◇
翌朝。
あまり眠れなかった。
いつもとは違う理由でぼんやりと廊下を歩き、神晶石の間へ辿り着く。
中には既に多くの狛人が集まり、静かに霊力供給を行っていた。
千咲もその輪に加わり、いつものように手を合わせて霊力を注ぎ込む。
——神晶石に願いをすると叶う、って。本当なんでしょうか。
影朧が昨日言った言葉を思い出し、胸がちくりと痛む。
幼い頃、千咲もその噂を信じていた時期があった。
——……会ったら、ごめんなさいって言わないと。
朝起きてからずっと、その考えが頭の中をぐるぐると回り続けていた。
神晶石の間を出た千咲は、菓子の自販機のある廊下へと足を向けた。
朝からどうにも食欲が湧かず、今日は軽く済ませようと思ったのだ。
だが——自販機の前には、既に人影があった。
影朧だった。
彼が手にしているのは昨日千咲が渡したのと同じ菓子だ。
胸がきゅっと縮むような、説明しづらい気持ちが込み上げる。
まだ心の準備が出来ていない、どんな顔をして言えばいいんだろう——。
そんな千咲に気付いた影朧が、ゆっくりと身体を向けた。
「もしよければ……食べますか?」
控えめにこちらの様子を窺うような笑顔で、影朧は菓子の袋を一つ差し出してきた。
「……昨日は、ごめんなさい」
千咲は袋を受け取ると、深々と頭を下げた。
「いえ。こちらこそ……怖がらせてしまいましたね」
影朧はわずかに眉尻を下げ、気まずそうに視線を伏せる。
そうして二人で並んで歩き、見回りの仕事に向かった。
「小さい頃にね、現世で友達と喧嘩したんだ」
千咲は塀に寄りかかり、袋から菓子をつまんで口に運びながら話し始める。
「そのとき、感情が昂りすぎて変化しちゃって……すごく怖がらせちゃった」
個体差はあるが、狛人に流れる妖怪の血は、感情に強く左右される。情緒が乱れれば血が暴れ、最悪の場合、自我を喪失してしまうこともある。
影朧が問いかける。
「……表情が乏しいのは、それが原因ですか?」
千咲は菓子を口にくわえたまま、隣にいる影朧に顔を向けた。
「出会ったときから……ずっと、何かを押しとどめているように見えました」
千咲は口から菓子を外し、視線を正面に戻す。
「うん……。あの日以来、家族も怖がるようになっちゃったから」
小さく息を吐く。
「感情って、一度あふれると止められなくなるでしょう? だから……“こぼれないように”って。そしたらみんな普通に接してくれるようになったの。友達だってできた——繰実ちゃん」
そう言いながら、胸の奥にひっそり沈んでいる邦彦の記憶が甦った。
——千咲は何考えてるか分からなくて不気味だし。
「……でも、だめだったみたい。婚約してた人には何考えてるか分からないって言われちゃった」
怖がらせないように、誰にも迷惑をかけないようにと必死で抑えていたことが、逆効果だった。——その事実がこたえた。
もしかしたら、他の人も同じように思っているんじゃないか。気味悪がられているんじゃないか。そんな不安が、じわりと胸の底から湧き上がってくる。
「……狗紙さん——」
「きゃぁあああ!!」
影朧の声を遮るように、すぐ近くで悲鳴が上がった。
「今の、繰実ちゃん——?」
影朧が目の色を変え、ダッと駆け出す。千咲も慌ててその後を追った。
二人は走りながら妖怪の姿へと変化する。
角を曲がった先、そこには顔は猿、胴は狸、四肢は虎、尾は蛇の形をした妖怪——鵺が鋭い爪を振りかざしていた。
その前では尻餅をついた繰実が首を長く伸ばしたまま震えている。
繰実はろくろ首の狛人で、千咲や影朧のような戦闘能力はない。
「くっ……!」
影朧がすばやく飛び込み、鵺を斬り伏せる。妖怪の身体が塵となって崩れ落ちた。
影朧はすぐに繰実へと駆け寄る。
「轆轤さん、お怪我は?」
「だ、大丈夫——あっ、後ろ!!」
ハッとして振り返る。
崩れかけた鵺の身体が、最後の力で二人に飛びかかってきていた。
反応が一拍遅れ、影朧では対処が間に合わない。
「——行け」
千咲が鋭い声を出す。それを合図に、手の中から零れ落ちた墨が犬の姿を象り、鵺に飛びかかった。
噛みつかれた鵺は悲鳴を上げることもできず、完全に消滅する。
「……すみません、油断しました」
影朧がほっと息をついた後に悔しげに眉を下げる。
「いいよ。みんな無事なら、それで——わっ」
千咲が言い終えるより早く、繰実にぎゅっと抱きつかれた。首は既に戻っている。
「サキちゃ〜んっ、ありがとう! 本当に助かったよ〜!」
「く、苦しい……」
「轆轤さん、離してあげてください」
影朧が苦笑しながら声をかける。
「あっ、ごめんね!」
繰実は慌てて離れ、ぺこぺこと頭を下げた。
「四鬼崎さんもありがとね!」
「いえいえ」
一連の騒動が落ち着いた後、繰実はどうやらどこかに出かける途中だったらしく、ひらひら手を振って去っていった。
翌朝。
あまり眠れなかった。
いつもとは違う理由でぼんやりと廊下を歩き、神晶石の間へ辿り着く。
中には既に多くの狛人が集まり、静かに霊力供給を行っていた。
千咲もその輪に加わり、いつものように手を合わせて霊力を注ぎ込む。
——神晶石に願いをすると叶う、って。本当なんでしょうか。
影朧が昨日言った言葉を思い出し、胸がちくりと痛む。
幼い頃、千咲もその噂を信じていた時期があった。
——……会ったら、ごめんなさいって言わないと。
朝起きてからずっと、その考えが頭の中をぐるぐると回り続けていた。
神晶石の間を出た千咲は、菓子の自販機のある廊下へと足を向けた。
朝からどうにも食欲が湧かず、今日は軽く済ませようと思ったのだ。
だが——自販機の前には、既に人影があった。
影朧だった。
彼が手にしているのは昨日千咲が渡したのと同じ菓子だ。
胸がきゅっと縮むような、説明しづらい気持ちが込み上げる。
まだ心の準備が出来ていない、どんな顔をして言えばいいんだろう——。
そんな千咲に気付いた影朧が、ゆっくりと身体を向けた。
「もしよければ……食べますか?」
控えめにこちらの様子を窺うような笑顔で、影朧は菓子の袋を一つ差し出してきた。
「……昨日は、ごめんなさい」
千咲は袋を受け取ると、深々と頭を下げた。
「いえ。こちらこそ……怖がらせてしまいましたね」
影朧はわずかに眉尻を下げ、気まずそうに視線を伏せる。
そうして二人で並んで歩き、見回りの仕事に向かった。
「小さい頃にね、現世で友達と喧嘩したんだ」
千咲は塀に寄りかかり、袋から菓子をつまんで口に運びながら話し始める。
「そのとき、感情が昂りすぎて変化しちゃって……すごく怖がらせちゃった」
個体差はあるが、狛人に流れる妖怪の血は、感情に強く左右される。情緒が乱れれば血が暴れ、最悪の場合、自我を喪失してしまうこともある。
影朧が問いかける。
「……表情が乏しいのは、それが原因ですか?」
千咲は菓子を口にくわえたまま、隣にいる影朧に顔を向けた。
「出会ったときから……ずっと、何かを押しとどめているように見えました」
千咲は口から菓子を外し、視線を正面に戻す。
「うん……。あの日以来、家族も怖がるようになっちゃったから」
小さく息を吐く。
「感情って、一度あふれると止められなくなるでしょう? だから……“こぼれないように”って。そしたらみんな普通に接してくれるようになったの。友達だってできた——繰実ちゃん」
そう言いながら、胸の奥にひっそり沈んでいる邦彦の記憶が甦った。
——千咲は何考えてるか分からなくて不気味だし。
「……でも、だめだったみたい。婚約してた人には何考えてるか分からないって言われちゃった」
怖がらせないように、誰にも迷惑をかけないようにと必死で抑えていたことが、逆効果だった。——その事実がこたえた。
もしかしたら、他の人も同じように思っているんじゃないか。気味悪がられているんじゃないか。そんな不安が、じわりと胸の底から湧き上がってくる。
「……狗紙さん——」
「きゃぁあああ!!」
影朧の声を遮るように、すぐ近くで悲鳴が上がった。
「今の、繰実ちゃん——?」
影朧が目の色を変え、ダッと駆け出す。千咲も慌ててその後を追った。
二人は走りながら妖怪の姿へと変化する。
角を曲がった先、そこには顔は猿、胴は狸、四肢は虎、尾は蛇の形をした妖怪——鵺が鋭い爪を振りかざしていた。
その前では尻餅をついた繰実が首を長く伸ばしたまま震えている。
繰実はろくろ首の狛人で、千咲や影朧のような戦闘能力はない。
「くっ……!」
影朧がすばやく飛び込み、鵺を斬り伏せる。妖怪の身体が塵となって崩れ落ちた。
影朧はすぐに繰実へと駆け寄る。
「轆轤さん、お怪我は?」
「だ、大丈夫——あっ、後ろ!!」
ハッとして振り返る。
崩れかけた鵺の身体が、最後の力で二人に飛びかかってきていた。
反応が一拍遅れ、影朧では対処が間に合わない。
「——行け」
千咲が鋭い声を出す。それを合図に、手の中から零れ落ちた墨が犬の姿を象り、鵺に飛びかかった。
噛みつかれた鵺は悲鳴を上げることもできず、完全に消滅する。
「……すみません、油断しました」
影朧がほっと息をついた後に悔しげに眉を下げる。
「いいよ。みんな無事なら、それで——わっ」
千咲が言い終えるより早く、繰実にぎゅっと抱きつかれた。首は既に戻っている。
「サキちゃ〜んっ、ありがとう! 本当に助かったよ〜!」
「く、苦しい……」
「轆轤さん、離してあげてください」
影朧が苦笑しながら声をかける。
「あっ、ごめんね!」
繰実は慌てて離れ、ぺこぺこと頭を下げた。
「四鬼崎さんもありがとね!」
「いえいえ」
一連の騒動が落ち着いた後、繰実はどうやらどこかに出かける途中だったらしく、ひらひら手を振って去っていった。


