犬神少女とカゲロウ鬼

「びっくりした……」

 千咲は手をパンパンと払うと、ふっと力を抜くようにして人間の姿へ戻った。
 戦意に満ちて鋭くなっていた表情も、いつものぼんやりした顔つきにゆるんでいく。

 午前の見回りももうすぐ終わり。
 ——お昼どうしようかな……今日は魚の気分だから、鯖味噌定食にしようかな。
 そんな呑気なことを考えながら歩き出した、そのときだった。

 地面がうねるように盛り上がり、土を割って——二匹目の大ムカデが飛び出した。

「えっ——」
 完全に油断していた。まさか二体目が来るなんて。
 突然のことで身体が強張り、足が動かない。

 ——やられ————っ。
 迫りくる巨躯に反射的に目を閉じた、その瞬間。

 ザンッ、と空気を裂く鋭い音。
 続いて、ドサリと何かが倒れる音が響いた。

 おそるおそる目を開けると、うずくまった大ムカデ。その背後に——誰かが立っていた。

 髪も目も——そして肌も、薄い紅に染め、頭頂に二本の角を生やした鬼だ。
 尖った耳には眼鏡がかかっており、紺の軍服を身につけている。
 太刀を持つ手には鋭い爪が生え、圧倒的な強者の気配を漂わせていた。
 気配から狛人と分かる。だが千咲には見覚えのない人物であった。

「——お怪我はありませんか?」
 低く落ち着いた声が響く。
 鬼は手にしていた太刀を滑らかな手付きで鞘へ戻し、煙のように太刀そのものをしまった。
 
 直後、赤い肌が白へ変色し、角がひっこみ、爪も縮んでいく。
 異形が霧散するように消え、青年の姿へと変わっていった。

「誰……?」
 やはり知らない人だ。千咲は自然と問いかけていた。

 青年は眼鏡越しの赤い瞳をやわらかく細め、静かに答えた。
「鬼の狛人、四鬼崎(しきざき)影朧(かげろう)と申します」

 1章 了