犬神少女とカゲロウ鬼

 ◇

 ポーン、と軽い音を立ててエレベーターの扉が開いた。
 目の前のエレベーターホールには、見知った人物が立っていた。

 白い髪を腰まで伸ばした、二十代後半の男性——蛇代(へびしろ)克巳(かつみ)
 響牙と同じく、千咲にとってきょうだいのような頼れる存在だ。
 だが今は、どこか困ったような表情をしている。

「克巳さん、どうされましたか?」
 千咲が言うよりも早く、影朧が先に声をかけた。どうやら克巳とも知り合いらしい。

「んぁ? やあ、君たちか!」
 こちらに気付いた克巳は、ひらりと手を振りながら人懐こい笑顔を向けた。
「会議に使う資料を探してたんだよ。電話に出たり、人に呼ばれたりしてるうちに、どこに置いたか忘れちまってさ」
 克巳は困ったように苦笑し、頭の後ろに手を回す。

「それは大変ですね、手伝いますよ」
「ほんとか!? サンキュー、助かるよ!」

「私も——」
 千咲が「一緒に探す」と言いかけたところで、影朧が突然克巳の手を取った。二人ともそのままぴたりと動かない。
 影朧は目を閉じ、集中しているようだった。
 ——……?
 何をしているのか分からず、千咲は不思議に思いながらもぼんやりと見守った。

 数秒後——影朧がぽつりと呟く。
「縁側……北の所でしょうか、景色的に」
「縁側……? あぁ! そういや午前中に響牙と茶を飲んでたんだ! その後に忘れてったんだろうな」

 克巳は手を叩いて納得すると、「あんがとー!」と明るく礼を言い、足早に去っていった。

「……今の、なぁに?」
 手を触れただけで分かった理由が気になって、千咲は小首を傾げて尋ねた。

「ちょっとした特技です」
 影朧は柔らかく笑いながら答える。
「霊力を介すると、人の記憶が見えるんです。本人が忘れていることでも、断片なら拾えます」

 その説明に——千咲の身体がビクッと強張った。
 心臓がバクバクと、いやに大きな音で鳴り始める。

「だから狗紙さんも、もし何か思い出したいことがあれば遠慮なく——」
 影朧がそっと手を伸ばしてくる。
 反射的に——バシンとその手をはたいた。

「あ——」
 思わずやってしまった行動に千咲はハッとする。
 影朧は驚いたように目を丸くしていた。

 千咲は気まずさに耐えられず、顔を伏せたままその場から逃げるように走り去った。

 自室へ戻っても、胸の奥のざわつきは収まらない。
 彼を叩いた手は、今もじんわりと熱を残していた。