犬神少女とカゲロウ鬼

 繰実を見送った後、人の姿に戻る。
「……狗紙さん」
 振り向くと、影朧が静かな目でこちらを見つめていた。
 淡い光を宿したような優しい眼差しだった。

「〝何を考えているか分からない〟なんて、僕は思いませんよ」
 千咲は呼吸を一つ飲み込む。

「むしろ……押しとどめた気持ちの奥に、たくさんの思いやりがあることくらい、触れなくても分かります」
 彼の声は柔らかく、どこか温かかった。

「感情を抑えるのは、きっと苦しかったですよね。怖がらせたくないって、必死で……」
「なんで……」
 千咲は言葉の続きが喉につかえた。胸の奥がじん、と軋む。

「——僕も、似たような経験をしてきたので」
 その一言に、思わず目を見開いた。
「昨日は病と言いましたが……本当は、暴走の危険があったからなんです。外に出ることを禁じられていました」
 千咲は息を呑む。

「どうも僕は他の人より妖怪の血が濃いらしくて、ある程度制御出来るようになるまで……長い時間がかかってしまいました」
 彼は恥ずかしそうに視線を落とし、そっと頬をかいた。

 そして、ゆっくりと言葉を続ける——。
「狗紙さん。僕と……友達になってくれませんか」

「え——」
 思わず声が漏れた。影朧はほんの少し照れたように笑う。

「今まで歳の近い方と一緒に過ごす機会がなかったので、こうして話せる相手ができたらいいなと、ずっと思ってました。だから……友人になってくれたらとても嬉しいです」

「私で、いいの?」
「もちろんです。狗紙さんだから、お願いしたいんです」
 迷いのない声だった。
 影朧が手を差し出す。

 千咲の胸に、じんわりと温かなものが広がった。
 昨日の混乱とも、子どもの頃の痛みとも違う、ゆっくりと満ちていくようなぬくもりだった。

「……うん。私でよければ、喜んで」
 千咲はそっと影朧の手に触れ、ぎゅっと握った。



 それから数時間が経ち。
 正午を告げる鐘が澄んだ音を響かせた。

「お昼になりましたね」
「うん。一緒に食べよ」
「はい、ぜひ」

 二人は並んで食堂へ向かって歩き始めた。
 異変が起きたのは、そのすぐ後だった。

 少し前を歩く影朧の身体が、ふっと輪郭を失い、ゆらりと揺らいだのだ。
 それだけではない。彼の身体は、向こう側の景色が見えるほどに透けていた。
 まるで幽霊にでもなったかのようだ。

 ——……?
 千咲は思わず足を止め、瞬きを繰り返す。
 次に視線を向けたときには、影朧の姿はいつもの通りだった。

「狗紙さん? どうされましたか?」
 影朧が不思議そうに振り返る。

「……ううん、なんでもない」
 気のせい——そう自分に言い聞かせながら、千咲は歩みを再開した。

 この小さな違和感が、これから訪れる不穏の兆しだとは——千咲はまだ知る由もなかった。

 2章 了