パンデミック開始から二日目の夜。
人工の光が極端に減った町の上に、中空の半月が煌々と輝く。
……たった二日。されど二日。
俺のよく知る世界は、この二日ですっかり変わり果ててしまった。
俺自身も大きく変わった。ウイルスに《適合》したのは、その最たる出来事といえた。
今俺の胸に渦巻くのは、深い絶望と──僅かな希望だった。その希望を絶やさないようにと願った結果、気づけばここにいた。
今夜何が起こったとしても後悔しない。ヘタレなりに考えて、自分で決めたことだからだ。
「……これ、渡しとく」
念のため、と、ガソリン入りのペットボトル二本を教室に置いていくことにした。それと、自分のスマホをナインに渡す。
「使い方は教えたよな。俺は別に死ぬ気はねえが、万一何かあったら、これで夏川先輩に助けを求めろ」
「…………おにいさん、ぼく、すごくフシギなんだけど、なんでそこまでしてくれるの?」
複雑な顔で渡されたスマホを眺めていたナインは、俺を見上げて尋ねた。
「正直俺にもよくわからん」
「……わからない?」
「まあ、乗り掛かった船とかだろ。あとは……お前自身がきちんと納得して、ワクチン作るのに協力してほしい、ってのはあるかな」
「…………」
「お前は、世界なんか救う価値ないって思ってそうだよな」
無言で、じっと俺を見上げるナイン。
否定しないのは正解だからだろう。
「そんなことねぇよって言いたいけど、言葉だけなら何とでも言えるし、説得力ないだろ。だから俺は、口先だけじゃなく、全力でお前に協力するって決めたんだ。
世の中、ヤな奴ばっかじゃないって知ってほしかったから」
……ナインはこれまで、色々なものを他者に奪われてきたんだろう。言動の節々で、何となくそれは察せられた。
誰かが身を削って、本気で彼のために動くところを見せないと、おそらくナインの信頼は得られない。
縁あって、俺がその役を引き受けた。それだけだ。
ナインは気まぐれに《抗体》を与えることはあっても、不特定多数を救うワクチンには否定的だった。さらに、抵抗する覚悟や手段も持っている。
まずは、ナインに考えを変えて貰わないと、この悲劇は止められないだろう。
それは直感だった。だが間違ってはいないと思う。
「お前が叶えたい願いにとことん付き合えば、お前も考え変えるかもって思った。だから、そうするんだ」
俺はそう言って、ニカッと笑いかける。
「……やっぱりわかんない。そんなことのために、命までかけるの?」
「お前に助けてもらった命だから、別に構わん」
「もしも、ぼくがかわらなかったら?」
「そん時に考えるよ」
「…………おにいさん、ヘン」
……ヘンと言われてしまった。
だが、ナインは罪悪感に苛まれたような、悲壮な顔をして、ぎゅ、とスマホを抱き締めた。
さて、準備は終わった。
あとはゾンビを校庭に呼び寄せて、"アルファ"が来るのを待つだけだった、
◇◇◇
……いよいよ始まる、対"アルファ"戦。
舞台として選んだのは、市立矢羽々小学校。
俺とナインは、校舎三階の教室にいた。窓から校庭を見下ろす。
校庭では、あちこちから不気味なうめき声が響き、人影がひしめき合っていた。想像以上の数だ。
正視に堪えないおぞましい姿をした彼らは、ウイルスによって生ける死者となった者たち。
ナインの特異な能力でここに呼び寄せた、ゾンビの大群だった。
ナインは目を閉じ、祈るように意識を集中させていた。瞼の奥では、深紅の瞳が輝いてるんだろう。
暫くして、ふっと息を吐いたナインが顔を上げた。集中が途切れたというより、区切りをつけたみたいだった。
「…………もう、いいかな」
「そうだな、十分だ。あ、おい!」
力を使い終えて、ふらつくナインを慌てて支える。
「大丈夫か?」
「……すっごくねむいけど、だいじょうぶ」
ナインが窓枠に手を掛け、自分を支えたのを確かめて、俺は手を離した。ナインの瞳が、血のような深紅から平凡な黒に戻っていく。
「しんどかったら寝ててもいいぞ」
「そんなことしないよ……ここでちゃんと見てる」
「わかった。でも無理はするなよ」
俺は校庭に視線を戻した。
ナインに操られ、ここに集められた、たくさんのゾンビたち。
彼らにもそれぞれの人生があったんだろうと思うと、何となく感傷的になってしまう。
ナインに「死ぬつもりはない」などと嘯いたが、本音は少し違っていた。
自分の命もここで尽きるかもしれない。そう思うからこそ、彼らに自分を重ねて、哀惜を覚えるのだろう。
それはそれとして、今からやる作戦はなかなか気が滅入る。進んでやりたいかというと、答えは否だ。可能なら拒否したい。
だが、背に腹は代えられない。
ふっと息を吐いて、深く吸う。
「んじゃ行ってくる」
「…………おにいさん、いろいろありがとう」
「うん」
ナインに笑みを返し、窓枠に足を掛け、俺は三階から校庭へと飛び降りた。
◇◇◇
──俺は、校庭の片隅で、様子を伺っていた。
十分ほど経った頃。
異様な気配に一瞬立ちすくんだ。
ゆっくり、不自然にならないように、俺は辺りを見回して────そいつを発見した。
闇に浮かび上がる、異様な白い巨躯。
間違いない、"アルファ"だ。
そいつはフェンスを乗り越えて、学校に侵入しようとしていた。
"アルファ"は、獲物を探す野生動物のように、しきりに周囲を窺っていた。
ナインが力を使えば、正確に居所が伝わってしまうらしい。これだけ早くに現れたんだから、やっぱり本当なんだろう。
で、俺は何をしてるかというと。
「う、うおぉお……」
──学芸会並みの演技力で、運動場に集まった彼らに混じって、全力でゾンビのふりをしていた。
