「……お、落ち着いてくれ、ナイン君。私としては、何も、無理やりというつもりはないのだ。さしあたり──《抗体》の話は無かったことにしよう」
冷や汗をだらだら流す院長の一言で、話し合いは終了。いったん解散することになった。
ナインの脅迫は効果覿面だった。
院長は明らかに怯えて、うろたえていた。
しかしあの口振りだと、完全に諦めた訳でもなさそうだよな。
厄介なことになんなきゃいいけど。
にしても、なんだかどっと疲れた……
院長室を出た俺たちは、空き部屋を探して休むことに決めた。
その途中、夏川先輩は「ちょっとトイレ」といなくなった。
俺たち三人は、誰もいない診察室に勝手に入りこんで、思い思いの場所に座った。
「……ぼく、おなかすいた」
「実は、俺も……」
「私もです。何か食べましょうか」
くう、とナインの腹が小さく鳴る。
俺も片手を上げて同意した。
くすっと笑った雪生さんが、荷物を漁って、チョコレートバーとパンを出してくれた。
この病院には食料が豊富にあるらしいが、あの院長に借りを作ったら、どんな要求をされるか、分かったもんじゃない。
食料が入ってた俺のリュックも、雪生さんたちが運びこんでくれていた。自前で今食べる分くらいはある。
パンを咀嚼しながら、俺は何となくナインの様子を眺めていた。
ナインは目をキラキラさせて、チョコレートバーを齧りだす。
相当チョコが好きなんだろう。そうしてると普通の子と何も変わらない。
そんな風にほのぼのしていたが……ふと、何かが引っ掛かった。
ナインは研究所育ちで、これまで外に出たことはなかったという。
学校にも通ってないはずだ。
……だとしたら、妙に大人びたあの態度はどこで身につけたんだろう。
時々ナインが見せる、年齢に見合わない対応や表情。それが少し気にかかった。
────不思議に思ったが、今は、それより重要な疑問がいくつもある。
さっさとパンを平らげた俺は、ハムスターのようにチョコバーを齧ってる少年に声をかけた。
「ナイン、さっきの話だけどな」
「うん、なに?」
「力って、ゾンビを操る力のことだろ。あれを使うと、"アルファ"はお前の居場所が分かるのか?」
「えーとね……目がさめてるときは、おたがいのいる方向がなんとなくわかるの。どっちかがねむってたら、まったくわからない。でも力をつかうと、はっきりつたわるんだ」
おいおい。それって結構危ないのでは……
「なら、いずれここにやって来るとか……?」
「まだ、へーきだとおもうけど。そのうち、さがしあてるかも……?」
ナインは呑気に首を傾げているが、それは非常に嬉しくない事態だ。
どうしたものか、と考えながら、次の疑問をぶつけてみる。
「あいつがお前を探してるのって、なんか理由があるのか?」
「…………うん。あの子は、ぼくがだいきらいなの。ころしたいくらいに」
質問した途端、ナインの目が翳りを帯びた。
「殺したいって……どういうことだ」
「ぼくの《抗体》をつかった実験で、あの子はたくさん、たくさんくるしんだの。ぼくの血を、ほんのちょっといれるだけで、あの子は死んじゃう」
ナインは指で小さな丸を作った。
それは、数ミリリットルにも満たない、少ない量だ。
それから少年は、ひと呼吸おいて続けた。
「"アルファ"は、十番目だったぼくの妹──テンだ」
◇◇◇
──ナインに聞かされた疫学研究所の話は、とんでもない胸クソだった。
"アルファ"……テンは、過酷な人体実験の末、特異な変化を遂げて、あんなバケモノの姿になったという。
さらにテンは、ナインの血や《抗体》を使った実験の被検体にされ、地獄の苦しみを味わった。
ナインを激しく憎むようになったのは、そのせいだという。
元々"アルファ"は五歳の女の子だったと聞いて絶句していると、一緒に話を聞いていた雪生さんが、ナインの前でしゃがみこんだ。
少年に視線を合わせ、小さな手を包むように握る。
「……妹に憎まれるのはつらいですよね。でも、けしてナイン君のせいではありません。どうか、自分を責めないでください」
「……うん……ありがとう、おねえさん……」
頷いたナインは、ぐっと唇を噛みしめて俯く。黒い瞳から、透明な涙がはたはたと零れ落ちた。
雪生さんがそっと抱き寄せると、ナインは彼女にすがりついて、声を上げて泣いた。
悲痛なその嗚咽に、胸が締めつけられそうだった。
