下の隈、ひどくない?!」
「ちょっとメイクで直しなよ!可愛い顔台無しだよ?!」

美羽は、力なく顔を上げる。

「うーん……」

声も覇気がない。

「椿くんにも心配されたぁ……」

そして、再び机に伏せる。

「……ってか……眠い~……」

「ちょっと!?」

莉子は慌てる。

「美羽、これから授業だよ?!寝ちゃだめだよ~?おーい!」

だが美羽は、もう半分夢の中だった。





昼休み。
ベランダには、柔らかな春の光が差し込んでいる。
二人並んで腰掛けながら、莉子は美羽の話を聞いていた。

「……え?」

莉子は目を丸くする。

「椿くんが留学?!!また急展開だね……」

美羽は、フェンスに額を預ける。

「そうなの……」

声が弱々しい。

「私も勢いで、一緒に行きたいって言っちゃったけど……」

振り返って、涙目。

「どうしよう莉子……私、英語だめかもしんない~……」

莉子は慌てて美羽の肩をさする。

「落ち着いて美羽!」

「まだ椿くんの留学、決まったわけじゃないんでしょ?」

「肩の力、抜きなよ!」

少し考えてから、続ける。

「そっかぁ、でも……もうすぐ中間テストだもんねぇ……」
「私も、お兄ちゃんとテスト勉強しなきゃなぁ……」

その言葉を聞いた瞬間。
美羽の目が、ぱっと輝いた。

「……秋人くん!!」

そして、雷に打たれたように。

「そっか!!」

莉子の肩を掴む。

「そうだよ莉子!!」

「莉子には、秋人くんという留学プロがいるじゃん!!」

莉子は、ぎょっとした。

「え?」

「美羽、もしかして……」

「お兄ちゃんに英語教えてもらうつもり?」

「え?」

美羽はきょとんとする。

「何かだめなの?一番の近道じゃん!!なんで今まで気がつかなかったんだろう!!」

わくわくと、目が輝いている。
莉子は額に手を当てた。

「いや……」
「てかお兄ちゃんと色々あったばっかでしょ?美羽、ちょっとは気まずくないの?」

美羽は首を傾げる。

「え?だって秋人くんとは友達だよ?」

「ここで助け合わないと、友達じゃないでしょ?」

その純度百パーセントの笑顔に、莉子は深くため息をついた。

「……いや、ほぼ助けてもらってるからね、助け合ってないからそれ」

「大丈夫だよ!」

美羽は胸を張る。

「秋人くん、なんやかんや余裕あるタイプだし?
悠真くんみたいに、べたべた引きずらないよ!」
と、ウインク。
莉子は遠い目をした。

「……ここまでくると、お兄ちゃんとついでに悠真くん可哀想だわ……」

そして、はっとして聞く。

「てか、そもそもそれ椿くんじゃだめなの?」

美羽は、ぎくっと肩を震わせた。

「うーん…だってぇ…」

視線を落としながら。

「椿くんも家の事で大変だし……」

「私は私で、今やらなきゃいけないこと、頑張りたいの!!」

その言葉は、真剣だった。
莉子は少しだけ微笑んで、
「……ふーん」
「はぁ…、まぁいいけど」

スマホを取り出す。
「じゃぁ、お兄ちゃんに連絡してみる……」
そう言いながら顔を上げると——

「……あれ?」

美羽の姿はもうなかった。

「え?!ちょっと美羽?!」

ベランダに、春風だけが残る。

莉子は肩を落とした。

「……もう。すぐ突っぱしるんだからぁ…」

その頃、美羽は——
英語という名の修羅道へ、一直線に走り出していた。