Q.
「ねぇ、真くんって恋したことあるの?」
静寂に包まれた放課後の図書室で、その言葉が雑音のように響いた。
僕は思わず眉をひそめる。
“恋”――僕がそれに価値を感じたことは、一度もない。
「僕は答えのないものには興味がないんだ」
すると、彼女は口角を上げて、いたずらっぽく笑った。
「つまり、“恋をしたことがない”ってこと?」
僕は何も答えず、本に目をやり、静かにページをめくる。
「何も答えないってことは、“ない”んだね?」
「……はあ、好きに解釈すれば?」
「じゃあ、そういうことにしとくね!」
ため息をつく僕の傍らで、彼女は“今日も”満足げに笑った。
僕の目の前にいる花咲陽菜は、何かと僕に絡んでくる存在だ。
きっかけは、彼女に勉強を教えてほしいと頼みこまれたことだった。
僕よりも適任者はいたはずだが、断るのが面倒で、結局教えることになった。
これが終われば、彼女と関わることはない。
そう思っていたのに、なぜか彼女は僕に話しかけてくるようになった。
「ねぇ、恋ってどうやってなるものだと思う?」
「それを僕に聞かないでくれ」
「そっか。答えがないものって、やっぱり真くんにはわからないか」
彼女のひと言に、僕はカチンときた。
確かに、僕は恋に興味がない。
でも、解けないと決めつけられるのは、癪に障る。
「解けないかどうかは、考えてみないとわからないだろ」
すると、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「それもそうだね。じゃあ、恋の方程式が解けたら声かけて」
彼女は最後に「楽しみにしてるね」と言い残し、軽い足取りで図書室をあとにした。
恋は非合理的で、不可解だ。
でも、それが数学のような方程式で解けるなら……。
そう考えてしまったこと自体、僕にとっては大誤算だった――。
Q.
次の日から、僕は放課後の図書室で、柄にもなく恋愛小説を読んでいた。
あれから三日。
恋の方程式の参考になるかと思ったが、どれも感情論ばかりで、答えは見つからない。
こうなることは、最初からわかっていたはずなのに。
途中で投げ出したくても、それ以上に「解けなかった」と言われるのは、どうしても自分が許せない。
そういえば、恋の方程式を解けと言ってから、花咲さんは僕に絡んでこなくなった。
そのほうが集中できると思っていたのに。
急に騒がしい存在がいなくなると、かえって落ち着かなくなる。
……って、余計なことを考えている暇はない。
一日でも早く、恋の方程式を解かなければいけないのに。
とはいえ、数学の答えを導くには、前提となる条件がある。
それに比べて、この難解な方程式には、そもそも前提と呼べるものがほとんどない。
不本意だけど、出題者に確認してみる必要がありそうだ。
僕は放課後、花咲さんを呼び止めた。
「珍しいね。真くんから私に声をかけるなんて。もしかして、恋の方程式は解けたの?」
そう言う彼女は、どこか楽しそうだ。
まるで、僕の反応を面白がっているように。
「……まだ」
「ふふっ、そうなんだ。苦戦してそうだね」
ここ数日、まったく話していなかったのに。
彼女は彼女のまま、何も変わっていない。
「ところで、私に何の用?」
「キミに質問があるんだ」
「質問? なになに?」
彼女は、からかうように身を乗り出して聞く。
今から質問をするなんて、気が引ける。
でも、聞かないままでは、答えに近づくことすらできない。
腹をくくって、彼女に尋ねる。
「……恋って、どこからが始まりだと思う?」
彼女は一瞬きょとんとしていたが、すぐに吹き出した。
「あははっ! 何を聞くかと思ったら」
「これでも僕は真面目に聞いてるんだ」
「ごめんごめん。そういうところ、真くんらしいなと思ってね」
想定通りの反応だった。
「キミに聞いた僕が間違いだったよ」
「あー、待って待って! 真面目に答えるから」
彼女は、軽く咳払いをしてから口を開く。
「そうだね……気づいたら、もう始まってる感じ?」
「それじゃあ、何の参考にもならないじゃないか」
想定内の答えだったが、つい口に出てしまった。
「そんなこと言われても……真くんが解けない難問を私が解けると思う?」
「その難問を僕に押しつけておいてよく言うよ」
「それは心外だな。“解けないかどうかは、考えてみないとわからない”って言ったの、真くんだよ?」
彼女の言うことに、ぐうの音も出なかった。
確かに、この問いを僕に投げてきたのは彼女だが、それを解こうとしたのは、僕自身だ。
「ひょっとしたら、もう真くんも恋が始まってるかもしれないよ?」
「そんなわけないだろう」
僕は彼女にふっかけられた問いを解くことで精いっぱいだ。
少なくとも、今は恋をしている余裕なんてない。
「まあいいか。恋の方程式が解けるといいね」
彼女はそう言い残して、満足そうにその場をあとにした。
どうも彼女はどこかつかみどころがない。
いったい、彼女は何を考えているのだろうか。
A.
彼女から厄介な問題を引き受けて一週間。
未だに答えは出ていない。
恋の始まりには、何かしらの前提や条件があるはずだ。
そう思って恋愛小説をまた読んでみたが、描かれているのは偶然やその場の雰囲気ばかりだった。
それを恋と呼ぶには、あまりに都合がよすぎる。
そんなうまい話があるわけないのに。
『ひょっとしたら、もう真くんも恋が始まってるかもしれないよ?』
彼女の言葉が、ふいに頭をよぎる。
彼女はよく突拍子もないことを言うが、それが間違っているとも言い切れない。
どうにも引っかかる――理由はわからないけれど。
放課後の図書室で、何気なく手に取った恋愛小説をパラパラとめくる。
ここ数日、この手の話を読んでいて、ひとつ気づいたことがあった。
どの物語でも、描写は決まってヒロインとヒーローに集中しているということだ。
気づけば、視線はそのふたりを追っている。
何度も目にするうちに、彼らの存在が頭に残っていく。
おたがいの存在を認識し、それを意識し続けることで、関心が生まれる。
——これが、「恋の始まり」と呼ばれるものなのだろうか。
理屈としては、筋が通っている。
花咲さんは、僕が気づかないうちに、誰かの存在を認識して、意識しているとでも言いたかったのだろうか。
……バカバカしい。
今日は、これ以上考えるのはやめよう。
静かに恋愛小説を閉じて、本棚に戻す。
それでも、頭の中は勝手に恋の方程式の続きを考えていた。
