見上げた空はどこまでも高かった。
果てのない青に、白い飛行機雲がひとすじ横切っている。
そろそろ彼女が来る頃かな……と、俺は町に視線を戻した。
藤実市の中心街は、すっかり寂れてしまっていた。
至るところに瓦礫が積まれ、人通りも少ない。復興は道半ばだ。
相当な被害を出したこの町が元通りになるのは、まだまだ先のことになるだろう。
そこで、「あ」と瞬きした。
見覚えのある美人が軽く手を振って、歩いてくるのが見えたからだ。
彼女は俺の前で立ち止まると、軽く頭を下げた。
「……秋庭君、お久しぶりです」
「うん、久しぶり。雪生さんも元気そうだね」
雪生さんが目を細めた。メッセージでやりとりはしていたが、顔を合わせるのはパンデミック以来になる。
「んじゃいこっか」
声をかけると、彼女は「はい」と頷いて隣を歩きだす。
それにしてもやっぱり緊張する。
雪生さんは相変わらず美人だ。隣にいると気後れしてしまう。
少しは肝が据わったかと思ったのに、俺のヘタレさは、パンデミック前と全然変わってねえ。
「今日は来てくれてありがとな」
「いえ、私も……行かなきゃと思ってたので」
……そんな会話をしながら暫く歩くと、目的地が見えてきた。
矢羽々小学校、正門。
"アルファ"と死闘を繰り広げ、目の前でナインを亡くしたあの日から三ヶ月が経ち、俺はようやくここを訪れることが叶ったのだった。
──正門に小さな花束をそっと供えて、手を合わせる。暫しの祈りを終え、小学校を見上げた。
元は白かったであろう校舎。
その半分は焼け落ち、真っ黒に煤けていた。
目の前の正門には、立入禁止のテープが張られている。
校舎の火災と生徒の激減で、矢羽々小学校は再開の目処が立っていない、とは聞いていた。
火災は……不可抗力だったと思う。
でも"アルファ"を倒すためとはいえ、放火まがいのことをしたのは事実だからな……
ただ幸いというか、ワクチン生成に協力してる間に、火災の件は有耶無耶になっていた。
……正直、責任が曖昧になってホッとした。
親を泣かせるようなことになんなくて、ほんと良かった……
俺とナインの《抗体》から爆速でワクチンが作られた結果、大勢の人が救われた。
ゾンビになっても、発症から二十四時間以内なら、ウイルス除去できるようにもなった。それで助かった人も多かった。
──俺もまた、特殊なワクチンで《適合者》から普通の人間に戻ることができた。
俺の外見はすっかり元通りだ。
紫がかった肌は、元の人間の肌になった。
両目は不気味な紅から黒へ。人外じみた力も、異常な再生能力も失った。
今はもう、どこにでもいる普通の大学生である。
《適合者》の能力を惜しいとは思わない。
そもそも、俺には要らない力だった。
──黙って校舎を眺めていると、隣の雪生さんが目を伏せて呟いた。
「…………もし輪廻転生があるなら、ナイン君は、来世こそ幸せになってほしいです」
「うん……俺もそう思うよ」
頷いて、ナインとテンの魂が救われますように、と心から祈る。
「──よし、雪生さん、そろそろ行こうか。夏川先輩も後で合流するってさ」
「はい」
「それから……約束してたカレー、ご馳走するから、その、うちに来てもらえたら……あ、ほら、夏川先輩も一緒だから……!」
しどろもどろで誘うと、雪生さんはパチパチと瞬きした後、嬉しそうに小さく笑った。
「嬉しいです。約束、ちゃんと覚えていてくれたんですね」
「もちろんだよ。昨日から張りきって作ったんだ。十時間くらい煮込んで……」
「十時間、ですか」
雪生さんが目を丸くしている。
あ、キモいと思われたかな……と焦ったけど、単純に驚いただけみたいだ。あー、よかった。
──彼女一人を家に誘う勇気はまだない。
やっぱり俺はヘタレなんだよな、と思いつつ、まぁ最初は友だちから、ってことで。
◇◇◇
夏川先輩と雪生さんに全力で作ったカレーを食べて貰い、また会う約束をして解散した。
夏川先輩も終始笑顔だった。
先輩も俺たちも、春日先輩やナインがいなくなった衝撃から立ち直りつつある。
哀しい記憶に蓋をして、みんな前を向きつつあるのだ。
片付けをした後、自分用にコーヒーを入れて一息つく。
多くの教員や学生が犠牲になった藤実大学は、残念ながら閉鎖されることが決定した。
俺はというと、夏川先輩や雪生さんと一緒に、別の大学に編入する。
このアパートとも近々お別れだ。
……俺は何となくスマホを手に取った。
思い立って、動画フォルダを開ける。
そこには、"アルファ"との死闘の夜、ナインが俺に宛てた動画が残されていた。
タップすると、真っ暗な教室にいるナインが映し出される。
『──おにいさん、ほんとにありがと。一日と、すこししかいっしょにいられなかったけど、たのしかった……まきこんで、ごめんね』
泣き笑いの表情で、画面の中の少年は懺悔していた。
たった十数秒の、短い動画だった。
次の動画は、春日先輩の車で移動中に、ナインが撮ったものだ。
みんなの表情は明るい。
これからピクニックにでも行くかのように、春日先輩やナインもカメラに向かって笑っている。
──俺はさんざん迷った末、教室でナインが撮った動画を消すことにした。
ピッと削除ボタンを押して、深くため息をつく。
「……とはいえ、一生忘れらんないよなぁ」
動画は消して終わりでも、感情や記憶は簡単に消えてはくれない。
ああすれば良かった、こうすれば良かった、と後悔で眠れない夜もある。
今でも時々、ナインの最後の笑みを夢に見る。
ナインと同じくらいの年齢の子を見ると、今でも胸がひどく苦しくなる。
その痛みを、俺はきっと一生抱えていくんだろう。
それでも。
あの地獄を生還しただけでも、臆病だった自分にしてはよくやった。
無理やりにでも、そう思うことにした。
でないときっと、前に進めない。
そんなことをつらつら考えながら、少し冷めたコーヒーを一口飲む。
俺にとってのパンデミックは、この日、一つの区切りを迎えた。
……だが、それで本当に終わりだったかは、神のみぞ知る。
◇◇◇
────疫学研究所の地下深く、僅かな人間しか知らない部屋。その中央。
いくつも並ぶガラス容器の一つに、パキ、とヒビが入った。
容器のラベルには、
「適合者由来」「血液サンプル:No. 9」
と書かれている。
中を満たしていた液体が、割れた箇所から零れる。
パキ、パキ……とクモの巣状にヒビが広がっていく。
最後に何かが、パシャンと床に落ちた。
「ガ、グゥ……」
大きな頭に丸い胴。短い手足。
胎児のような姿のそれは、微かに震えたあと、ズル、ズル……と床を這う。
──その手首には、「no.11」と黒く刻印されていた。
