カーテンの向こうにゆらめく、見覚えのある輪郭。
全員息を詰める中、一番窓に近かった春日先輩が、ゆっくりと後ずさった。
家主が置きっぱなしにしていたペットボトルに、春日先輩の手が触れる。
空のボトルはたやすく傾く。
床に倒れる寸前。
夏川先輩がはっしとそれを受け止めた。
みんな安堵の息を吐く。
ゾンビは音に反応する。"アルファ"もおそらく例外ではない。
俺たちが立てた音を拾った瞬間、襲いかかってくるだろう。
このまま、気づかず去ってくれ……と俺たちはひたすら願っていた。
だが──
カーテンの僅かな隙間から、深紅の目が部屋を覗き込んだ。
怪物と、俺たちの視線が交錯する。
「…………見つかった、逃げろッ!」
夏川先輩が叫ぶ。
と、同時。
ガシャン、という激しい音と共に、"アルファ"が窓ガラスを破った。
カーテンを引き裂き、奴が室内に侵入する。
そして一番近くにいた春日先輩に、杭のようになった前足を振りかざした。
「咲ッ!!!」
「…………っ」
夏川先輩が叫ぶ。
最悪の瞬間は、スローモーションのように見えた。
春日先輩の体を、奴の前足が貫通し、血がプシャッと噴き出す。
「かはっ……」
弱々しい息を吐いて、春日先輩の体からくたりと力が抜けた。
心臓の音だけがやけに鮮明に響く。
体の末端から震えが来て、全身へと広がっていく。
……何なんだ、こいつは。
いっそ死神と呼びたくなるような残虐さがこいつにはあった。
"アルファ"は春日先輩から無造作に前足を引き抜くと、次の獲物を探すかのように、視線を俺たちに向けた。
「てめえぇぇえええええっ!!!」
激昂した夏川先輩が、手元にあった春日先輩のバットを握り、渾身の力で"アルファ"に叩きつける。
怒りをぶちまけたかのような激しい一撃を、だが、"アルファ"は二の腕で受け止めた。
一拍置いて、痛みなどないかのように腕を一振りする。
"アルファ"のパワーは桁外れだった。
ドゴッと激しく壁に叩きつけられた夏川先輩が、苦しげに舌打ちする。
「クソがァ…………」
「先輩、大丈夫すか!?」
先輩を助け起こしたいが、俺は手足をガムテープで縛られて動けない。
「くそ、外れねえ……!」
何とか外せないかともがいてる間に、"アルファ"は先輩から興味を失い、顔を背けた。
"アルファ"は俺を見下ろし、わずかに首を傾けた。まるで──何かを確認するように。
だが紅い視線はすっと外され、滑るように動く。
そして青ざめたナインと、そばにいた雪生さんの上で止まった。
「…………グゥゥウ」
雪生さんがナインを背に庇った。
顔色は紙のように白い。だが彼女は怯まず怪物を睨みつけた。
完全に標的を見定めた動きで、奴が一歩踏み出す。
何もしなければ、雪生さんとナインが……殺されてしまう。
さっきの、春日先輩のように。
瞬間────俺の感情が爆発した。
「────く、はッ」
俺はガムテープを引きちぎって立ち上がると、無我夢中で"アルファ"に体当たりをかました。
自分の三倍はありそうな、力も桁外れであろうバケモンの体に腕を回し、床を思い切り蹴る。
俺の足は、人間離れした脚力を発揮した。
床が円形にへこみ、破片が飛び散る。
俺と"アルファ"は割れた窓を越え、ベランダの柵を壊しながら、もつれるように落ちていく。
「逃げろ、俺に構うな!!!」
必死に"アルファ"を押さえ込みながら、二階に向かって怒鳴る。
「くそっ」と悪態が聞こえて、夏川先輩がベランダから顔を出す。
「秋庭、スマホは持ってるよな!?お前も隙を見て逃げろよ!!後で落ち合うぞ!!」
「いいから、早く逃げてくださいよ!」
夏川先輩に叫んで、俺は"アルファ"の背後に回って、全力で首を折りにかかった。
「むぎぎ……!」
背中に張りつく俺を、怪物はドゴン、メキィッ、と何度もコンクリートの塀に打ち付ける。
背骨が激しく軋んだ。
「ぐっ……!!」
肋が何本か逝ったかもしれない。
コンクリートの壁と"アルファ"の硬い背中に潰され、息が詰まる。
腕の力を緩んだ隙に、"アルファ"が俺を振り落とした。
どさっと背中から地面に落ちた俺を、先の尖った前足が襲う。
ガッと激しい音がして、前足の先が深々と地面に刺さった。
咄嗟に転がって避けた俺は、素早く身を起こす。
次の瞬間────俺は意を決して、逃走を開始した。
◇◇◇
「……はあ、はあ。あんなん、ヘタレの俺が、敵うわけねーだろが」
……ガソリンスタンドに続き、大金星だろ。
自分にしてはよくやった。
"アルファ"の注意を引きながら、俺はつかず離れずの距離を保ちながら逃げた。
アパートから引き離した所で、本気の逃走モードに入り、奴を撒くのに何とか成功した訳だが。
我ながら信じられない脚力だった。
野生のカモシカかと思うくらい、軽々と障害物を越えていける。
ナインは「運がよければウイルスに《適合》する」って言ってたけど、それが今の状態なんだろうか。
足の速さだけじゃない。
折れたであろう肋骨も今は何ともなかった。折れた時でさえ、息苦しさはあったが、ほとんど痛みもなかった。
ゾンビにやられた足首の爪跡は跡形もない。擦り傷なんかも何もなかったのように消えていた。
それと、やたら力が強くなっている。
"アルファ"から逃げる時、工事現場を突っ切って、立入禁止の柵をブン投げたら命中したんだが、飴細工みたいにグシャッとひしゃげた。
あれ何なの。俺が一番驚いたんだけど。
試してないが、軽自動車くらいなら軽く持ち上げられるかもしんない。
そしてもう一つ、大きな変化があった。
……ゾンビが襲って来ねえ。
俺を見てもスルーなのはなんでだよ。
「これはこれで、なんかへこむな……」
《適合者》ってゾンビの仲間なのかな……嫌だなぁ……
再生能力も異様に高いし、バケモンかよ……
つまるところ、"アルファ"に見つかりさえしなければ、今の俺は逃げ隠れする必要はない。
だが、ゾンビの群れを悠然と横切る度胸は……ありません。無理。
「……そういや、夏川先輩が後で連絡するって言ってたっけ」
《適合者》になった衝撃で、すっかり忘れてた。
取り出したスマホの画面は少し割れていた。
一瞬焦ったが、動作は問題なかったのでホッとする。
タップすると、夏川先輩から連絡が入っていた。
『ナインが手をケガした。霞ヶ丘病院ってとこで手当てしてる』
「霞ヶ丘病院……」
スマホで場所を確認する。ここからそう遠くない。
今の脚力なら十分もかからないだろう。
俺は立ち上がって、再び走り出した。
