犬神少女とカゲロウ鬼

 ◇◇◇

「ガ……ア……ァ……あ——」
 千咲の首を絞めていた影朧の手から、力が抜けていく。
 鋭く伸びていた爪は縮み、頭に生えていた角は音もなく引っ込み、赤く染まっていた肌は、次第に白へと戻っていった。
 そして——血のように濁っていた赤い瞳に、微かに理性の光が宿る。

「ち……さき……さん……」
 掠れた声を残し、影朧はその場に崩れ落ちた。
 胸が上下するたび、ひゅう、と苦しげな音が漏れる。呼吸は浅く、今にも途切れてしまいそうだった。

「四鬼崎さん——っ! 待ってて、今解毒剤を——」
 言って立ち上がろうとした途端、視界がぐらりと揺れた。

 ——あ……霊力切れ……。
 影朧へ、大量の霊力を送り込んだのが原因だろう。
 身体が言うことを聞かず、力が抜けていく。

 千咲はそのまま、影朧の傍へと倒れ込み、静かに意識を手放した。

 ◇

 次に目覚めたときには、医務室のベッドの上だった。
 首を動かすと、隣の椅子に繰実が座っているのが目に入った。
 眠っている間に、実家から戻ってきたのだろう。彼女は俯いたまま、微動だにしない。

 窓に目をやると、白くやわらかな光が差し込んでいた。
 夜はとうに明けている。

 そのとき、繰実がはっと顔を上げる。
 こちらを見つめる瞳が大きく見開かれ、安堵と喜びが一気に溢れる表情を見せた。

「サキちゃん……っ。響牙ちゃん! サキちゃん起きた!」

 声に反応して、出入り口付近で話していた響牙と克巳が一斉に振り返った。
 二人とも身体中に包帯を巻いている。克巳に至っては、片腕をギプスで固定しており、相当な激戦だったことが窺えた。

 それでも二人は痛みなど構わないと言わんばかりに、こちらへと駆け寄ってくる。

「具合はどう?」
 響牙の穏やかな声に、千咲は小さく頷いた。
「うん、大丈夫……」

 答えてから、改めて自分の身体に視線を落とす。
 手と首には包帯が巻かれ、頬にはガーゼが当てられていた。

 狛人は普通の人間よりも回復が早い。多少痛みはあるが、この程度ならすぐに治るだろう。

 そこまで考えて、千咲ははっと顔を上げる。
「四鬼崎さんは……!?」

 思わず声を強めて尋ねると、響牙と克巳は視線を交わした。
 克巳は響牙を見て無言で頷き、出入り口へ向かう。そのまま静かに部屋を出ていった。

 残された響牙が、真っ直ぐこちらを見る。
「暴走は完全に落ち着いたよ。今は別の部屋で安静にしている」
 少し間を置いて続ける。
「かなりの深手だったけど、命に別状はない。ちゃんと解毒もしたからね」

 その言葉を聞いて張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。
 千咲は小さく息を吐く。

 千咲の反応を見た後に、響牙は手にしていた封筒を開き、その中から一枚の紙を取り出した。
「それでね、千咲ちゃんに伝えておきたいことがあるんだけど——」

 前置きしてから、彼女はその紙をこちらへ差し出す。

 千咲はおそるおそる受け取り、目を落とした。
 紙の正体は写真だった。
 男性の半裸だけが写し出されている。
 胸元には奇妙なことに、赤い石が埋め込まれていた。

 困惑する千咲に、響牙は静かに告げる。
「影朧のだよ」
 千咲は小さく目を見開き、思わず響牙の顔を見返した。

「この石、詳しく調べてみたらね。神晶石と同じ性質を持っていた」
 響牙は淡々と言葉を続ける。
「どうやら、影朧の体内で生成されたものらしいんだ」

「え——」
 そんなことが本当にあり得るのか。
 千咲の頭に、理解が追いつかない感覚が広がっていく。

「これが神晶石と長い間繋がっていた影響で起きた突然変異なのか、それとも別の要因が絡んでいるのか……正直、まだ断定はできないんだけどね」
 響牙は一度言葉を切り、千咲の反応を確かめるように視線を向ける。

「ただ、一つはっきりと言えることは——」
 その声は、確信を帯びていた。
「神晶石を介さなくても、他者の霊力によって鬼の血を抑えられるようになった、ってことだよ」

「……それって、つまり……」
 千咲は息を呑み、続きを促す。

 響牙は小さく頷き、穏やかな笑みを浮かべた。
「うん。影朧が消えてしまう心配は、もうなくなったってことだね」

 その言葉を聞いた瞬間、千咲の表情がぱっと明るくなる。
 胸に溜まっていた不安が、ようやくほどけていくのを感じた。

 そのとき——ガラッと、勢いよく引き戸が開いた。
 現れたのは、影朧だった。
 走ってきたのだろう、肩で大きく息をしている。全身は響牙達と同じように包帯だらけだ。

 その背後から、克巳がひょいと顔を出す。
 どうやら彼を呼びに行っていたらしい。

「狗紙さん……」
 影朧の声は震えていた。
 眼鏡越しに覗く赤い瞳は、今にも泣き出しそうだ。

「四鬼崎さん。身体、だいじょ——」
 言い終える前に、千咲は強く抱き締められた。

「……ごめ——っ……すみません……本当に、僕……っ!」
 嗚咽を堪えるような声が、耳元で震える。
 傷付けてしまったことへの後悔が伝わってきた。

 千咲は驚きながらも、そっと影朧の背中に手を回し、撫でる。
「……いいんだよ。生きててくれて、無事でいてくれたなら、それで」
 そう言って、柔らかく笑った。

 直後、影朧の肩が大きく揺れ、堪えきれなかった涙が溢れ落ちる。
 声を殺しながら、彼はただ、千咲を抱き締め続けていた。