◇◇◇
男は何か、とても大切なものを失くした気がした。
それがなんだったのかは思い出せない。
自分が何者なのかさえ——今の彼には分からない。
胸の奥に穿たれた空洞。
その穴を埋めるかのように、黒い破壊衝動が膨れ上がっていく。
それはいけないことだ、と——。
ほんの僅かに残った理性が警鐘を鳴らす。
だが、身体は言うことを聞かなかった。
そんなとき、誰かが自分の手に触れた。
——触るな。
反射的にもがき、振り払おうとした瞬間。
脳裏に、洪水のように映像が流れ込んでくる。
自分のものではない。
けれど、確かに知っている記憶。
巨大な勾玉が浮かぶ、不思議な空間。
菓子が並ぶ自販機。
誰かに向けて、穏やかに笑う自分。
暗いスクリーンいっぱいに広がる、夜空の花火。
——これは……。
知っている。
見覚えがある。
「私も……四鬼崎さんのこと、好き」
震えながらもはっきりと口にする、少女の声。
深く沈み込んでいた記憶が、底から次々と浮かび上がってきた。
——僕は……四鬼崎影朧。
失われていた輪郭が、ゆっくりと形を取り戻していく。
自分が何者であるのかを、確かに思い出しながら。
◇
影朧は、生まれて間もなく親元から引き離された。
理由はただ一つ——妖怪の血があまりにも濃く、周囲を無差別に攻撃してしまったからだ。
それ以来、彼はあの蔵の地下のプレハブ小屋で暮らしてきた。
神晶石と接続しても、暴走の危険性が完全に消えることはなく、精神が安定するまで幽閉を余儀なくされた。
五年が経っても、状況は好転しなかった。
定期的に暴走を繰り返し、そのたびに監視役の人間を傷つけてしまう。
怪我を負わせるたび、影朧は「ごめんなさい」と頭を下げた。
彼自身、誰かを傷つけたいと思ったことなど一度もない。
けれど暴走の最中は、壊したいという衝動が脳を支配し、どうしても抗えなかった。
監視の人々は、気にするなと笑ってくれる。
その優しさが、かえって彼の胸に重くのしかかる。
自分は、取り返しのつかない存在なのではないか。
生きてはいけない存在なのではないか。
そう思うほどに、自己嫌悪は深く、濃く、広がっていった。
異変が起きたのは、そこから二年が過ぎた頃だった。
影朧が七歳になり、新しい監視役として響牙と克巳に出会って、まだ日が浅い時期のことだ。
ある日突然、頭の中に映像が流れ込んできた。
見たこともない物。
見たこともない人々。
そして、見たこともない光景。
現実とは思えないそれらに戸惑い、影朧はすぐに響牙達へ相談した。
事態を重く見た二人は、即座に検査を手配する。
診断書に目を落としながら、響牙は静かに説明した。
「どうやら、長いこと神晶石と繋がっていた影響で、体質が変異したみたいだ」
紙をめくり、続ける。
「霊力を通して、他人の記憶が見えるようになったらしい」
そこからは地獄だった。
妖怪の血を抑える神晶石の力は、狛人達から送られる霊力によって維持されている。
つまり接続している限り、否応なく他人の記憶が流れ込んでくるのだ。
そこに映るのは、決して綺麗なものばかりではなかった。
いじめ、悪口、愚痴、嫉妬、侮蔑——。
他者の記憶を通して、人間の醜い感情に触れ続けた影朧の精神は、安定するどころか、日ごとに削られていった。
それに比例するように、暴走の頻度も増していく。
かといって、接続を断つわけにもいかない。
暴走の危険性が跳ね上がるだけだ。
逃げ道のない、八方塞がりだった。
「まずいな……。あいつ、このままだと——」
ある日、自分のいないところで、克巳が響牙に低く告げる場面を見た。
「外に出ることも出来ずに、消滅するかもしれねぇ」
神晶石と接続し続ければ、二十歳を迎える前に同化する——。
そのこと自体は、前から知らされていた。
若くして死ぬことに、特別な不満はなかった。
こんな身体で長生きしたところで、碌な人生になるとも思えなかったからだ。
それでも——。
自由への渇望だけは、胸の奥に残り続けていた。
以前響牙が言っていた言葉を思い出す。
神晶石に願いを言えば、叶う。
――君は繋がっているから、近くに行かなくても届くだろう。
——もし、それが本当なら……。
影朧はそっと手を合わせた。
ほんの一時でいい。
たとえそれが常人にとっては、瞬きの間であろうとも構わない。
外に出たい。
自由が欲しい——。
事態が大きく動いたのは、それから少し経った頃のことだった。
「ちさき、皆に……怖がられない人になりたいの」
いつものように、他人の記憶という名の雑音に苛まれていたその最中。
不意にその声が、はっきりと意識に引っかかった。
映し出されたのは、今まで目にしたことのない幼い少女。
おそらくここに来たばかりなのだろう。
不安と緊張を滲ませながらも、真っ直ぐな願いを抱いた眼差し。
当時、神晶の社には、影朧と同じくらいの年頃の子供はいなかった。
だからこそ、その存在は、彼にとってひどく新鮮で——。
雑音の海の中で、初めて興味を持った、たった一つの記憶だった。
彼女——狗紙千咲は、自分とよく似た悩みを抱えていた。
千咲もまた、影朧ほどではないにせよ、妖怪の血が濃い個体だった。
現世での暴走。
そして、それをきっかけに家族から拒絶された記憶は、消えることのない傷として、彼女の心に深く刻まれている。
そのせいか、千咲は感情をあまり表に出さないように努めていた。
笑うときも、驚くときも、どこか一歩引いたような、静かな振る舞い。
社での彼女の暮らしは、凪いだ水面のように穏やかで、他の人間の記憶に触れたときのような、不快感や痛みはなかった。
けれど同時に、胸の奥がひどく締めつけられる。
それは——彼女が「穏やかに過ごしている」のではなく、周囲を傷つけないために、必死で感情を押し殺して生きているに過ぎなかったからだ。
その静けさが、あまりにも悲しく思えた。
いつの間にか、影朧は自然と彼女の記憶を追うようになっていた。
段々と、自分と似た痛みを抱える彼女に対して、静かな共感が芽生える。
不思議なことに、精神は以前よりも安定していった。
無意識のうちに、千咲の感情の抑え方を真似るようになっていたからだろう。
そこで影朧は考えた。
他者の記憶から、安定した精神の保ち方を学べば——。
安全だと判断され、外に出ることが出来るのではないか、と。
それからは、意識的に他人の記憶を見るようになった。
汚い感情や暴力的な衝動には極力目を逸らし。
穏やかさや思いやり、理性を保つための振る舞いを探し出す。
そうして、今の人格が、少しずつ形作られていった。
十七歳になった頃、ようやく外へ出る許可が下りた。
とはいえ、響牙と克巳の付き添い付きで、討伐の間だけの短い時間だったが。
初めて見た外の世界は、思っていたよりもずっと暗かった。
「今は夜だからね」
そう言って、響牙は苦笑した。
更に一年が経ち、十八歳。
ついに、念願だった地上での生活が認められた。
神晶石との接続は、相変わらず続いたまま。
このままでは、近いうちに完全に同化するだろうと告げられていた。
それでも、影朧は構わなかった。
ほんの僅かでも自由を得ることが出来て、そして——変わるきっかけをくれた彼女に、何か一つでも返せたら。
それで充分だと——。
——そう思っていたのに……。
「……四鬼崎さんといると、なんだか落ち着く」
映画から帰った後。
神晶石に霊力を注ぎながら、彼女がぽつりと零したその一言に、胸の奥が熱くなった。
抑えきれないほどの喜びが、確かにそこにあった。
——ああ、そうか。
その瞬間、はっきりと理解してしまった。
自分は彼女のことが好きなのだと。
「……いやだ」
初めて、消えたくないと思った。
もっと生きていたい。
もっとここにいたい。
もっと彼女のそばに、いたい——。
望んでしまった。
不相応な願いを持ってしまった。
彼女と過ごす時間が、あまりにも楽しくて。
他の人と親しくしている自分を見て、無自覚に嫉妬している彼女が、あまりにも愛おしくて。
あまりにも幸せだったから。
欲が出てしまった。
だからきっと、罰が当たったのだろう。
喉の奥が焼けつくように痛み、血が止まらない。
身体の内側から、じわじわと毒が侵食していくのが分かる。
苦しさに意識が霞む、その中で——。
声が降ってきた。
「貴方が、好きだから……だから……元に戻って……!」
必死で、泣きそうな声だった。
男は何か、とても大切なものを失くした気がした。
それがなんだったのかは思い出せない。
自分が何者なのかさえ——今の彼には分からない。
胸の奥に穿たれた空洞。
その穴を埋めるかのように、黒い破壊衝動が膨れ上がっていく。
それはいけないことだ、と——。
ほんの僅かに残った理性が警鐘を鳴らす。
だが、身体は言うことを聞かなかった。
そんなとき、誰かが自分の手に触れた。
——触るな。
反射的にもがき、振り払おうとした瞬間。
脳裏に、洪水のように映像が流れ込んでくる。
自分のものではない。
けれど、確かに知っている記憶。
巨大な勾玉が浮かぶ、不思議な空間。
菓子が並ぶ自販機。
誰かに向けて、穏やかに笑う自分。
暗いスクリーンいっぱいに広がる、夜空の花火。
——これは……。
知っている。
見覚えがある。
「私も……四鬼崎さんのこと、好き」
震えながらもはっきりと口にする、少女の声。
深く沈み込んでいた記憶が、底から次々と浮かび上がってきた。
——僕は……四鬼崎影朧。
失われていた輪郭が、ゆっくりと形を取り戻していく。
自分が何者であるのかを、確かに思い出しながら。
◇
影朧は、生まれて間もなく親元から引き離された。
理由はただ一つ——妖怪の血があまりにも濃く、周囲を無差別に攻撃してしまったからだ。
それ以来、彼はあの蔵の地下のプレハブ小屋で暮らしてきた。
神晶石と接続しても、暴走の危険性が完全に消えることはなく、精神が安定するまで幽閉を余儀なくされた。
五年が経っても、状況は好転しなかった。
定期的に暴走を繰り返し、そのたびに監視役の人間を傷つけてしまう。
怪我を負わせるたび、影朧は「ごめんなさい」と頭を下げた。
彼自身、誰かを傷つけたいと思ったことなど一度もない。
けれど暴走の最中は、壊したいという衝動が脳を支配し、どうしても抗えなかった。
監視の人々は、気にするなと笑ってくれる。
その優しさが、かえって彼の胸に重くのしかかる。
自分は、取り返しのつかない存在なのではないか。
生きてはいけない存在なのではないか。
そう思うほどに、自己嫌悪は深く、濃く、広がっていった。
異変が起きたのは、そこから二年が過ぎた頃だった。
影朧が七歳になり、新しい監視役として響牙と克巳に出会って、まだ日が浅い時期のことだ。
ある日突然、頭の中に映像が流れ込んできた。
見たこともない物。
見たこともない人々。
そして、見たこともない光景。
現実とは思えないそれらに戸惑い、影朧はすぐに響牙達へ相談した。
事態を重く見た二人は、即座に検査を手配する。
診断書に目を落としながら、響牙は静かに説明した。
「どうやら、長いこと神晶石と繋がっていた影響で、体質が変異したみたいだ」
紙をめくり、続ける。
「霊力を通して、他人の記憶が見えるようになったらしい」
そこからは地獄だった。
妖怪の血を抑える神晶石の力は、狛人達から送られる霊力によって維持されている。
つまり接続している限り、否応なく他人の記憶が流れ込んでくるのだ。
そこに映るのは、決して綺麗なものばかりではなかった。
いじめ、悪口、愚痴、嫉妬、侮蔑——。
他者の記憶を通して、人間の醜い感情に触れ続けた影朧の精神は、安定するどころか、日ごとに削られていった。
それに比例するように、暴走の頻度も増していく。
かといって、接続を断つわけにもいかない。
暴走の危険性が跳ね上がるだけだ。
逃げ道のない、八方塞がりだった。
「まずいな……。あいつ、このままだと——」
ある日、自分のいないところで、克巳が響牙に低く告げる場面を見た。
「外に出ることも出来ずに、消滅するかもしれねぇ」
神晶石と接続し続ければ、二十歳を迎える前に同化する——。
そのこと自体は、前から知らされていた。
若くして死ぬことに、特別な不満はなかった。
こんな身体で長生きしたところで、碌な人生になるとも思えなかったからだ。
それでも——。
自由への渇望だけは、胸の奥に残り続けていた。
以前響牙が言っていた言葉を思い出す。
神晶石に願いを言えば、叶う。
――君は繋がっているから、近くに行かなくても届くだろう。
——もし、それが本当なら……。
影朧はそっと手を合わせた。
ほんの一時でいい。
たとえそれが常人にとっては、瞬きの間であろうとも構わない。
外に出たい。
自由が欲しい——。
事態が大きく動いたのは、それから少し経った頃のことだった。
「ちさき、皆に……怖がられない人になりたいの」
いつものように、他人の記憶という名の雑音に苛まれていたその最中。
不意にその声が、はっきりと意識に引っかかった。
映し出されたのは、今まで目にしたことのない幼い少女。
おそらくここに来たばかりなのだろう。
不安と緊張を滲ませながらも、真っ直ぐな願いを抱いた眼差し。
当時、神晶の社には、影朧と同じくらいの年頃の子供はいなかった。
だからこそ、その存在は、彼にとってひどく新鮮で——。
雑音の海の中で、初めて興味を持った、たった一つの記憶だった。
彼女——狗紙千咲は、自分とよく似た悩みを抱えていた。
千咲もまた、影朧ほどではないにせよ、妖怪の血が濃い個体だった。
現世での暴走。
そして、それをきっかけに家族から拒絶された記憶は、消えることのない傷として、彼女の心に深く刻まれている。
そのせいか、千咲は感情をあまり表に出さないように努めていた。
笑うときも、驚くときも、どこか一歩引いたような、静かな振る舞い。
社での彼女の暮らしは、凪いだ水面のように穏やかで、他の人間の記憶に触れたときのような、不快感や痛みはなかった。
けれど同時に、胸の奥がひどく締めつけられる。
それは——彼女が「穏やかに過ごしている」のではなく、周囲を傷つけないために、必死で感情を押し殺して生きているに過ぎなかったからだ。
その静けさが、あまりにも悲しく思えた。
いつの間にか、影朧は自然と彼女の記憶を追うようになっていた。
段々と、自分と似た痛みを抱える彼女に対して、静かな共感が芽生える。
不思議なことに、精神は以前よりも安定していった。
無意識のうちに、千咲の感情の抑え方を真似るようになっていたからだろう。
そこで影朧は考えた。
他者の記憶から、安定した精神の保ち方を学べば——。
安全だと判断され、外に出ることが出来るのではないか、と。
それからは、意識的に他人の記憶を見るようになった。
汚い感情や暴力的な衝動には極力目を逸らし。
穏やかさや思いやり、理性を保つための振る舞いを探し出す。
そうして、今の人格が、少しずつ形作られていった。
十七歳になった頃、ようやく外へ出る許可が下りた。
とはいえ、響牙と克巳の付き添い付きで、討伐の間だけの短い時間だったが。
初めて見た外の世界は、思っていたよりもずっと暗かった。
「今は夜だからね」
そう言って、響牙は苦笑した。
更に一年が経ち、十八歳。
ついに、念願だった地上での生活が認められた。
神晶石との接続は、相変わらず続いたまま。
このままでは、近いうちに完全に同化するだろうと告げられていた。
それでも、影朧は構わなかった。
ほんの僅かでも自由を得ることが出来て、そして——変わるきっかけをくれた彼女に、何か一つでも返せたら。
それで充分だと——。
——そう思っていたのに……。
「……四鬼崎さんといると、なんだか落ち着く」
映画から帰った後。
神晶石に霊力を注ぎながら、彼女がぽつりと零したその一言に、胸の奥が熱くなった。
抑えきれないほどの喜びが、確かにそこにあった。
——ああ、そうか。
その瞬間、はっきりと理解してしまった。
自分は彼女のことが好きなのだと。
「……いやだ」
初めて、消えたくないと思った。
もっと生きていたい。
もっとここにいたい。
もっと彼女のそばに、いたい——。
望んでしまった。
不相応な願いを持ってしまった。
彼女と過ごす時間が、あまりにも楽しくて。
他の人と親しくしている自分を見て、無自覚に嫉妬している彼女が、あまりにも愛おしくて。
あまりにも幸せだったから。
欲が出てしまった。
だからきっと、罰が当たったのだろう。
喉の奥が焼けつくように痛み、血が止まらない。
身体の内側から、じわじわと毒が侵食していくのが分かる。
苦しさに意識が霞む、その中で——。
声が降ってきた。
「貴方が、好きだから……だから……元に戻って……!」
必死で、泣きそうな声だった。


