震える指で、引っ掻き傷に触れる。
血がにじむ数本の赤い線。おそらく感染者──ゾンビにつけられた爪跡だった。
あの時、車の窓から入り込もうとするゾンビに引っ掻かれたのだろう。
必死過ぎて気づかなかった。
今になってじくじくと傷が痛みだす。
同時に、絶望を煮詰めたような何かが、喉の奥からぐっとせりあがった。
だが──俺はやっぱりヘタレだった。
ショックには違いないが、内心は早くも諦めモードだ。
短い人生だったなぁ、と思う一方で、どこか冷静に「ゾンビになること」を受け止めている。
ゾンビ化が避けられないのであれば、泣き叫んでも、足掻いても、あんまり意味ないもんな。
……とりあえず深呼吸だ。
顔を上げて、先輩たちや雪生さんの様子を窺う。
三人はまだ現実を受け入れられず、悲壮な顔で俺を見ていた。
「まあ、こうなっちゃったもんは仕方ないすね。誰のせいでもないんだし……」
俺は頬を掻きながら、あえて明るい声を出した。
その時、しんとした部屋に、少年の淡々とした声が響いた。その内容は、思ってもみないものだった。
「ぼくの血、あげてもいいよ」
「…………え?」
「ぼくの《抗体》は、ゾンビになるのをすこしだけ、おくらせることができるんだ」
ナインが親指を口に当て、小さく噛みちぎる。
白い指先に、真っ赤な血が伝う。
少年がこっちに手を伸ばし、俺の傷口にその指先を押し当てようとするのを、ぎょっとして止めた。
「いや待て待て!」
「………血、いらない?」
「そうじゃなくて、お前も感染するかもしれないだろ!」
「ぼくが、シンパイなの?」
ナインは不思議そうに小さく首を傾げた。
「ぼく、きのうの警察のおじさんにもやったし、研究所でもやらされた。でも、ゾンビにはなってない。だから、へいきだよ」
「………」
「おにいさんも、あのおじさんも、ひとのシンパイばかりしてる。やさしい人って、おにいさんたちみたいな人のことだね、きっと」
ナインは大人びた顔で小さく苦笑した。
そして俺の手をよけると、血の滲む親指を、傷に押し当てた。
「……運がよければ、ウイルスと《適合》して、人のままでいられる」
俺から離れて立ち上がったナインは、他の三人を振り返った。
「ゾンビになるなら、三時間後くらい。《適合》するなら、もっとはやく……」
そう言うと、ナインの体がふらりと傾ぐ。
「おいっ」
「あの子が、くるかも……そしたら、にげて」
ナインはうわごとのように呟くと気を失った。
夏川先輩がその小さな身体を受け止める。
少年は意識を失ってくたりとした。
「…………」
室内に重苦しい沈黙が流れた。
「夏川先輩、すみませんが俺の手足をガムテープで縛ってください。俺、ゾンビになっても……人を食い殺したくないっすから」
「……ねえ、あたしらは、穂浪君がゾンビになるまでは、一緒にいるべきじゃないかな。てか一緒にいたい。ここまで一緒に頑張った仲間じゃん」
「私もそうしたいです」
意を決した顔で春日先輩が言うと、雪生さんも真剣に頷く。
「だってよ、秋庭」
夏川先輩が同意するように肩を竦めた。
そんな三人を見てると、胸が一杯になる。
……だが、感傷に浸ってる場合じゃない。
ここが安全とは限らないし、ゾンビになった俺が三人を襲ってしまったら、元も子もない。
「……でも、俺に構わず、先輩たちはさっさと逃げるべきじゃ……」
「でもじゃねえ。オレらは、お前が意識を保ってる間は一緒にいてやっからよ」
夏川先輩は俺の肩を叩いて一蹴する。
三人を順に見回すと、真剣に見返された。
逃げるように説得するのは無理そうだと悟る。
胸の奥が熱くなって、喉が詰まった。
「俺なんかのために、すみません」
俯いて謝る。声が少し震えた。
そこで、ようやく自分が、一人になることを恐れていたのだと気づく。孤独を感じずに済んで、こんなにもほっとしているのがその証拠だ。
「……俺がゾンビになったら、迷わず置いて逃げてください」
俺は三人にそう約束させてから、夏川先輩に頼んで、足首と手首をガムテープでぐるぐる巻きにして貰った。
小さなアパートの壁際にあったソファに腰掛け、とりあえず話をする。
傷が酷く痛み出したが、心配をかけたくなくて何食わぬ顔を続けた。
最初はぎこちなかった会話も、段々いつものテンポに戻っていく。
同好会のこととか、他愛ない話をして、三十分ほど過ぎた頃だろうか。
────変化は、唐突に訪れた。
「ぐ、ぁっ」
「どうした、秋庭!?」
「はっ、はぁっ」
思わず呻き声を上げる。
さっきまでとは比べ物にならない。
耐え難い激痛だった。
全身の血管が燃えているような感覚に襲われる。
皮膚が次第に、白っぽい紫に変色していく。
内側から何かに食い荒らされるような不快感。ガクガクと体が痙攣する。
「秋庭君!」
雪生さんの悲鳴のような声を聞いたのを最後に、俺の意識はプツリと途切れた。
◇◇◇
意識を失ってからどれくらい時間が経過したんだろう。
ひどい頭痛はなお続いていた。
耳元でガンガン鐘を鳴らされてるような、最悪の気分だ。
しかし──それすらどうでもよくなる生命の危機を察知して、俺はハッと目を覚ました。
本能的な畏怖。それが警鐘を鳴らしている。
何かの気配が近づいて──いや、もうそこまで、来ている。
目を開ける。俺はソファに横向きに寝かされていた。
雪生さんや先輩たちが、警戒と心配が入り交じった表情で俺を見てる。
「あ、あ……」
突然、部屋の隅から、苦しげな声が上がった。
眠っていたナインが突然震え出す。
「ナイン君、大丈夫ですか!?」
「きた…………!」
「何が来たの……?」
「…………秋庭、お前目が紅くなってんぞ……」
俺を見た夏川先輩が、息を飲む。
「目、紅い……?」
鏡を見なければ自分では分からない。
いや、それより、
「…………ひっ」
何気なくベランダの窓の方を見た春日先輩が、ひゅっと喉を鳴らした。
部屋がふっと翳る。
窓の向こうに何かがいた。
薄いカーテンに映った影は──見覚えのあるかたちをしていた。
カマキリに似た姿の、異形。
恐怖を具現化したかのようなおぞましい怪物。
──昨日ガソリンスタンドで遭遇した、"アルファ"だ。
