もう嫌だ。何もかも、全てが嫌だ。
  密閉した空間、きっちりと止められた第一ボタン、私を取り囲むクラスメイト、先生の視線、男子の嘲笑を含んだ笑い声、女子の鋭い視線、ペアワークの憂鬱、先生に指名されるかもしれないという恐怖、後ろのクラスメイトから監視されているかもしれないという緊張感。
  逃げ出したい。逃げ出したい。全部捨てて逃げ出したい!
  私は突然、席から大きな音を立てて立ち上がった。椅子が嫌な音を立てて後ろに引き下がる。
  先生の話が止まった。男子の嘲笑を含んだ笑い声が止まった。女子からの鋭い視線が全て私に集まった。
  私は後ろに体を向けて、密集する机からみんなの荷物を跨いで通路を駆けた。私の方を向く、いくつもの顔を私は見ることができなかった。私は見なくてもいいと心の中で唱えて自分を安心させようとした。
  誰かの水筒が、私のつま先に当たって音を立てて倒れた。一瞬、気に留まったが、その倒れた水筒を立て直して、持ち主にごめんね、と言うことはしなかった。心の中で一言謝った。
  私は教室の後方の重たいドアを力いっぱいに開けた。思ったよりも大きな音が響く。しかし、私はそんなことには構わず、さっきの空間に敷き詰められている淀んだ空気よりも少し澄んだ空気の廊下に一歩を踏み込んだ。そして目先の教室棟と管理棟を繋ぐ、外の空間と一体化している渡り廊下に、あの空間から逃げ去るように走った。隣のクラスの教室内から窓を通して、私の後ろ姿を捉えられていないか不安を感じたが、それを確認することはできなかった。
  青空一面の下を走る。管理棟にあと僅か数歩といったところで気になって後ろを振り返っては見るが、先生や生徒が追いかけてくる様子はなかった。そんなもんか、と思った。そして心底安心した。
  管理棟に立ち入ると眼前の四階に繋がる階段を駆け上がった。静かな管理棟で私の高い足音だけが響いている状況がなんだか嬉しかった。誰もいない空間にいれるのが嬉しかった。
  管理棟四階にはすぐ右を曲がると倉庫代わりの教室と公衆トイレみたいな匂いがするトイレ、左を曲がると書道室、コンピューター室、突き当たりに音楽室がある。また廊下には窓に向かって机が並んでおり、私の穴場の自習室だった。すぐ下の三階にも自習室がこうやって位置しているのだが、人が多くて私には合わなかった。だからこそ、四階の自習室はあまりにも人が来ないため、私の穴場だった。来るのは生徒や先生ではなく雀ぐらいだった。
  今の私はどちらを曲がるでもなく、くるっと切り返して屋上に繋がる階段を続いて駆け上がった。踊り場より手前の階段の途中には『学校長より立ち入り禁止』とかかれた看板と長机で通せんぼされていた。
  いつもだったら、好奇心に満ちた目でそれより先の踊り場を眺めたりすることもあったのだが、飛躍しすぎた考えが頭の片隅にあったため、または理性が働いていたためか、一応階段の続きを行くことは一度たりともなかった。ちなみに飛躍しすぎた考えというのは、赤外線が張り巡らされていて警報がなるかもしれないだとか、そういう類のものだった。
  足の進み具合が悪くなっていく。少し怖かった。けれど、引き返す気は私にはなかった。今更引き返したところで何かが変わる訳がない。刹那の自由でも構わないから、あの空間から逃げ出したかった。
  踊り場を封じ込めている長机の下をくぐって踊り場に着く。しかし何も起こらなかった。私の飛躍しすぎた杞憂は本当にただの杞憂で終わってくれた。そしてまた心底安心した。
  残りの階段を上って再び踊り場に着く。そこから下の方を覗いて見たが、やはり誰もいない。綻んだ口元のまま後ろを向き、ドアノブを回した。ドアノブを引くと、ドアは開いた。
  多くの学校は屋上のドアは閉まっているという認識だったが、案外そうでもないのかもしれない。重たい鉄のドアの向こうには数段の階段と外の空間が広がっていた。
  風が通り抜ける。さっきまでの淀んだ空気が嘘みたいに澄んでいた。離れたところに見える柵に雀が止まっていた。
  軽快な足取りで階段を上って日光を浴びた。解放感と喜びで私はその場でクルクルと回った。私に驚いて雀は飛んでいってしまった。
  そのままテキトーな方へと向かう。一段の段差を踏んでから柵に体重を乗せて周囲を見回した。それなりの高さのアパートが近くに建っていたり下の方にも目をやると公園だったりがあった。さらに遠くの方を見ると、山沿いに電車が走っていた。
  私は段差に座って深呼吸をした。空気の味がした。本物の空気の味だった。
  両脚を伸ばして足をバタバタさせてリズムをとった。汚れた上履きを眺めた後は目を閉じてみる。足のリズムをとる音と風の音、周囲の音が澄ました耳には聞こえた。
  グッと両腕を上げて伸びをして、そのまま横に倒れた。青空が視界に広がった。一面ほとんどが美しい青色だった。薄くも濃くもないどっちつかずな繊細な青色だった。私はこの青色が好きだ。この青色はまるで私みたいで、なんだか私にたくさんの共感者ができているような気がして、あの空間にも嫌々ながら足を進める気を起こしてくれた。
  白くて脆い雲が青空の中をたなびきながら横断していた。左から右へと、西から東へと雲は流れていく。カラスが雲を追い越してどこかへ飛んでいく。
  目を閉じると暖かな日射が肌に触れている感覚がした。体の外側から内側が温まる感覚がした。地面の凹凸を指先で撫でたり、胸に溜めたいっぱいの空気を吐き出すことに意識を向けたりしながら、私はこれからのことを考えた。考えたくないことでも、脳は許してくれない。考えさせる方向へと身勝手にもっていくのだ。
  これからのことを考えると泣きたくなった。私はどうしたらいいのだろう。そしてそんなことは考えたくない。どうしようもないよ。何もかも。
  瞼を開くと、太陽が眩しかった。目を開けるのが億劫になって再び閉じた。いつも見ている色相環ではなくて違う惑星にでも行ったつもりになりたくなった。誰もいないところに行きたくなった。ずっとずっとそう思っていた。
  目尻から涙が流れた。しかしそれはすぐに制服の袖に染み込んでいった。
  久しぶりに泣いた。具体的にいつぶりかは思い出せなかった。すぐに思い出せるのは保育園児の時だが、それ以来に泣いた記憶はあるはずなのに思い出せなかった。そのことは私を少し悲しくさせた。相まってまた涙が流れた。
  中途半端に辛い気持ちが続くと、それに伴って涙が出なくなった。泣きたくなるような感傷的な時にも涙が出なかった。中途半端に辛いくらいなら、いっそどん底の方がいいとすら思った。けれど、そんな絶望は私には訪れなかった。それもまた私を悲しくさせた。
  今、涙を流していることが私は嬉しかった。けれど、涙が流れるようになったのは中途半端な辛い気持ちがなくなったからではなく、私がどん底に自分の足で歩いていったからだった。時折、不意に感じる破壊的衝動が私を絶望に招いてしまったのかもしれなかった。
  もう誰も私をどうすることもできないし、私もどうすることもできない。これからどうしたらいいかなんて誰も知らないし、私も知ることはできない。何もしたくない。誰にも会いたくないよ。
  静かに泣き続けたせいで私はいつの間にか眠っていた。

  次に瞼を開けた時は放課後になっていた。青空が薄い橙色に変わっていたのを見て気がついた。遠くの下の方で野球部の掛け声が聞こえていた。
  まだ少し眠たい頭を起こしながら、柵を掴んで周囲を見回した。野球部や陸上部、ハンドボール部が部活している様子があった。反対の方にも行って教室を見てみると、誰もいなかった。いつも部活している吹奏楽部や軽音楽部はもう帰宅してしまったようだった。私は教室に取り残された暗い静寂を遠巻きに見つめた。
  教室に鞄を取りに行こうか迷った。遠巻きに一見しただけでは誰もいないとは断定し難かった。誰かがいた時が面倒だと思った。幸いにもスマホだけはスカートのポケットに入っていた。偶然、移動教室で防犯のために身につけていたのを、鞄にしまい忘れていたから。
  けれど、電車の定期がないことに気づいてやっぱり教室に鞄を取りに行こうと思った。
  廊下は静かだった。同じ管理棟に職員室があるが、先生の声もひとつもしなかった。渡り廊下を渡って遠くから教室を覗いてみたが、誰もいなかった。安堵して一つだけ鞄が脇にかかった机に近づいた。鞄には誰も触れた形跡がなかった。あの時のままだった。電車の定期もいつもの場所に入っていた。
  鞄を背負って教室のドアを後ろ手で閉めて出た。誰もいない教室を一つひとつ通り過ぎて下駄箱に向かった。教室の時計を確認し忘れたため、具体的に今が何時かは分からなかったが、微妙な時間帯らしく校舎に人の気配を感じなかった。
  誰とも会うこともなく、下駄箱で下靴に履き替えて学校をあとにする。帰り道の遠く先の方で同じ制服が歩く姿が見えたため、住宅街に入って遠回りをしながら帰ることにした。住宅街を抜けると、駅の裏側に繋がる。ここら辺にはよく分からない会社らしき小さなマンションや保育園がある。
  この道はよく通った。知っている人が少ないのか、違う制服を見かけることはあっても同じ制服を見かけることは滅多になかった。そして静かな道だった。
  右に曲がった後、駅に直進する道に差し掛かるところにいつも見かける小さな屋台があった。私はそれをいつも好奇心と一緒に見ていた。手書きで書かれている看板には「たい焼き屋」とあった。私は餡が好きではなかったから、いつもはただ通り過ぎるだけだった。けれど、今日はここのたい焼きを食べたい気分だった。
  屋台のお爺さんに一つ二百円のたい焼きを注文して、百円玉二枚を渡した。数分した後に出来立てのたい焼きをもらった。
  夕暮れに近づくと段々寒くなってくる今の時期には丁度いいくらいの温かさだった。苦手だというのに餡はなんでもない時に食べるよりも美味しく感じた。
  暖かい手のまま駅に着いた。さっきの道とは打って変わって多くの人がいたが、ピーク時よりかは断然少ない方だった。改札口を定期で通り抜けて一番乗り場で数分電車を待った。電車が到着する頃には完全なる夕暮れになっていた。
  いつも乗る一番後ろの車両は今日も人が少なかった。単語帳を開く学生が夕陽に照らされていた。私はその学生の後ろの席を何席か空けて座った。窓の外は綺麗な夕陽が沈みかけていた。