犬神少女とカゲロウ鬼

 ◇

 それから少し経って。

 克巳は骨折のため、しばらく安静にするよう医師から言い渡され、自分の病室へと戻っていった。

 影朧と響牙は、既に動ける状態だということで、北側区域の復旧作業へ向かうことになった。
 千咲も手伝おうとしたが、目を覚ましたばかりであることと、霊力がまだ完全に戻っていないことを理由に、二人からきっぱりと制止される。

「今は無理しないで。ちゃんと休むこと」
 響牙にそう言われてしまえば逆らえるはずもなく、千咲は素直にベッドへ戻った。

 今は繰実と談笑している。
「そういえばお見合い、どうなったの?」
 尋ねると、繰実は一瞬だけ視線を泳がせ、照れたように頬をかいた。

「えっとね……思いの外気が合っちゃって。で、そのまま……お付き合いすることになりました」
「そっか。——よかったね」
 心配だったが、結果的に幸せな方向に進んで良かったと安堵する。
 千咲が微笑むと、繰実も嬉しそうに笑い返した。

 その後、正午を告げる鐘の音が響く。
「あ、もうお昼だ。ごはん持ってくるね。サキちゃん、何がいい?」
「じゃあ、鯖味噌定食で」
「了解!」
 繰実は元気よく頷くと、足早に部屋を出ていった。

 一人になった途端、部屋はしんと静まり返る。
 胸の奥に残るのは、無事に事態が収束したことへの安心感。

 ——コンコン。
 控えめなノックの音に、千咲は顔を上げる。

「どうぞー」
「失礼します」
 影朧が静かに入室してきた。

「どうしたの?」
「実は——狗紙さんにお渡ししたい物が……」

 影朧は控えめに笑みを浮かべ、手にしていた宅配便のダンボールを差し出してくる。
 受け取って蓋を開けると、中には生成り色のワンピースが入っていた。

「これって……」
 映画を観に行った際に見かけたあの服だ。

「今までのお礼にと、少し前に注文してたんです」
 彼は少し照れたように視線を逸らす。

「いいの? もらっても」
「もちろん」
 千咲の顔に、ぱっと花が咲いたような笑みが広がる。
「ありがとう! 大事にするね!」
 その言葉に、影朧はほっとしたように微笑んだ。

 千咲がワンピースを丁寧に畳み直し、箱に仕舞っていると。
「……狗紙さん」
 彼が静かに声をかけてくる。

 顔を上げると、彼は頬を赤く染めたまま、どこか覚悟を決めたような、真剣な表情をしていた。

「まだ僕のこと、好いていてくれますか?」

 不安を隠しきれない声に、千咲は一瞬、言葉を失った。
 遅れて、頬に熱が集まっていく。

 何故彼がこちらの気持ちを——と思ったが、そういえば記憶を見せたのだと思い出す。

「——す……」
 千咲は思わず視線を逸らした。
 彼の部屋へ向かうときは自分の気持ちを伝えたい一心だったのに、いざ口にしようとすると、胸がいっぱいになって言葉が詰まる。

「狗紙さん?」
 影朧の声が近い。
 低く、柔らかく、甘い。

「好……き……」

 ようやく絞り出した声は、掠れて震えていた。
 次の瞬間、影朧の手がそっと千咲の頬に触れ、優しくこちらを向かせる。
 思っていたよりもずっと近い距離に、心臓が跳ね上がった。

「狗紙さん……僕も、です」
 指先が頬から顎へと滑り、そっと支える。
「貴女を愛しています」

 その言葉と同時に、二人の距離は消えた。
 重なった唇は、驚くほど静かで、温かくて——。
 確かめ合うような、初めての口付けだった。