暫くすると、泣き疲れたナインはすうっと眠りに落ちた。
小さな体を診察台に寝かせて、ふと気づく。
──夏川先輩がずいぶん長い間戻ってきてない。
この診察室にいることはメッセージで伝えたが、何かあったんだろうか。
「雪生さん、ちょっと夏川先輩探してくる」
そう言って、廊下に出てうろうろする。
すると男子トイレの方から微かな嗚咽が聞こえてきた。
「………くそ、なんでだよ、咲……ッ」
男らしくて頼れる夏川先輩の、押し殺した、啜り泣く声。
俺はトイレの前で立ち止まった。
夏川先輩の苦しげな声はずっと続いている。
聞いていると、薄い紙を破るように、心がビリビリと引き裂かれていくような感覚がした。
俺の脳裏に、春日先輩の凄惨で呆気ない最期が去来する。
何も、出来なかった。
後悔しかない。
かといって、単純に"アルファ"を憎むこともできなくなってしまった。
……"アルファ"もまた、非人間的な実験の犠牲者だったのだ。
その事実が胸を重くする。
一番悪いのは研究所の連中だ。それは間違いない。
なのになぜ、無関係の春日先輩が殺されたり、その他大勢の人が苦しまなければならないのだろう。
なぜ、ナインのような小さな子供が実験の道具にされ、妹のような存在に狙われる羽目になるのだろう。
あまりにも理不尽だった。
感情が乱れ、息が苦しくなる。
……いや、だからこそ。
一刻も早く、終わらせなければならないのだ。この地獄を。
そのためにやれることが自分にもあるはずだ。
幸い、俺は並外れた能力を得た。
この力でできることは何でもやろう。
ナインを守って、雪生さんも先輩も、安全な場所に送り届けて。
そうすれば、ワクチンでたくさんの人を助けられるはず。
俺は改めて、そう決意した。
トイレのドアの横で立ち尽くしていた俺は、踵を返し、そのまま診察室に戻った。
遅れて戻ってきた夏川先輩の目はひどく赤かったが、俺も雪生さんもそのことには一言も触れなかった。
◇◇◇
──ナインはすやすやと眠っている。
夏川先輩にもナインの事情を伝えると、先輩も「ひでえ話だな」と憤慨していた。
まったくだ。
移動手段がないため、俺たちはひとまずここで一晩明かすことに決めた。
その後は何となく時間を潰し、そろそろ陽が落ちようか、という頃。
急に部屋の外が騒がしくなり、乱暴にドアが開けられた。
「おうおう、てめえら勝手に入ってきて、何のつもりだ?」
「ずいぶんと物々しいっすね」
押し入ってきた男たちに夏川先輩が威嚇するように吠え、俺と雪生さんで、さりげなくナインを庇う。
入ってきたのは男性の避難者たちで、全員モップや棒を手にしていた。
集団の肩越しに老人──鷲尾院長と目が合う。
思わず舌打ちした。
こうなる前に、さっさと出て行った方が良かったんだろう。だが、後の祭りだ。
「悪いことは言わない、ナイン君をこちらに引き渡しなさい。それと、感染者である秋庭君は、この病院から出ていって貰おう」
「秋庭に出ていけって、何だよそれ!」
「安全確保のためだ。やむをえない判断だよ。我々は、感染者との共存は不可能だと結論づけたのだ」
食ってかかる夏川先輩を、院長がすげなく一蹴する。
「……ナインをどうするつもりっすか。まさか、無理やり傷つけて《抗体》を取ろうって腹じゃないすよね」
「ナイン君のゾンビを操る力は本物ですよ。実際、私たちはそれで助かったんですから」
「うるせえ!あの子どもなら、睡眠薬かなんかで眠らせときゃいいだろ!」
「ここは病院だ、そういう薬もたくさんある」
「今は丁度寝てるじゃないか。なら、手間もかからんだろうさ」
俺と雪生さんで諫めようとしたが、連中はますますイキりだす。
もはや何を言っても無駄だろう。
完全に決裂か、と身構えた──その時だった。
建物の別の場所から、ガラスの割れる音が響いた。
モップを手にした避難者の集団も、「ゾンビの襲撃か!?」「音で集まってくるぞ!」と動揺している。
暫くすると近くで悲鳴が上がった。その直後。
荒々しい足音と共に現れたのは──できることなら目も合わせたくない、とんでもなくガラの悪い集団だった。
……ウキウキで、世紀末ヒャッハーしてそうな連中。それ以外に表現しようがない。
───ヘタレな俺としては、生きてる間は絶対に関わりたくないと思ってたタイプの人間だった。
それが五、六人、目の前にいる。
まーじで勘弁してほしい……
状況がカオス。
……うん、少し様子を見よう。
とりあえず俺は、目立たないように避難者たちに紛れる。
「よお、なんか揉め事かい?」
「ひゃはは、楽しそうだなぁ?ああん?」
突如乱入してきたチンピラ集団は、ニヤニヤしながら避難者たちにオラつき始めた。
うげー……とげんなりしていたが、彼らが手にした棒や金属バットを見てゾッとした。
……真っ赤。すべて凄惨な血の色に染まっている。
手にした武器が雄弁に物語っていた。
こいつらに、躊躇なくゾンビを倒せるだけの、メンタルと実力があることを。
そして──ゾンビに向けるのと同じ狂暴さを、一般人に向けるのも厭わないだろう、ということも。
そう確信するくらいには、彼らは凶悪な空気を撒き散らしていた。
「……!」
さらに──先頭にいるリーダーらしき若い男を見て、俺は息を飲んだ。
最初にヒャッハー集団が現れた印象が吹き飛ぶくらいの衝撃。
そいつの肌は、俺と同じだった。
薄く紫がかって、青い血管が浮いている。
鋭い三白眼は紅い光を帯びていた。
──こいつ、おそらく《適合者》だ。
