トイレからは、工事現場かと思うような物凄い騒音が響いていた。
"アルファ"は俺を見つけ出そうと躍起になっている。
でも俺はそこにいない。残念だったな!
奴が見当違いのトイレの中を探してる間に、急いで準備を整える。これでよし。
俺はおもむろに息を吸った。
「ゴルァァー!!俺はここだぁ、"アルファ"!!!」
叫んだ直後。
一拍おいて、窓ガラスが派手に砕け散った。"アルファ"がぬっと顔を出し、辺りを窺う。
ギザギザの歯をカチカチ鳴らしながら、"アルファ"は、紅く光る双眸をギョロリと動かした。
非常灯のような無機質な瞳が、ある人影を捉え──窓枠に足をかけるや否や、"アルファ"は高く跳躍した。
そいつは着地と同時に、コートを着た人影を串刺しにした。ザシュッと音がした瞬間、人影からくたりと力が抜ける。
──だが、そいつは俺ではない。
"アルファ"が串刺しにしたのは、背格好が似てるだけの、《《俺のコートを着せた、ただのゾンビ》》である。
あのゾンビには悪いが、囮になって貰ったんだ。スマンと心の中で合掌しておく。
夜目が効くのか、"アルファ"は串刺しにしたゾンビの顔を確認した。そして低く咆哮した。
そいつが俺ではない、と気づいたんだろう。二度も単純なトリックに引っ掛かったことに怒り心頭のようだ。
だが、正攻法では俺に勝機はない。小細工でも何でも使わなければ、隙は作れねえ。
身を潜めていた生垣から一気に跳躍し、"アルファ"の死角となる背中に襲いかかる。
──繰り出した渾身の一撃。
けれど──"アルファ"の反応速度は、俺のスピードを僅かに上回った。
「ぐっ……!」
地面を蹴った時の僅かな音で、攻撃に気づかれた。鉈の斬撃を、紙一重で避けられた。
怪物の前足が、薙ぐように振るわれる。まともに食らって、俺は高く吹き飛ばされていた。
「くっそう……!」
地面に落ちて二度バウンドし、ゴロゴロ転がってようやく止まる。
今の俺に痛覚はほぼない。よって痛みで動けない、なんてことは、ない。
それでも、衝撃で息をするのも苦しかった。また肋骨やられたかもな……
胸郭の違和感に気を取られ、出遅れた。
まずい、と思った時には、眼前に"アルファ"が迫っていた。奴が俺を後ろ足で捩じ伏せる。
爪が肩に食い込み、血が噴き出した。
「ぐっ……」
損傷を受けたであろう肋骨が、ミシリと嫌な音を立てた。杭のような右腕が、俺の頭部を粉砕する勢いで繰り出される。
「……っ!」
何とか首を捻ってギリギリで避けたが、間髪入れず、左腕が襲いかかった。
さすがにここまでか……と、死を覚悟した瞬間。
──いつの間にか集まってきたゾンビが、俺の上に覆い被さっていた。
被さるゾンビの隙間から見えたのは、ガソリンの炎すら厭わず、"アルファ"に取りつくゾンビたち。
「グゥウウ……」
"アルファ"が校舎を見上げた。
その視線の先に、紅い目をしたナインが、三階の窓から顔を覗かせていた。
体から圧迫が消えた。"アルファ"が俺の上から退いたのだ。
体が自由になって、上にいたゾンビたちをどかす。ガツ、ガツ、と音がする方を振り向くと、"アルファ"は校舎の壁に前足を打ち込み、最短距離で壁を登っていた。
標的は言うまでもなくナインだ。
「させるかよ!……うおおおぉぉ!!」
長い尻尾に齧りつき、渾身の力をもって、奴を地面に引きずり下ろす。
「バカ、どっかに隠れてろナイン!!!」
「グアァァアアッ!!!」
窓から身を乗り出した少年に向かって叫び、ひっくり返った"アルファ"に馬乗りになる。
──形勢逆転。本当に、この一瞬が勝負だ。
この戦いにおいて、俺にとっての最大の幸運は、ガソリンの炎の威力が"アルファ"の再生能力を僅かに上回っていたことだろう。
固い表皮が焼けただれ、その下の柔らかい肉が幾らか露出している。無防備なその腹部に、全力で鉈で突き立てた。
内蔵まで達したであろう、深い傷。"アルファ"の口腔から血が吹き出る。
間髪入れず、俺はナインの血液が入った容器を握り潰して割ると、血まみれの拳を傷口にぶちこんだ。
──俺はゆっくり"アルファ"の上から退く。苦しげにもがいていた怪物は、やがて息も絶え絶えになり、その動きを止めた。
肩で息をしながらそれを見届けて、俺はその場にへたりこんだ。もう立つ気力もない。
肩で大きく息をしながら、ゴロンと運動場の地面に転がった。
「あー……やっと終わったぁ…………」
暫く地面で大の字になってた俺は、どうにか立ち上がった。
まだ何も終わってないんだ。やらなきゃいけないことはこれから山ほどある。
「……ナインを連れて、雪生さんと夏川先輩のところに戻らないと」
二人が起きてたら、いなくなった俺たちを心配してるだろう。メモは置いといたけど、眠ってる間に抜け出してきたもんな。
夏川先輩には、「無茶しやがって」としたたか怒られそうだ。
俺は自分を見下ろした。服は煤けて、あちこち火脹れもできてボロボロで、骨も何ヵ所かやられてるようだ。酷い有り様である。
だが《適合者》の回復力は凄まじく、体は少しずつ元通りになりつつあった。
気休めに土を払い、一つ深呼吸して歩き出す。去り際、力なく倒れた怪物を一瞥した。
たった五歳の女の子だったんだよな、と思うと、憐れみと罪悪感で胸が痛む。
手首に「no.10」と刻印されてるのを見て、居たたまれない気持ちになったが、何とか視線を剥がした。
校舎でナインが待ってる。早く迎えに行ってやんなきゃな。
……やれやれ。それにしても、ヘタレの俺にしては、ホントよく頑張ったと思う。
これでひと安心かと思いきや────俺はこの後、一連の惨劇における真実と、悲しい結末に直面することになる。
