「こっちです」
「わっ」
華奢な手が俺の腕を掴んだ。
ぐいっと引っぱられて校舎に駆け込む。
建物に入ると、彼女は両開きの扉をさっと閉め、鍵をかけた。
「静かに」
小声の指示にコクコク頷く。
助かった──そう思った直後。
……ガリ……ガリガリ………
スチール製の扉の向こう側から、扉を引っ掻くような音がした。
……俺はすっかり怯えていた。
震えるくらい怖く、喉の奥がつっかえた感じがする。
なのに──扉に小窓があるのを見つけてしまった。
頭では見ない方がいいってわかっていた。
なのに、怖いもの見たさに負けてしまった。
そっと小さなガラスを覗き込む。
「…………っ」
花田がいた。
虚ろな顔をした花田は、爪が割れるのも気にせず、無心に扉を引っ掻いている。
その音が、ガリガリ……と響く。
濁った目は底無しの沼のようだ。
薄紫に変色した肌には、血管が浮かんでいる。
救急隊員を貪ってた講師や、正門付近で人を襲ってた奴らと同じ──不気味な姿。
花田がこっちを向きそうになって、俺は慌てて小窓から離れた。
ガリ………ガリ…………………………
引っ掻く音が止んだ。
数秒の空白。
ドンッ!と大きな音が響き、扉が軋む。
……ドン、ドン……
花田は体当たりすることにしたらしい。
だが、闇雲に扉にぶつかるだけで、ドアノブに手を掛けようともしない。
別の入口を探す様子もない。
一旦こうなると、そんな当たり前の事さえわからなくなるのだ。
……そのことに恐怖を覚えた。
「……扉から離れた方がいいですよ」
「ああ、うん」
言われた通り、扉から数歩下がった。
彼女は淡々とした態度を崩さない。
クール美人って性格もクールなんだろうか。
俺はすげぇ怖いのに、彼女はこんなに冷静でいられるの、めちゃくちゃ尊敬する……!
「話は歩きながらしませんか。良かったらついてきてください」
「は、はいっ!」
俺は、ドン、ドンと鈍い音のする扉を一度振り返った。
花田はまだ体当たりを続けていた。
今日は一緒に同好会で練習するはずだったのに……なんでこんなことになっちまったんだ。
暗澹たる思いが渦巻く。
それを振り切るように、俺は早足で彼女を追いかけた。
「…………その……助かった、ありがとう」
「どういたしまして。あなたは秋庭君、ですよね?」
「そうだけど……よく俺なんか覚えてたね」
戸惑いながら頷く。
去年、雪生さんとは語学の講義で一緒だった。
俺はただのモブだが、彼女はひときわ目立ってた。
もちろん、俺には高嶺の花に声をかける勇気なんぞない。
ただ綺麗だなぁと思って、講義は終わった。
会話といえば、一度だけテスト範囲を尋ねたことがあるが──それだけ。
なので、自分が覚えられてたことも、嬉しいってより意外さの方が先に立つ。
彼女は賢いから、人の顔を覚えるのも得意なのかもしれないが。
しっかし、こうして見ると本当に美人だ。
肩で切り揃えた黒髪は艶やか。
切れ長の目元は涼しげで、清流のような透明感がある。
喜怒哀楽を表に出さないせいか、クールな印象だったが、きっと中身もそうなのだろう。
赤の他人な俺を助けたのとか、尊敬しかない。
天は一物も二物も与えるってやつだな……と感心していると、雪生さんが俺を見上げた。
「……秋庭君は裏門に行こうとしてたんですか?」
「うん、そうだけど……」
「あっちもたくさんゾンビがいて、通れないですよ。私も裏門から大学を出ようとしましたが、突破出来そうになくて諦めました」
「そっかぁ……てか、あいつらってやっぱゾンビなの……?」
「……そうですね、ゾンビという名称で定着したようです。今、藤実市内はゾンビで溢れかえっているみたいですよ」
なるほど、朝のひっきりなしのサイレンは、この異常事態によるものだったのか。
ホント、呑気だった自分を殴りたい。
「俺、寝坊してさっき起きたから、知らなかったんだ。慌てて大学に来たら、すでに地獄でさ……」
「……そうでしたか」
相槌を打ち、彼女は沈黙した。
そして顔を上げる。
「…………秋庭君にお願いがあります」
「何?」
「この辺りでゾンビになってないのは、あなたくらいでした。よかったら私と協力して、町を脱出しませんか?」
……正直、願ったりかなったりだった。
一人だと心細いし、雪生さんは俺よりずっと肝が据わってる。一緒なら心強い。
もちろん、と二つ返事で答えようとしたその時──廊下の曲がり角から突然、何かが飛び出してきた。
「ウゥアアアァ………!」
「ひぃっ!」
バケモン──いや、ゾンビか。
濁った眼球と目が合って、ぞわりとする。
ゾンビは手前の俺に向かって、ぐわりと口を開けた。
「…………っ!」
噛まれる……!
咄嗟に一歩下がった。
ガチン、とゾンビの歯が鳴る。
ゾンビが目を細くした。
恐怖のどん底にいる俺を、嘲笑うかのように。
地面に足が貼りついたかのように、体が動かない。
「オォゥ……!」
無防備になった俺に、ゾンビが掴みかかる。
それがやけにスローで見えた。
──俺は大体において諦めが早い。
見かけ倒しだの、ヘタレだのとよく言われるし、自分でもそう思う。
今だってそうだ。
……ここで死ぬんだな、俺は。
そんな考えが頭を掠めた。
どうやったって倒せるわけがない。
雪生さんだけでも、俺を盾にして逃げてくれたら……なんて思いながら、目を瞑った。
────だが、最悪の結末は訪れなかった。
雪生さんは、流れるような動作で立ちすくむ俺の前に立ちはだかると、鉄パイプを容赦なく振るった。
骨と肉を砕く、鈍い音。
一撃で頭を破壊されたゾンビが、床に崩れ落ちる。
ほんの一瞬の出来事だった。
ゾンビは暫く床でもがいてたが、数秒もすると動かなくなった。
……廊下に静寂が戻る。
雪生さんは、暫くゾンビをじっと観察していた。
生ける屍が動かなくなったのを見届けると、彼女は端正な顔を上げた。
「ゾンビは頭を破壊したら、完全に動かなくなります。大学から脱出する前に、秋庭君の武器も探した方が良さそうですね」
俺はまだ固まってるのに、雪生さんは表情一つ変えず、淡々と告げる。
思わず「……どこまでもあなたについていきます!」と口走りそうになった。
