「もう少ししたら降りていきます」という雪生さんを部屋に残し、俺は早々にリビングに戻って横になった。
──だがなかなか眠れない。
何度か寝返りを打っていると、側で横になっていたナインが眠そうな目を擦りながら起きてきた。
「んー……」
「……悪い、起こしちゃったか」
「ううん。おにいさん、ねむれないの?」
「なんだか目が冴えちゃってさ。眠いけど眠れないんだ」
「ふうん……」
ナインは暫くぼうっとしていたが、ふと「ねえ、おにいさん」と俺を呼んだ。
なに、と返事する前に、ナインと目が合って──黒々としたその瞳が、一瞬赤く光ったような気がした。
次の瞬間、俺はこてんと眠りに落ちていた。
何が起こったのか、と考える暇もなく、深く意識が落ちていく。その途中、少年の「おにいさん、おやすみなさい」という声が聞こえた気がした。
そして明くる朝。
俺はこの出来事をさっぱり覚えていなかった。
──疲れてたのか、意外にぐっすり眠れた。
起き抜けなのに、気分はすっきりしていた。
いつの間にか、雪生さんも一階に戻っていた。
今はソファですやすや寝息を立てている。
俺は毛布からそっと抜け出し、風呂場手前の洗面台に向かった。
顔を洗うついでに、この家のタオルを借り、ちょっとだけ念入りに体を拭いておく。
今日も車で移動だ。
俺の定位置は後部座席。たぶん真ん中にはナインが座るだろうけど、雪生さんに近い位置だ。
潔癖そうな彼女に臭いと思われたら、ちょっとダメージでかいもんなぁ……
なんて考えながら洗面台の前で首とか拭いていると、「はよー」と夏川先輩が欠伸しながら入ってきた。
「はよっす」
「オレも顔洗いたい」
隅に寄って、先輩のために場所を空ける。
バシャバシャと顔を洗った夏川先輩は、棚から勝手に新しいタオルを取り出して、顔の水気を拭った。
「なあ秋庭。今日こそ、市外に脱出してえよなー」
「そうっすね」
そんな会話をしながら、二人で洗面所を出る。窓を見たらまだ夜明け前だった。
リビングに入るとナインもすでに起きていた。
あれだけ寝たらさすがに疲れも取れたのだろう。
シャツ一枚という寒々しい格好のナインに、春日先輩と雪生さんが家の中から小さめの上着を探しだして、袖を折って羽織らせていた。
その後、五人で朝食がわりのスナックを食べ、物音を立てないように静かに車に乗り込んだ。
◇◇◇
一晩間借りした一軒家を出て、俺たちは藤実市の南側から市外に向かおうとしていた。
車内では、和やかな会話がかわされていた。
俺はナインにスマホを渡し、MeTubeを見せたり、動画の撮り方を教えたりしていた。
ナインは動画を撮るのにハマって、一人一人順番に何か話してる動画を撮っていた。
あまり覚えてないが、みんなで好きなタレントの話とかもしたと思う。
ちょうどその時、俺たちを乗せた車は、大きな交差点を通りかかった。
──交差点に侵入した瞬間。
視界の端から、白いセダンが飛び出してきた。
ぶつかる──と思った次の瞬間、凄まじい衝撃が体を貫いた。
「のわっ!」
「きゃああっ!!」
全員が悲鳴を上げた。
車がスピンしながら道路の上を滑る。
平衡感覚が狂う。
相手の運転手が白目を剥いて痙攣しているのを、視界の端が捉えた。
ゾンビになりかけの人間が運転する車にぶつけられたんだ、と頭の奥で理解する。
最悪だ。
タイミングが少しでもずれてたら、事故にはならなかったのに……!
春日先輩のハンドルさばきでもどうにもならない。
俺はナインを庇うように覆い被さった。
他のみんなも、悲鳴を上げて必死に車にしがみつく。
電信柱に突っ込んでようやく止まった頃には──周囲にゾンビが集まり出していた。
「クソッ!!」
俺のすぐそばの窓ガラスは、事故の衝撃で割れてなくなっていた。
俺とゾンビを隔てるものは何もない。
外から伸びてくる無数の手。
それを必死に足で蹴り払った。
「春日先輩、車動きますか!?」
「ダメ、エンジンかかんない!!」
「ちくしょう、いちかばちかで外に出るしかねえのかよ!?」
夏川先輩が吠える。
助手席の窓も割れていた。
先輩を捕らえようと、不気味な手が何本も伸びてくる。
それを、先輩はバットで必死に押し留めていた。
絶望的な状況だった。
俺たちは懸命に抵抗していた。
だが圧倒的な数の前に、敗北が見えてしまっていた。絶望が心を覆い尽くす。
「…………ぼくがなんとかする」
ゾンビの唸り声や、車をバンバン叩く音で耳を塞ぎたくなるほどうるさい。
それなのに少年の静かな声は、やけにくっきりと聞こえた。
思わず振り返って、息を飲んだ。
ナインの両目が血のように紅い。
その奥で、暗い光がゆらりと揺れた。
「ちかづくな」
少年は目を閉じて呟く。
すると示し合わせたように、ゾンビの群れはよろよろと後ずさり、車から離れていった。
なんだこれは……と戸惑いながらナインをまじまじと見る。
少年は再度まぶたを開き、紅い目をあらわにすると、唖然としている俺たちに告げた。
「……にげるなら、いま」
弾かれたように動き出す。
俺はナインと荷物を抱えて、ドアを蹴り開け、走り出した。
他の三人もいっせいに車を飛び出す。
ゾンビの大群が左右に割れて、俺たちの進行方向に空白が出来ていく。
まるでモーゼの出エジプト記のようだった。
疑問は山のようにあったが、悠長に話してる余裕はない。
俺たちは必死に走った。
ゾンビの大群から距離を稼ぎ、ドアが開けっ放しになっているアパートの二階を見つけて躊躇なく転がり込む。
この部屋に入る直前、俺たちは数体のゾンビとすれ違った。
奴らは俺たちを見ても追いかけることはせず、ただ突っ立ってるだけだった。
部屋に入って静かにドアを閉める。
はあはあ、と息を整える。気分は多少落ち着いてきたが、車を失ったという事実が重くのしかかった。
さらにここは、ゾンビの蔓延る町の中。
こんな状況で、どうやって市外に脱出したらいいんだよ。……考えるだけで気が重くなりそうだ。
そこで俺は、いや悲観的になるな、と考え直した。
目の前の危機を脱したのは、僥倖だと思うべきだ。
逃げ出せたのは、ナインの不思議な力のおかげだ。
──《抗体》持ちはみんな、こんな力があるのだろうか。いずれにしろ、この力があれば、この町から逃げることができるかもしれない。
そう思ったも束の間。
「……おにいさん、足。ケガしてる」
俺に抱えられたナインが、じっと俺の足首を見ていた。
雪生さんが小さく声を上げて口元を押さえる。
「穂浪君、それ……」
春日先輩が、震える指で俺の足を指す。
ジーンズが捲れ、俺の足首の辺りがあらわになっていた。
その剥き出しの皮膚に、爪で引っ掛いたような跡があり、僅かに血が滲み出していた。
俺の頭は真っ白になった。
