ワクチンの鍵となる《抗体》──"ナイン"を抱えた坂上は、ゾンビから身を隠しながら市街地を移動していた。
時刻はすでに昼過ぎ。
明け方に研究所を脱出し、次々と襲ってくるゾンビに何度か死を覚悟した。
だが、まだ生きている。
少年も今のところ無事だ。
それが奇跡に思えるくらいには、町中にゾンビが溢れ返っていた。
ともすれば絶望に飲まれそうな坂上に正気を保たせたのは、一縷の望みだった。
坂上はパンデミックのいわばグラウンドゼロにいた。
おかげでゾンビが無数にいる上、通信も不安定という極限状態にあった。
だが先ほど、ようやく電波が繋がるエリアに入り、携帯していた自分のスマホから外部と連絡が繋がった。
連絡がついた瞬間、坂上は涙が出そうなくらい安堵した。
この先で、自衛隊の小隊が装甲車に乗ってやってくる。そこで坂上と落ち合う手筈になっていた。
悪夢のような逃避行が、やっと終わる。
目印にしたビルは目と鼻の先。
歩きでも、ここから五分かからない。
坂上は腕の中の子供──ナインをチラッと見た。
彼はとても大人しい。
一度目を覚ましたが、また眠りに落ちて、その後はずっと眠っている。
静かにしてくれて助かった……坂上がそう思った時だった。
少年が唐突に、パッと目を開けた。
「あ、あぁ…………」
息をのむほど唐突に、ほんの数秒で、少年の瞳が黒から血のような深紅に変わった。
少年は体をガクガクさせて震えたかと思えば、「おじさん、そっちはいっちゃダメ……!」と必死にすがってきた。
突然の変化に驚き、慌てて少年の口を塞ぐ。
「しっ、静かに。ゾンビが寄ってくる……!」
「んんーーーっ」
言い聞かせても、少年は暴れるのをやめない。
さっきまでおとなしかったのが嘘のようだ。
仕方なく子供を力ずくで抑え込み、坂上は再び進んでいく。
……だが、様子がおかしい。
目印のビルが近づくにつれ、不穏な空気が濃くなる。
「……何が起ってる……?」
断続的な発砲音。それに重なる悲鳴。
ナインを迎えにきたはずの自衛隊が──何者かと交戦している。
恐怖を圧し殺し、坂上は建物の影から、騒ぎのする方をそっと覗き見た。
そこには──絶望的な光景が広がっていた。
装甲車に群がるゾンビの大群。
さらに疫学研究所で遭遇した化物──"アルファ"がいた。
おそるべき速さで、奴は隊員たちを次々と襲っては串刺しにしている。
坂上は歯を食いしばって、その場所からそっと離れた。
……そうするしかなかった。
◇◇◇
それからさらに数時間。
坂上は、いまだ市街地を彷徨っていた。
もう一度スマホで外部と連絡を取ろうとしたが、この一帯も通信が不安定で、なかなか繋がらない。
腕の中の少年は、再び意識を失った。
息を確かめたが、ただ眠っているだけのようだ。
坂上は幾度となくゾンビと遭遇したが、反撃せず、全力で逃げた。
子供を抱えて戦うのは難しい上に、囲まれたら最後、逃げられない。
ひたすら逃げることに集中し、ゾンビをやり過ごして、時間の感覚さえ麻痺してきた頃。
──今まではツキがあったのだろう。
だが、運もここまでだった。
「グァァァアアァッ」
「くそったれ!」
不意をつかれ、背後から襲われた。
手にした警棒で辛くも撃退したが、腕を思いきり噛まれた。
制服が裂け、抉れた肉から血が滴る。
建物の陰に逃げ込んだが、ふらついて立っていられない。
腕が焼けるように熱い。傷の周囲の血管が青く浮き出していく。
坂上は絶望と共にそれを見た。
間違いない──自分は、感染したのだ。
スマホは先ほど手を滑らせて落とし、ゾンビ達に踏まれ、壊れてしまった。
助けを呼ぶ手段はない。
生垣のそばで、崩れるように座り込む。
「……おじさん」
その時、ナインが再び目を覚ました。
体に力が入らない。
抱き上げていられず、彼はそっと少年を地面に下ろし、ずるずると地面に横たわった。
「……ケガしちゃったの?」
「ゾンビに噛まれちまった。君を安全な場所に連れていくと約束したのに……本当にすまない」
「どこをかまれたの?……このうで?」
「ダメだ、触るな。感染するぞ……!」
傷口を触ろうとした少年の手を、坂上は弱々しく振り払う。
「だいじょうぶ、ぼくは感染しないんだ」
少年は親指の先をためらいもなく噛みちぎり、滴る血を坂上の傷に、そっと押し当てた。
「ゾンビになるのを、すこしおくらせるだけになるかもしれないけど……運がよければ、ウイルスに《適合》してたすかるよ」
「……そうか」
「ぼく、これくらいしかできないや。ごめんね……」
「いや、ありがとう。すまないな」
目眩が止まらず、頭が重い。
血の臭いが鼻を突き、痛みが腕を突き抜ける。
だが──暫くすると、体が少しだけ軽くなった気がした。
彼はナインを見て小さく笑った。
「君がワクチン生成の鍵──《抗体》を持ってるというのは、本当なんだな」
「……うん」
「お陰で少しだけ動けそうだ」
少年は「進行を遅らせるだけになるかも」と言っていた。
つまり、坂上自身がいつゾンビ化して、少年を襲うか分かったものではない。
何とかして、この子をしかるべき政府機関へ届けなくては。
だが、その方法がまるで思い浮かばなかった。
──その時、不意に車のエンジン音が聞こえた。
音は次第に近づいてくる。
非感染者が運転する自動車だろうか。
千載一遇のチャンスだった。
これを逃せば、少年を市外に送り届ける機会は、もうない。
咄嗟に体が動き、車道に飛び出す。
──もう、一瞬だってためらっている時間はない。
坂上は、こちらに向かってくる白い車に、「おおーい!」となりふり構わず両手を振った。
